「退職した社員が制服を返してくれない。請求したいけど、雇用契約書に返却のことは何も書いていなかった……」。少人数の組織では、こうした場面で「書面の根拠がないから泣き寝入りするしかないのか」と感じてしまうことがあります。しかし、契約書に記載がなくても費用請求の根拠は存在します。この記事では、請求できる3つの法的根拠と、今後のための規程整備のポイントを実務目線で解説します。
契約書に記載がなくても返却義務は生じる
雇用契約書や就業規則に「制服を返却すること」と明記していなくても、法律上の返却義務は存在しうるというのが重要な出発点です。
使用貸借という考え方
会社が従業員に制服を着用させる関係は、民法上の使用貸借(民法593条)に準じると解釈できます。使用貸借とは、物を無償で貸し、使用目的が終了したら返還するという契約です。制服の場合、「在職中に着用する」という目的が退職によって終了した時点で、返還義務が生じると主張することは法的に合理的です。
ただし、この根拠はあくまで「争いになったときに主張できる水準」にとどまります。書面の裏付けがなければ、実際の回収や費用請求は格段に困難になります。
損害賠償請求の可能性
返却を求めたにもかかわらず拒否された場合は、不法行為または債務不履行を根拠にした損害賠償請求(民法709条・415条)も理論上は可能です。ただし、請求が認められるには「会社に実際の損害が発生していること」と「損害額の合理的な算定ができること」が必要です。購入価格・使用年数・残存価値を踏まえて金額を算出しなければならず、数年使用済みの制服では実損額が小さく、回収コストに見合わないケースがほとんどです。
就業規則への記載が「第3の根拠」になる
就業規則に「退職時には貸与物品を返却すること」「返却しない場合は実費相当額を請求できる」と定めることで、請求の根拠が明確になります。就業規則は労働契約の内容を補充する効力があり(労働契約法7条)、周知されていれば従業員に対して拘束力を持ちます。この3つの根拠(使用貸借・損害賠償・就業規則)を組み合わせて主張することで、費用請求の実効性が高まります。
給与・退職金からの差し引きは原則できない
「最後の給与から差し引けばいい」と考えるケースが多いですが、これは労働基準法に抵触するリスクが高く、最も注意が必要な落とし穴です。
賃金全額払いの原則とは
労働基準法第24条は「賃金はその全額を支払わなければならない」と定めており、使用者が一方的に賃金から控除することを禁止しています。制服の未返却を理由に黙って給与を差し引いた場合、元従業員から労働基準監督署に申告され、未払い賃金の支払いを求められるリスクがあります。退職後のトラブルとしては非常に発展しやすいパターンです。
例外的に控除が認められる条件
唯一の例外は、本人が自由な意思に基づいて書面で同意している場合です。最高裁判所の日新製鋼事件(平成2年11月26日判決)が示した判断枠組みでは、「賃金との相殺に同意した場合でも、その同意が自由な意思に基づくものでなければ効力を認めない」とされています。
実務上有効なのは、退職手続きの書類の中に「未返却物品の実費を給与から控除することに同意する」旨の条項を設け、退職前に署名・捺印を得ておく方法です。ただし、退職後に事後的に強制的な控除を行うことは違法リスクが高いため、絶対に避けてください。
退職金からの差し引きも同様のリスクがある
退職金についても同様です。就業規則に「未返却物品がある場合は退職金から控除できる」と明記し、かつ本人が同意している場合は一定の根拠となりますが、就業規則への記載だけで一方的に控除することはリスクを伴います。退職金の控除を検討する場合は、事前に労務の専門家に確認することを強くお勧めします。
費用請求の金額をどう算定するか
費用請求を進める場合、「いくら請求できるか」の算定根拠が必要です。感覚的な金額ではなく、合理的な計算方法を使うことが重要です。
残存価値をベースにした計算
請求できるのは「実損額」であり、購入価格をそのまま請求することは通常認められません。以下の考え方で算定するのが合理的です。
| 項目 | 考え方 |
|---|---|
| 購入価格 | 会社が実際に支出した金額を起点にする |
| 耐用年数 | 制服の想定使用年数(例:3年)を設定する |
| 使用期間 | 当該従業員の在職期間を考慮する |
| 残存価値 | 購入価格 × (残余耐用年数 ÷ 耐用年数)で算出する |
例として、購入価格2万円・耐用年数3年・使用1年の制服であれば、残存価値は「2万円 × 2年/3年 ≒ 約1万3,000円」となります。この残存価値を実損額として請求することが合理的な算定根拠になります。
罰則規定の設け方と「賠償予定の禁止」
就業規則に「返却しない場合は実費を請求できる」と規定することは可能ですが、労働基準法第16条「賠償予定の禁止」に注意が必要です。同条は、労働契約の不履行に対してあらかじめ損害賠償額を定めることを禁止しています。「未返却の場合は一律5万円の違約金」といった固定額のペナルティを設定することは、この条文に抵触するリスクがあります。「実費相当額を請求できる」という記載にとどめ、固定の違約金は設けないことが重要です。
今後のための規程・書類整備
今回の問題を機に規程を整備しておくことが、最も確実な再発防止策です。整備すべき内容と優先順位を以下に整理します。
就業規則への追記か、別規程の作成か
貸与物品に関するルールは、就業規則の「服務規律」または「退職時の手続き」の条項に追記する方法と、「貸与物品管理規程」として別途作成する方法があります。従業員が30名未満で就業規則が比較的シンプルな場合は、就業規則への追記で十分なことが多いです。一方、制服以外にもノートPC・社用車・社員証など貸与物品が多岐にわたる場合は、別規程として整理したほうが管理しやすくなります。いずれの場合も、変更後は従業員への周知(掲示・共有フォルダへの格納など)が必須です。
「貸与物品受領書」と「退職時返却チェックリスト」の整備
規程を整備しても、運用が伴わなければ「知らなかった」「渡した」という水掛け論になります。実効性を高めるために最低限整備すべき書類は次の2点です。
- 貸与物品受領書:入社時または制服支給時に、品目・数量・貸与日を記載したうえで本人の署名をもらう。「退職時に返却する義務があること」を明記しておく。
- 退職時返却確認チェックリスト:退職手続きの中で、制服を含む全貸与物品の返却状況を確認し、双方が署名する。返却完了の証跡を残すことが、後のトラブル防止につながる。
このプロセスを採用面接や入社オリエンテーションの段階から標準化しておくことで、退職時の摩擦を大幅に減らすことができます。
既に書類が何もない場合の優先対応
今まさに未返却の問題が発生していて、かつ書面が何もない状態であれば、まず内容証明郵便で返却請求書を送付することを検討してください。返却期限と請求金額の算定根拠を明記し、期限内に返却がない場合は法的手続きを検討する旨を付け加えることで、相手方に対して請求の本気度を示す効果があります。ただし、金額が少額の場合は少額訴訟(60万円以下の金銭請求が対象)が利用できる選択肢の一つです。
「書面がないから対応できない」と諦める必要はありませんが、法的根拠と実務の乖離に困っているのであれば、一度労務の専門家に相談することで最適な対応方法が見える可能性があります。
自社の状況に応じた優先対応の判断
同じ「制服を返却しない」問題でも、自社の状況によって取るべき対応は異なります。以下の分岐を参考にご自身のケースに当てはめてください。
書類・規程の有無による対応の違い
就業規則に返却義務の記載があり、受領書の署名もある場合は、まず内容証明による返却請求を行い、応じない場合は少額訴訟や支払督促といった法的手続きに進む根拠が整っています。一方、就業規則に記載がなく、受領書もない場合は、法的根拠が弱い状態です。この場合は元従業員との交渉で任意の返却・和解を優先し、並行して規程整備を進めるのが現実的です。
制服の金額・状態による費用対効果の判断
費用請求を進めるかどうかは、制服の残存価値と回収コストのバランスで判断することが重要です。残存価値が数千円程度の使用済み制服であれば、弁護士費用や事務コストが上回ることがほとんどです。一方、高額なユニフォームや未使用品、複数セットが未返却の場合は、少額訴訟(訴訟費用が低廉)を活用する経済的合理性があります。経営判断として「今回は規程整備に注力し、請求は断念する」という選択も、少人数組織では合理的な判断です。
人事の判断だけで決められない場合や、法的リスクとビジネス上の判断を一緒に考えたいなら、気軽に相談できる態勢を整えておくと判断がしやすくなります。
まとめ
制服を返却しない退職者への費用請求は、民法上の使用貸借・損害賠償・就業規則の3つを根拠として組み合わせることで成立します。ただし、書面の裏付けがないと実効性は大きく下がり、給与からの一方的な差し引きは労働基準法第24条違反のリスクがあります。今後の再発防止には、就業規則への追記・貸与物品受領書・退職時返却チェックリストの3点をセットで整備することが最も確実な対策です。
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