「頑張っている社員に報いたい。でも、何の根拠もなく賃金を上げるのは不公平だし、そもそも就業規則に書いていないまま出してもいいのだろうか」——特別昇給の対応に迷う経営者・人事担当者の声は、中小企業でとくに多く聞かれます。社長の一存で昇給が決まる状態が続くと、選ばれなかった社員の不満が蓄積し、優秀な人材ほど離れていくリスクがあります。この記事では、特別昇給を制度として機能させるための5つの要件と、属人的にならない承認フローの設計方法を、法的根拠とともに実務目線で解説します。
特別昇給と定期昇給の違い、そして使いどころ
特別昇給とは、定期昇給のサイクルとは別に、特定の事由に該当した社員の賃金を引き上げる仕組みです。まず両者の違いと使いどころを整理することが、制度設計の出発点になります。
定期昇給との本質的な違い
定期昇給は、あらかじめ定めた時期(多くは4月)に、在籍期間・評価結果などに基づいて広く実施されるものです。一方、特別昇給は「通常の昇給サイクルを待てないほどの貢献があった」「採用競争力を維持するために個別に処遇を改善する必要がある」といった、個別・例外的な事情に対応するための手段です。定期昇給が「全体の底上げ」なら、特別昇給は「ピンポイントの処遇改善」と理解するとわかりやすいでしょう。
どんな場面で使われるか
実務上よく見られるのは、次のような場面です。新規プロジェクトを牽引して大きく業績に貢献した社員への報奨、採用市場での引き抜きリスクが高い中核人材の処遇見直し、定期昇給では追いつかないほどのスキルアップが認められるケースなどです。いずれも「今対応しなければ人材が離れる」または「貢献に対してすぐに報いることで動機づけを高める」という目的があります。
制度化しないリスク
制度がないまま特別昇給を行うと、選ばれた側・選ばれなかった側の双方に不信感が生まれます。「なぜあの人だけ上がったのか」という疑問に経営者が答えられない状態は、職場全体の信頼を損ないます。小規模組織ほどこうした情報は瞬く間に広がるため、「制度なき特別昇給」は長期的にはモチベーション低下を招きます。
就業規則・賃金規程への記載が必要な理由
特別昇給を実施するには、就業規則または賃金規程に根拠規定を設けることが法律上の要請です。記載がないまま行うことは、法的リスクを抱えた運用になります。
労働基準法が定める絶対的必要記載事項
労働基準法第89条は、「賃金の決定、計算・支払の方法、賃金の締切り・支払の時期、昇給に関する事項」を就業規則の絶対的必要記載事項と定めています。特別昇給は「昇給」の一形態ですから、この規定の対象に含まれます。「代表取締役が認めた場合に行うことがある」という一文だけでも根拠規定にはなりますが、それだけでは運用の安定性と社員の納得感を確保するには不十分です。
常時10人以上の事業場は届出が必要
常時10人以上の労働者を使用する事業場は、就業規則の作成・変更のたびに労働基準監督署への届出義務があります(労働基準法第89条・第90条)。特別昇給の規定を新設・変更する際も同じです。10人未満の事業場であっても、就業規則を整備しておくことは労使トラブル防止の観点から強く推奨されます。
パートタイム・有期雇用社員との均衡も確認する
正社員を対象とした特別昇給制度であっても、同一の業務・責任を担うパートタイム社員や有期雇用社員との処遇差については、パートタイム・有期雇用労働法(短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律)第8条・第9条(不合理な待遇差の禁止・差別的取扱いの禁止)に照らして合理的な説明ができるか確認が必要です。「正社員だから対象」という理由だけでは説明が不十分になる場合があります。
特別昇給を制度化する5つの要件
特別昇給を制度として機能させるには、賃金規程に以下の5つの要件を明文化することが基本です。要件が明確であるほど、社員の納得感と運用の一貫性が高まります。
賃金規程に定めるべき5つの要件
| 要件 | 内容例・考え方 |
|---|---|
| 対象者要件 | 在籍1年以上、直近の人事評価でA評価以上、など定量的な条件を設ける |
| 実施時期・回数 | 定期昇給時以外の任意タイミング、または年2回以内など上限を設定する |
| 昇給額・率の上限 | 月額1万円以内、または基本給の5%以内など上限を明示する |
| 承認権者 | 所属長→人事担当→代表取締役の三段構造が基本(後述) |
| 申請・審査フロー | 推薦者・審査方法・決定時期・通知方法を明記する |
対象者要件の設計ポイント
対象者要件は「誰でも申請できる」状態を防ぎながら、正当な貢献には応えられる粒度に設定することが重要です。在籍期間と評価スコアの組み合わせが最もシンプルで使いやすい形です。「突出した業績貢献」「高度な資格取得」「採用市場で引き抜きリスクが高いと判断された場合」など、適用事由をカテゴリーで列挙しておくと、「なぜ自分ではないのか」という問い合わせへの説明がしやすくなります。
昇給額の上限設定が重要な理由
上限を設けない設計にすると、特別昇給が積み重なって人件費が想定外に膨らむリスクがあります。また、一度引き上げた基本給は労働契約法第9条・第10条の原則により労働者に不利な形では一方的に変更できません。「試しに上げてみて、業績が落ちたら戻す」という対応は法的に困難です。上限の明示は経営リスク管理の観点からも不可欠です。
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属人的にならない承認フローの設計
特別昇給を制度として定着させるカギは、承認フローの設計にあります。「推薦→評価→決裁」の三段構造が、小規模企業でも属人性を下げる最も実効性の高い方法です。
三段構造フローの具体的な運用イメージ
まず、所属長(部門マネージャー等)が対象社員を推薦し、推薦理由と業績根拠を書面で提出します。次に、人事担当者(兼務でも可)が要件充足の確認と他部門との均衡チェックを行います。最後に、代表取締役が最終決裁を行い、辞令・通知書を発行します。「推薦者」と「決裁者」を分けることが最大のポイントです。社長が推薦も決裁も行う一人完結型では、どれだけ規程を整備しても運用は属人的になります。
書面化・記録化を徹底する
評価根拠(業績指標・行動評価・具体的な貢献事実)は必ず書面で残してください。口頭のみの決定は、後から「聞いていない」「基準が変わった」というトラブルの温床になります。決定後は対象者に辞令または昇給通知書を発行し、本人の署名・受領確認を取ることを標準フローに組み込みましょう。
非選定者へのフィードバック機会を設ける
制度があっても選考プロセスが見えなければ、「ブラックボックス」という不信感が生まれます。個人情報への配慮は必要ですが、選定されなかった社員に対して「今回選定されなかった理由」を所属長が個別に説明する機会を設けることは、制度の透明性と社員の信頼維持に大きく貢献します。これは義務ではありませんが、小規模組織ほど人間関係への影響が大きいため、運用ルールとして定めておくことを強く推奨します。
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制度設計でつまずきやすい落とし穴
特別昇給制度の設計では、制度を作った後に気づく落とし穴が存在します。事前に把握しておくことで、後から修正が必要になる事態を防げます。
「上げた賃金は下げられない」原則を理解する
労働契約法第9条・第10条により、労働者に不利な労働条件の一方的変更は原則として無効です。特別昇給によって基本給を引き上げた後、「業績が落ちたから元に戻す」という対応は法的に認められません。これを回避するには、制度設計の段階で「基本給に組み込むか」「業績手当など変動的な手当として支給するか」を明確に区分しておく必要があります。基本給への組み込みは不可逆性が高いことを前提とした設計が不可欠です。
基準が曖昧だと問い合わせが増える
「優秀な社員が対象」「著しく貢献した者」のような抽象的な表現だけでは、「私も当てはまるはずだ」という申し出が増え、対応コストが跳ね上がります。対象者要件は在籍年数・評価スコア・適用事由のカテゴリーなど、できる限り客観的・定量的な表現にしてください。完全に定量化できない部分については、「所属長と代表取締役の協議による」など意思決定主体を明示しておくことで、恣意的な印象を軽減できます。
従業員数・既存制度の有無で優先順位が変わる
就業規則そのものが整備されていない段階にある10人未満の事業場では、まず就業規則の作成から着手する必要があります。既に就業規則はあるが特別昇給の記載がない場合は、賃金規程への条文追加と労働基準監督署への変更届出が優先事項です。すでに就業規則・賃金規程が整備されている場合は、承認フローの書面化と運用ガイドラインの整備がネクストステップになります。自社の状況に合わせて、どこから手をつけるかを判断してください。
人事制度の設計は、一人で抱え込むと判断ミスや手戻りが増えます。わからないことがあれば、早めに専門家に相談することが賢明です。
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まとめ
特別昇給を制度として機能させるには、就業規則・賃金規程への明文化、5つの要件の設定、そして「推薦→評価→決裁」の三段承認フローの整備が基本です。一度引き上げた基本給は原則として下げられないという法的制約を踏まえた上で、基本給への組み込みか変動手当での対応かを設計段階で明確にしておくことが、後々のトラブルを防ぐ最大のポイントになります。
「就業規則をどう書き直せばいいかわからない」「承認フローを整備したいが社内に人事の専門知識がない」という状況は、専任人事のいない中小企業ではごく一般的です。ウェルセンス株式会社では、人事制度の整備から運用サポートまで、御社の規模と実情に合わせた形でご支援しています。特別昇給制度の設計に不安を感じている方は、まずお気軽にご相談ください。
よくある質問
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