「異動の内示を出したら、翌週に退職の申し出が来てしまった」——こうした事態は、20〜50名規模の会社ほど起きやすい問題です。異動先の受け入れ体制を整え、後任の調整まで始めていた矢先に退職を告げられると、経営者・人事担当者は「引き止められるのか」「損害賠償は請求できるのか」「どの順番で何をすればいいのか」と、複数の疑問が一度に押し寄せます。この記事では、異動内示後の退職申し出について、法的な整理から実務対応の手順まで順を追って解説します。
「内示」は正式な辞令ではない——法的位置づけを正確に理解する
内示の段階では、まだ配置転換命令としての法的効力は発生していません。この点を誤解したまま対応すると、後のトラブルにつながります。
内示と辞令の違い
内示とは「近く正式な辞令を出す予定である」という事前告知にすぎません。正式な配置転換命令(辞令)とは区別されます。就業規則に「内示後○日以内に辞令を発する」という規定がある場合は解釈が変わることもありますが、そうした規定がない一般的なケースでは、内示段階で労働条件の変更は確定していません。
配置転換命令は、就業規則に根拠規定があり、権利の濫用に当たらない範囲で使用者が行使できる指揮命令権(最高裁昭和61年7月14日・東亜ペイント事件が代表的な判例として引用されます)の行使として認められています。ただし、その効力が生じるのはあくまで辞令が発令されてからです。
「伝えたのだから効力がある」は誤解
専任人事がいない中小企業では、「口頭で内示を伝えた=命令した」と思い込んでいるケースが少なくありません。しかし内示は予告であり、社員が退職を申し出た時点で辞令がまだ出ていなければ、「命令に反して退職した」とは言えません。この前提を押さえておかないと、損害賠償や引き止めの判断を誤ります。
就業規則に内示の規定はあるか確認する
まず自社の就業規則を確認してください。内示の定義・効力・退職申し出との関係について何らかの規定がある場合は、その内容が対応の起点になります。規定がない場合は、一般的な民法の原則(後述)が適用されます。規定の有無によって対応の選択肢が変わるため、この確認は最初のステップです。
退職を止められるか——民法・就業規則・実務の現実
結論から言えば、正社員(期間の定めのない雇用)の退職を会社が法的に阻止することは、原則としてできません。ただし、退職時期の調整を求めることは可能です。
民法627条が保障する退職の自由
期間の定めのない雇用契約(正社員の大多数がこれに当たります)では、民法第627条第1項により、社員はいつでも退職を申し出ることができ、申し出から2週間が経過すれば雇用契約は終了します。この規定は強行規定的性質を持ちます。
就業規則で「退職希望日の1か月前に申し出ること」と定めていても、会社がその期間を理由に退職を拒否し続けることは、実務上難しい対応です。2週間経過後に社員が出社しなくなった場合、無断欠勤として扱うことはできません。
就業規則の「1か月前申告」規定との関係
就業規則に1か月前申告の規定があることは無意味ではありません。退職までの引継ぎ期間として1か月の協力を「お願いする」根拠にはなります。ただし、それを強制することはできず、違反しても退職を無効にはできません。引継ぎへの協力を促す際の対話の材料として活用するのが現実的な使い方です。
引き止めが逆効果になるケース
退職の意思を持つ社員を強引に引き止めることには、複数のリスクがあります。モチベーションが低下した状態で残留した場合の職場環境への悪影響、引き止め時の言動がパワーハラスメント(労働施策総合推進法・令和2年厚生労働省告示第5号の指針が定義する業務上必要性のない言動や人格否定等)と認定されるリスクが代表的です。退職届を「受け取らない」「返送する」といった対応も、退職の意思表示の到達を法的に止める効力はなく、かえってトラブルを大きくします。
損害賠償請求は現実的か——判断のための基準
「異動のために動いたコストを損害賠償で回収したい」と考える経営者は少なくありませんが、認められるケースは限られており、立証ハードルも高いのが現実です。
原則として損害賠償は認められない理由
退職の自由は憲法・民法が保障する権利です。適法な退職に対して損害賠償を請求することは、原則として認められません。また、就業規則に「退職により生じた損害を賠償する」と定めていても、労働基準法第16条が「賠償額を予定する契約の禁止」を定めており、損害賠償額をあらかじめ固定することは禁止されています。
例外的に損害賠償が認められうる条件
以下のような特別な事情が重なる場合に、裁判所が会社側の請求を一部認めた事例は存在します。ただし、認容される金額は限定的なことが多く、費用対効果を慎重に検討する必要があります。
| 条件 | 具体例 |
|---|---|
| 退職の方法・時期が著しく信義則に反する | 引継ぎを一切拒否したまま翌日付で退職するなど |
| 競業他社への転職で不正競争防止法上の問題が生じる | 営業秘密を持ち出しての転職など |
| 特別な費用負担の合意が書面で存在する | 留学費用・資格取得費用の返還義務を明示的に合意していた場合など |
「異動の準備コスト」はほぼ認められない
後任の採用費・引継ぎにかかった時間・研修費などは、通常の業務範囲内のコストとみなされやすく、退職を原因とする損害としては認められにくい傾向があります。損害の「存在・範囲・因果関係」のすべてを会社側が立証する必要があり、そのハードルは実務上かなり高いと理解しておく必要があります。損害賠償の検討は、弁護士への早期相談とセットで考えてください。
内示後に退職申し出があったときの実務対応手順
感情的になりやすい局面だからこそ、踏むべき順番を事前に把握しておくことが重要です。対応を誤ると労務リスクが残るため、以下の流れを参考にしてください。
申し出を受けた直後にすること
まず、退職申し出の内容を口頭だけで終わらせず、書面(退職届または退職願)の提出を求めます。口頭のみでは後々「言った・言わない」の問題が起きやすいためです。次に、申し出の背景・理由を丁寧にヒアリングします。この段階では引き止めや反論をせず、まず状況の把握に徹することが重要です。異動の内示が退職の直接的な引き金になっているかどうか、本人のメンタル状態や家庭事情が絡んでいないかも確認します。
ヒアリングは経営者または人事担当者が行い、現場マネージャーには任せないことを原則にしてください。感情的なやり取りが起きやすく、発言が後々ハラスメントと捉えられるリスクを避けるためです。
退職の受け入れ可否・条件を社内で検討する
ヒアリング後、まず社内で方針を決めます。確認すべきポイントは次のとおりです。
- 辞令はすでに発令されているか、それとも内示段階か
- 就業規則に内示・退職申し出に関する規定があるか
- 引継ぎに必要な期間はどれくらいか
- 異動先・移動元の体制にどの程度影響が出るか
- 損害賠償を検討すべき特別な事情はあるか
これらを整理した上で、退職を受け入れる方向で交渉を進めるか、一定期間の在籍協力を依頼するかを決めます。「辞めさせない」という方針は、前述の法的理由から現実的ではないことを前提にしてください。
退職交渉と引継ぎの取り決め
退職を受け入れる場合でも、引継ぎの期間・内容については就業規則の規定を根拠に協力を求めることができます。この際、業務上必要な引継ぎの範囲を明確にし、文書で残しておきます。また、異動先への説明・後任への対応も並行して進める必要があるため、対応の優先順位を明確にしておきましょう。退職日・引継ぎ範囲・退職金や未払い賃金の精算については、最終的に退職合意書で確認することを推奨します。
20〜50名規模の会社特有のリスクと注意点
小規模組織では1名の退職が組織全体に連鎖的な影響を与えます。この規模特有の課題を把握しておくことで、事前の備えが可能になります。
1名の退職が引き起こす連鎖
20〜50名規模では、1名が担う業務の幅が広く、異動と退職が重なると複数部門に同時に影響が出ます。特に内示後の退職では、異動先・異動元・後任採用の三方向で調整が必要になるため、情報共有の遅れが現場の混乱を拡大させます。退職申し出を受けた当日中に、影響範囲を整理しておくことが重要です。
専任人事がいない場合の対応体制
専任人事がいない会社では、経営者または兼務担当者が退職交渉から引継ぎ調整まで一人で対応せざるを得ません。この場合、感情的なやり取りになりやすく、後々「あの時こう言われた」という形でトラブルに発展するリスクがあります。対応の記録(日時・発言内容・出席者)を必ず残す習慣をつけてください。対話は1対1ではなく、可能であれば2名で対応することも有効です。
メンタル不調が背景にある可能性を見落とさない
異動の内示をきっかけに退職申し出が来る場合、その背景にメンタル不調(適応障害・うつ状態など)が潜んでいることがあります。本人が「異動が嫌なのではなく、そもそも限界に来ていた」というケースも少なくありません。産業医が選任されている場合(常時50人以上の事業場は法的に義務、50人未満は努力義務)は面談を検討し、そうでない場合も外部の相談窓口の活用を案内することが、後の労務トラブル防止につながります。対応の判断に迷ったときは、人事の専門家に相談することで、法的リスクと本人の状態の両面から最適な方針を決めることができます。
まとめ
異動内示後の退職申し出は、法的整理・実務対応・組織への影響という三つの軸で同時に判断しなければならない、難易度の高い人事課題です。内示は正式な辞令ではなく、正社員の退職を法的に阻止することは原則できません。損害賠償が認められるケースは限られており、感情的な引き止めはハラスメントリスクを生みます。まず就業規則を確認し、書面で申し出を受け取り、背景をヒアリングした上で引継ぎ条件を整理する——この流れを冷静に踏むことが、会社側のリスクを最小化します。
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よくある質問
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