「内定承諾書にサインをもらったのに、入社1週間前に辞退の連絡が来た。求人媒体費もエージェント費用も、全部無駄になった——」。そんな経験をした経営者・人事担当者から、「損害賠償請求はできないのか」という相談は少なくありません。怒りと焦りの中で法的対応を検討するのは自然なことです。ただ、動く前に知っておくべき現実があります。この記事では、内定辞退に対する損害賠償請求の法的根拠・限界・現実的なリスク、そして次の採用を守るための予防策までを整理します。
内定辞退への損害賠償請求は「原則として難しい」
結論から言えば、内定承諾後の辞退に対して損害賠償を請求することは法律上まったく不可能ではありませんが、実際に認められるケースは非常に限られます。「承諾書をもらった=請求できる」という前提で動くと、時間・費用・採用ブランドを二重に失うリスクがあります。
内定の法的な位置づけ
採用内定は、法律上「始期付・解約権留保付労働契約」が成立した状態とされています。これは最高裁昭和54年の大日本印刷事件判決で示された解釈で、現在も採用実務の基本となっています。つまり、内定通知を受けて求職者が承諾した時点で、すでに労働契約が始まっているとみなされます。
この結果、内定辞退は「労働者側からの労働契約の解約(辞職)」にあたります。民法第627条は、期間の定めのない労働契約については2週間前に予告すれば解約できると定めており、この権利は事前の合意によっても制限できません。内定承諾書にどれだけ強い文言が書かれていても、この解約権を奪うことはできないのです。
損害賠償が認められる「例外的なケース」とは
損害賠償の法的根拠としては、民法第415条(債務不履行)または民法第709条(不法行為)が考えられます。ただし裁判例の傾向として、単なる内定辞退だけでは賠償は認められにくいのが現実です。
例外的に認められる可能性があるのは、辞退の態様が「著しく信義則に反する」と判断される場合です。具体的には、他社内定の取得を故意に隠して引き延ばした、虚偽の意思表示をして内定を受諾した、入社直前まで辞退の意思を隠し続けた、といったケースが該当しうると考えられています。「辞退そのもの」ではなく「辞退の仕方・経緯」が問われる点が重要です。
内定承諾書は「絶対的な根拠」にはならない
多くの経営者が「承諾書にサインをもらったから請求できるはず」と考えます。確かに承諾書は誠意ある対応を期待できる証拠にはなりますが、損害賠償の自動的な根拠にはなりません。さらに注意すべきは、「辞退した場合に○○円を支払う」といった違約金・損害賠償額の予定条項です。これは労働基準法第16条が禁止しており、仮に承諾書に記載しても無効とされる解釈が有力です。承諾書への過信が「絶対に取れる」という誤った確信につながり、弁護士費用を無駄にするケースは少なくありません。
採用コストはどこまで「損害」として認められるか
損害賠償が認められるとしても、請求できる金額は「採用にかかった全費用」ではなく、辞退と因果関係が明確な費用に限定されます。採用プロセス全体のコストを丸ごと回収することは現実的ではありません。
採用コストの種類と請求可能性の目安
中小企業が内定辞退で失う主なコストと、損害として認められやすさの目安を以下に整理します。
| コストの種類 | 具体例 | 損害として認められやすさ |
|---|---|---|
| 求人媒体費 | 求人サイトへの掲載料 | 低い(採用全体に使う費用のため) |
| 人材紹介手数料 | エージェントへの成功報酬 | 低〜中(辞退との直接因果関係の立証が困難) |
| 入社準備費用 | 制服・備品・研修テキスト等 | 中(辞退者のために用意したと証明できれば) |
| 面接・選考コスト | 担当者の工数・交通費等 | 低い(通常の選考コストとして許容範囲とされやすい) |
人材紹介会社の成功報酬は年収の20〜35%相当になることも多く、中小企業にとっては大きな痛手です。しかし「エージェント経由で採用したこと」と「辞退」の因果関係を法的に立証するのは容易ではなく、裁判でも全額認容されるケースはほとんどありません。
少額訴訟という選択肢の現実
訴訟コストを抑える手段として「少額訴訟」(60万円以下の金銭請求を対象とする簡易な手続き)を検討する経営者もいます。ただし少額訴訟にも課題があります。まず、損害の立証責任は請求する側にあります。次に、相手方(辞退した候補者)が争う姿勢を示せば通常訴訟に移行する可能性があります。さらに、勝訴しても相手方が任意に支払わない場合は強制執行の手続きが別途必要です。弁護士に依頼すれば弁護士費用が回収額を上回るケースも珍しくなく、費用対効果の観点から現実的ではないことがほとんどです。
請求行動が引き起こす「採用ブランドリスク」
法的に請求できる状況であったとしても、実際に請求行動を起こすことが企業にとって最善かどうかは別の話です。20〜50名規模の中小企業にとって、採用ブランドへのダメージは長期的に深刻な影響をもたらします。
SNS・口コミサイトでの拡散リスク
内定辞退者に損害賠償を請求したという事実は、SNSや転職口コミサイト(OpenWorkなど)で拡散されるリスクがあります。「内定辞退したら訴えられた」という投稿が広がれば、その後の採用候補者が応募をためらう可能性があります。大手企業であれば一時的な炎上が採用力全体に影響しにくいケースもありますが、小規模企業は地域や業界内でのネットワークが限られているため、一度の評判悪化が採用活動全体に直結しやすい構造があります。
「請求する権利」と「請求すべきか」は別の問い
怒りの中にある経営者には、法的な正当性と現実的な判断を切り分けて考えることが重要です。「請求できるかどうか」と「請求すべきかどうか」は異なる問いです。特に採用活動を継続・再開しなければならない状況では、請求対応に費やす時間・エネルギー・費用を次の採用に集中させる方が、会社全体の利益につながることがほとんどです。感情的に納得が難しい場面でも、こうした視点を持つことが経営判断として重要です。
内定辞退を「防ぐ」ための採用プロセス改善
損害賠償の議論と並行して、多くの経営者が抱えるのは「次回同じことが起きないようにしたい」という予防的な関心です。内定辞退の根本的な対策は、採用プロセスそのものを見直すことにあります。
内定辞退が起きやすい場面と原因
内定辞退の背景には、候補者側の事情(他社内定の取得・家族の反対・条件変更など)だけでなく、企業側のコミュニケーション不足が影響していることも少なくありません。内定通知から入社日までの期間中、候補者との接点がなければ不安や迷いが生じやすく、他社のフォローに負けてしまうケースもあります。特に内定承諾から入社まで2〜3か月以上空く場合は注意が必要です。
採用プロセスで実践できる予防策
次の採用で内定辞退リスクを下げるために、以下のような取り組みが有効です。
- 内定後も定期的に連絡を取り、入社への期待感を維持する(内定者フォロー)
- 職場見学・既存社員との面談機会を設け、入社後イメージを具体化する
- 条件面の疑問・不安を早期に解消する面談を設ける
- 内定承諾の期限を明確にし、長期間の「検討中」状態を避ける
- 採用後の配属・業務内容を可能な限り具体的に伝える
内定承諾書は「法的拘束力のある契約書」ではありませんが、署名のプロセスを通じて候補者に入社への意識を高めてもらうコミュニケーション上の効果は期待できます。ただし、それだけに頼るのではなく、承諾後の関係構築に力を入れることが現実的な対策です。
就業規則・採用フローの整備状況による対応の違い
専任人事のいない中小企業では、採用フローが属人的になりがちです。就業規則が整備されている企業では、内定取消・辞退に関する手続きを明文化しておくことで、後々のトラブル対応がしやすくなります。一方、就業規則が未整備または最終更新が10年以上前という企業では、採用トラブルが起きたときの対応方針が曖昧になりやすいため、この機会に見直しを検討することをおすすめします。
内定辞退トラブルで「やってはいけない」対応
感情的になりやすい場面だからこそ、法的・実務的に問題になる対応を事前に把握しておくことが重要です。やってはいけない行動を知っておくことで、二次被害を防げます。
本人への強引な引き止め・圧力
辞退の意思を示した候補者に対し、繰り返しの電話・メール・自宅訪問などで翻意を迫ることは、ハラスメントまたは強要と受け取られるリスクがあります。候補者が辞退の意思を示した場合は、その意思を尊重した上で、理由を丁寧に聞く程度にとどめるのが適切です。
SNS・口コミへの感情的な投稿・反論
辞退された怒りをSNSで発信したり、候補者が書いた口コミに感情的に反論したりすることは、企業イメージを著しく損ないます。口コミサイトへの反論は内容の正当性に関わらず「対応が攻撃的な会社」という印象を与えがちです。不本意な内容であっても、公式対応は冷静かつ事実に基づいた内容に限定してください。
証拠を残さない口頭対応だけで進める
後に法的対応や再採用時の参考にするためにも、内定辞退の連絡・やり取りはメールや書面で記録を残しておくことが大切です。口頭のみのやり取りでは、いつ・どのような経緯で辞退があったかが曖昧になり、万が一の際に不利になります。
まとめ
内定承諾後の辞退に対して損害賠償請求を行うことは、法律上まったく不可能ではありません。ただし認められるのは「辞退の態様が著しく信義則に反する」ような例外的なケースに限られ、採用コストの多くは損害として認定されにくい現実があります。内定承諾書は重要な書類ですが、それ自体が辞退を禁止したり違約金を設定したりする効力は持ちません。さらに請求行動は、採用ブランドへの二次的ダメージを引き起こすリスクがあることも考慮する必要があります。経営者・兼務人事担当者に求められるのは、感情的な対応ではなく、採用プロセスの改善と内定者フォローの強化による「次を防ぐ」取り組みです。
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