「休職に入る社員から傷病手当金のことを聞かれたけど、どこまで説明すればいいんだろう」——ある日突然、そんな場面に直面した経営者・人事担当者は少なくないはずです。専任の人事担当者がいない職場では、制度の詳細を把握するのも一苦労。「教えなかったら後でトラブルになるのでは」という不安を抱えながら、その場しのぎの対応になってしまうことも多いのではないでしょうか。この記事では、法的な義務の有無から、会社として「どこまで案内すべきか」の線引き、記録の残し方まで、実務で使える形で整理します。
会社に傷病手当金の説明義務はあるのか
結論から言えば、会社に傷病手当金の説明を義務付けた明文法は存在しません。ただし、法的リスクがまったくないわけでもないという「グレーゾーン」に位置する問題です。
健康保険法上の会社の役割
傷病手当金は健康保険法第99条に定められた被保険者の権利です。申請の主体はあくまで従業員本人であり、会社(事業主)に課されているのは、申請書の「事業主記載欄」への証明という協力義務(健康保険法施行規則第84条等)にとどまります。「制度の内容を従業員に説明しなければならない」と明示した条文は、現行法には存在しません。
安全配慮義務との関係
問題は、労働契約法第5条に基づく安全配慮義務の観点です。この義務は「身体の安全」だけでなく、「労働者が適切に権利行使できるよう必要な情報を提供する附随義務」として解釈される余地があります。仮に従業員が「会社に教えてもらえなかったから傷病手当金を受け取れなかった」と主張した場合、裁判例によっては会社側の説明不足が問題視されるケースもあります。「義務ではないから何も説明しなくていい」とは言い切れないのが実態です。
就業規則・休職規程の記載にも注意
もう一点見落としがちなのが、自社の就業規則や休職規程の内容です。「休職開始時に会社が各種制度の説明を行う」などの記載がある場合、それ自体が会社の債務となります。規程に書かれているのに実際には案内していなかった、というケースは「義務違反」として問題になり得ます。逆に言えば、規程に書きすぎると義務の範囲が広がる、ということも意識しておく必要があります。
傷病手当金の制度の基本をおさえる
案内する側が制度の骨格を正確に理解していなければ、誤った説明をするリスクが生じます。ここでは会社として把握しておくべき要点を整理します。
支給要件と支給額の考え方
傷病手当金は、業務外の傷病による療養であること、労務不能であること、そして連続3日間の「待期期間」を満たした4日目以降から支給対象となります。支給額は、支給開始日以前の継続した12ヶ月間の各月の標準報酬月額を平均した額の30分の1に、3分の2を乗じた金額が目安です。なお、給与が支払われている期間は傷病手当金は支給されないか、差額支給となる点も重要です。
2022年改正で変わった「通算1年6ヶ月」のルール
2022年1月1日施行の健康保険法改正により、傷病手当金の支給期間の計算方法が変わっています。改正前は「支給開始日から起算して1年6ヶ月を超えない期間」でしたが、改正後は「通算して1年6ヶ月」となりました。これにより、途中で復職して給与が支払われた期間は支給期間に含まれなくなりました。休職中に復職と再休職を繰り返すケースでは特に重要な変更点であり、案内時には最新の制度内容を伝えることが必要です。
対象となる保険の種類
傷病手当金の対象は、全国健康保険協会(協会けんぽ)または健康保険組合の被保険者です。国民健康保険の加入者は対象外となります。パートタイマーや短時間労働者が社会保険に加入していない場合は受給できないため、雇用形態ごとに確認が必要です。
会社が案内すべき範囲と健保に任せるべき範囲
会社が「どこまで説明するか」の線引きは、「会社の役割」と「健保(協会けんぽ・健保組合)の役割」を明確に分けることで整理できます。
会社が担うべき案内の範囲
会社として案内すべき内容と、健保側に委ねるべき内容を以下の表で整理します。
| 対応内容 | 担当 |
|---|---|
| 傷病手当金という制度が存在することを伝える | 会社が案内すべき |
| 支給要件の概要(待期3日・4日目以降・給与の約2/3相当) | 概要レベルで案内するのが望ましい |
| 申請書の入手先(協会けんぽのウェブサイト・窓口等) | 会社が案内すべき |
| 申請書の「事業主記載欄」への証明・記入 | 会社の協力義務 |
| 申請書の詳細な記載方法の指導 | 健保の役割(会社は問い合わせ先を案内するにとどめる) |
| 支給額の個別計算 | 健保が行う(会社の役割ではない) |
| 申請書類の代行提出 | 原則として本人申請(代理申請は要件あり) |
「健保に聞いてください」だけで終わらせてはいけない理由
担当者が制度を把握できていないからといって、「詳しくは健康保険組合に確認してください」と伝えるだけで終わらせるのは不十分です。休職に入る従業員は、精神的・体力的に余裕がない状態であることが多く、「どこに問い合わせればいいか」すらわからないケースもあります。制度の存在・窓口・申請書の入手方法を書面でセットにして渡すことが、会社としての適切な対応といえます。
メンタル不調による休職者への対応の注意点
メンタル不調で休職する従業員の場合、問い合わせの際に混乱していたり、攻撃的な言動が見られたりすることもあります。このような場面では、口頭での長時間の説明は避け、書面を手渡しながら「まず休養に専念してください」と簡潔に伝えることが重要です。複雑な内容を一度に説明しようとすると、かえって相手の負担を増やしてしまいます。
対応の仕方に迷っている場合や、メンタル不調の従業員への対応に自信がない場合は、専門家のアドバイスを受けることで対応品質を一段階上げることができます。
案内文書の整備と記録の残し方
案内の内容・深さが担当者によってバラバラだったり、「説明した・していない」の記録がなかったりすることが、後のトラブルの火種になります。仕組みとして整備することが最も確実な対策です。
案内文書として整備しておくべき内容
休職者向けの案内文書には、以下の内容をまとめておくと実用的です。制度の存在と概要、申請書の入手先(協会けんぽのURL等)、申請書の事業主記載欄への対応窓口(社内の担当者・連絡先)、健保への問い合わせ先。これをA4一枚程度のシンプルな書面にまとめ、休職開始時に渡すことで、担当者による案内のばらつきを防げます。
「渡した記録」を必ず残す
案内文書を作成しても、渡した事実の記録がなければ後から「もらっていない」と言われるリスクがあります。対面で渡した場合は受領確認書にサインをもらう、メールで送付した場合は送信履歴を保管する、といった方法で証跡を残す習慣をつけましょう。「説明した」という口頭のやり取りだけでは記録として不十分です。
自社の規模・状況に応じた整備レベルの考え方
従業員数や社内体制によって、整備すべき水準は変わります。休職者がほとんど出ない小規模な職場では、まず案内文書の雛形を一枚作成することからスタートで十分です。一方、休職者が一定数発生する規模の職場では、休職規程に案内フローを明記し、チェックリスト形式で対応状況を管理するとより安心です。いずれの場合も、就業規則や休職規程の記載内容と実際の運用が乖離しないよう注意が必要です。
説明が不十分だった場合のリスクと対処
万が一、案内が漏れていた・不十分だったと後から発覚した場合、迅速な対応と誠実なコミュニケーションが重要です。
従業員から「教えてもらえなかった」と言われたとき
まず事実関係を落ち着いて確認することが先決です。案内した記録がある場合はそれを根拠に説明できますが、記録がない場合は対応状況を正直に共有し、今からでもできることを提示する姿勢が信頼回復につながります。法的責任の有無にかかわらず、「会社は自分のことを考えてくれていない」という感情的なすれ違いが深刻なトラブルに発展することが多いためです。
既に申請期限が過ぎていた場合の対応
傷病手当金の時効は、受給できる日ごとに翌日から2年間です(健康保険法第193条)。「期限が過ぎてしまった」と相談を受けた場合でも、時効を迎えていない分については申請できる可能性があります。こうした場合は会社が勝手に判断せず、協会けんぽや健保組合に確認するよう案内することが適切です。
社労士や専門家への相談を活用する
休職対応の頻度が増えてきた、または対応に自信が持てないと感じてきた場合は、社会保険労務士などの専門家に相談することを検討する時機です。顧問契約に至らなくても、スポット相談で休職規程や案内文書のレビューを依頼するだけで、リスクを大きく下げられます。「何かあってから相談する」よりも、「仕組みを整える段階で相談する」方が、コストも精神的な負担も小さく済みます。
まとめ
傷病手当金の説明を会社に義務付けた明文規定はありませんが、安全配慮義務の観点や自社規程の内容によっては、説明を求められる場面があります。会社が担うべきなのは「制度の存在・概要・申請書の入手先の案内」と「事業主記載欄への証明」であり、詳細な計算や申請書の記載指導は健保の役割です。対応のばらつきやトラブルを防ぐには、休職者向けの案内文書を整備し、渡した記録を残す仕組みを作ることが効果的です。
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