「面談で伝えたし、本人も頷いていた。それで十分だと思っていたのに——」。昇給見送りをめぐるトラブルは、こうした「伝えたつもり」から始まることが少なくありません。口頭で伝えた内容は、記録がなければ会社側の主張を裏付ける証拠にはなりません。後から「聞いていない」「納得していない」と言われたとき、どれだけ不利な立場に置かれるか、多くの経営者・人事担当者はイメージできていないのが実情です。この記事では、昇給見送りを書面で通知する正しい手順と、紛争リスクを最小化するための実務的な対策をわかりやすく解説します。
昇給見送りに書面通知の法的義務はあるか
結論から言えば、昇給見送り自体に「書面で通知しなければならない」という明文規定は労働基準法上存在しません。しかし、だからといって口頭だけで済ませてよいわけではありません。
法令が求めていること・求めていないこと
労働基準法第15条および施行規則第5条は、労働契約を締結するときに「昇給に関する事項」を明示することを使用者に義務づけています。これはあくまで採用時の話であり、昇給を見送るたびに書面を交付する義務を課したものではありません。
一方、労働契約法第3条・第4条は、労働条件は合意によるものであり、使用者は労働者に内容を理解させるよう努める義務があると定めています。「伝えた」という事実の証明責任は会社側にあるため、口頭のみでは後日の立証が極めて困難になります。
「法的義務がない」は「リスクがない」ではない
義務がないことと、トラブルが起きないことはまったく別の話です。口頭通知だけで進めた場合、次のようなリスクが現実になります。
- 本人が「そんな話は聞いていない」と主張しても反論できない
- 労働審判や労働局のあっせん手続きで、会社側に不利な事実認定がなされる
- 他の従業員への示しがつかず、職場全体の不満・不信感につながる
書面通知は「義務だからやる」のではなく、「会社を守るためにやる」という発想の転換が重要です。
就業規則・賃金規程の記載が判断の分かれ目になる
昇給見送りが法的に問題になるかどうかは、就業規則や賃金規程の文言に大きく左右されます。「毎年4月に昇給する」と明記されている場合、その昇給は従業員の既得の権利(確定した労働条件)とみなされる可能性があります。この場合、見送りは事実上の不利益変更に当たり、後述する降給と同様の慎重な対応が求められます。一方、「業績・評価に応じて昇給を検討する」という記載であれば、会社の裁量として見送ることができます。まずは自社の規程を確認することが第一歩です。
昇給見送りと降給の法的な違いを理解する
昇給見送り(給与を現状維持)と降給(給与を引き下げる)は、法的な取り扱いがまったく異なります。同じ感覚で処理してしまうと、深刻な法的リスクを招きます。
昇給見送りは原則として会社の裁量
就業規則に「昇給は会社の業績・個人評価による」と定められていれば、昇給見送りは原則として会社の意思決定として有効です。ただし、評価の根拠を示さずに「今年は見送り」とだけ伝えると、本人の感情的な反発や不信感を招き、後のトラブルの火種になります。評価基準と判断の経緯を丁寧に説明することが、実務上の最大のリスクヘッジになります。
降給には個別合意が必要
現在支払っている給与を引き下げる降給は、労働契約法第8条により、原則として労働者との個別合意が必要です。口頭での合意も法律上は無効ではありませんが、後から「合意していない」と争われた場合、会社側は著しく不利な立場に置かれます。降給を行う際は、必ず書面(同意書)で合意を取得してください。
なお、就業規則の変更によって降給を行う方法もありますが、労働契約法第10条により、変更に「合理的な理由」があり、かつ「従業員への周知」が必要です。合理性が認められなければ、就業規則の変更による降給は無効とされます。
昇給見送りと降給の比較
| 区分 | 給与への影響 | 法的根拠・要件 | 書面の必要性 |
|---|---|---|---|
| 昇給見送り | 現状維持 | 就業規則の裁量規定があれば可能 | 義務なし・ただし強く推奨 |
| 降給 | 引き下げ | 労働契約法第8条・第10条 | 書面による個別合意が実務上必須 |
書面通知の正しい手順と記録化の実務
昇給見送りをトラブルなく進めるには、「面談で伝える→書面で残す→署名・受領確認をとる」という三段階の流れを徹底することが重要です。
面談前に準備しておくこと
面談に入る前に、まず評価の根拠と判断の経緯を整理します。「業績が悪かったから」という一言では感情的な反発を招くだけです。どの評価項目がどのような水準だったか、会社全体の業績状況、昇給見送りの判断に至った経緯を具体的に説明できるよう準備してください。評価制度が明文化されていない場合は、この機会に評価基準を文書化することを検討しましょう。
面談中に残すべき記録
面談後は、できるだけ当日中に面談記録(メモ)を作成します。記録には次の情報を含めてください。
- 面談日時・場所・参加者
- 昇給見送りの事実と適用される期間(例:2025年4月分給与より現行給与を維持)
- 見送りの理由・根拠(評価結果、業績状況など)
- 本人の反応・発言(要点を客観的に記載)
- 次回の見直し時期の目安(伝えた場合)
メモは人事担当者と上長の2名で確認・保存する体制が望ましいです。
書面通知書の作成と受領確認
面談後、昇給見送りの通知書を書面で交付します。通知書には、適用開始日・現行給与額・見送りの理由・評価根拠・会社代表者(または人事責任者)の署名を明記します。本人には内容を確認したうえで受領のサインまたは押印を求めてください。「受け取りたくない」と言われた場合は、メールで送付し開封確認を取る方法も有効です。送付記録(メール送信履歴)も必ず保存しておきましょう。
従業員の反応が強い場合や対応に迷った場合は、専門家に相談しながら進めることで、後々のトラブルを未然に防ぐことができます。
後から異議申立が起きたときの対処フロー
記録を残していても、本人が後から異議を申し立てることはあります。重要なのは、その段階で会社側が何をどれだけ証拠として持っているかです。
異議申立が発展するルート
本人が「聞いていない」「納得していない」と主張した場合、問題は段階的に拡大します。まず社内での申入れが行われ、解決しなければ労働基準監督署への申告、都道府県労働局のあっせん制度の申請、そして労働審判へと進む可能性があります。労働審判は申立てから原則3回以内の期日で決定が出るため、会社側が証拠を収集・整理する時間はほとんどありません。この段階で「面談はしたが記録がない」という状態では、会社側の主張が通らないリスクが高まります。
会社が持つべき証拠の優先順位
トラブル発生時に効果的な証拠の優先順位は次のとおりです。書面の通知書(本人署名あり)が最も強力で、次いで面談記録・メール送付履歴、就業規則・賃金規程の写し、評価記録、そして当時の業績データや会議議事録が続きます。就業規則や評価制度が整備されていない小規模企業では、メールのやり取りや給与明細の送付記録だけでも記録として機能します。あるもので残す、という姿勢が大切です。
専門家を使うタイミングの目安
本人から書面で異議が申し立てられた段階、または労働基準監督署から調査の連絡が来た段階で、社会保険労務士または弁護士への相談を検討してください。「まだ大事になっていないから」と先延ばしにすると、対応の選択肢が狭まります。外部専門家への相談を躊躇する経営者も多いですが、早期相談ほどコストと時間の節約になることを覚えておいてください。
自社の状況に応じた対応レベルの判断基準
すべての企業が同じ対応をする必要はありません。自社の規模・就業規則の整備状況・対象従業員との関係性によって、対応の深度を調整することが現実的です。
就業規則の整備状況で変わる対応
就業規則が適切に整備され、昇給に関する規定が「会社の裁量」と明記されている場合は、書面通知と面談記録の保存で十分なリスク管理ができます。一方、就業規則がない(または10名未満で作成義務がない)企業や、昇給の定めが曖昧な企業では、書面通知に加えて本人の署名・確認印を必ず取得する対応を徹底してください。規程の整備が追いついていない場合は、今回の昇給見送りを機に賃金規程の見直しを検討することを強くお勧めします。
対象従業員との関係性・勤続年数による考慮
勤続年数が長い従業員や、過去に「毎年上げてきた」実績がある従業員への見送りは、慣行として昇給が期待されている可能性があります。こうしたケースでは、見送りの理由説明をより丁寧に行い、次回の見直し時期や改善に向けた期待値を明示することが、感情的な反発とその後のトラブルを防ぐ実務的な判断です。
メンタルヘルス配慮が必要な場合の留意点
従業員が休職中・復職直後など、メンタルヘルス上の配慮が必要な状況で昇給見送りを伝える場合は、通知のタイミングと方法に特別な注意が必要です。体調や精神的安定性への影響を最小化するため、伝える内容・伝え方・タイミングについて産業医や支援専門家に事前相談することが望ましい場合があります。
まとめ
昇給見送りに書面通知の明文義務はありませんが、口頭だけでは後日のトラブル対応で会社側が著しく不利になります。面談記録の作成・書面通知の交付・受領確認の取得という三段階を習慣化することが、最も現実的なリスクヘッジです。降給を検討する場合は、個別の書面合意が実務上必須であることも忘れないでください。そして、就業規則や賃金規程の文言が曖昧なままであれば、個別対応の前提となるルールの整備から着手することが根本的な解決策です。
人事対応は「これはどう対応すればいいのか」という判断の連続です。「うちは今まで問題が起きていないから大丈夫」という状態は、記録がないために問題が表面化していないだけのケースも少なくありません。昇給見送りや給与変更の対応に少しでも不安を感じているなら、ウェルセンス株式会社にお気軽にご相談ください。人事専任担当者がいない中小企業の実務的なサポートを専門としており、対応が終わる前のご相談も大歓迎です。
よくある質問
ウェルセンスは、メンタル不調者対応・休職復職支援に強い職場メンタルケアサービスです。産業医・保健師・心理士・社労士などの専門家ネットワークが、人事・管理職だけでは判断しづらいケースの初動対応、専門家連携、再発防止まで支援します。
不調者対応を、人事だけで抱えない。
メンタル不調者面談や休職・復職対応を、1件からスポットでご相談いただけます。


