退職した社員から内容証明郵便が届いた瞬間、多くの経営者・人事担当者は頭が真っ白になります。「この金額は本当に正しいのか」「どこまで遡られるのか」「弁護士が出てきたらどう対応すれば?」——専任人事のいない中小企業ほど、こうした不安が重くのしかかります。本記事では、未払い残業代請求への対応を請求額の妥当性確認から示談交渉・再発防止まで、実務の流れに沿って解説します。
請求書が届いたときの初期対応
まず「承認」と取られる言動を避ける
内容証明郵便を受け取った直後の言動が、その後の交渉を大きく左右します。絶対に避けてほしいのが、「確認してご連絡します」「払える分は払います」といった曖昧な返答です。民法上、こうした発言は債務の「承認」と見なされ、消滅時効がリセット(更新)されてしまうリスクがあります。
まずは内容を受け取ったことだけを確認し、回答は保留にした上で、専門家(社労士・弁護士)に相談する時間を確保してください。これだけで、その後の交渉が大きく異なります。
請求書に記載された情報を整理する
次に、届いた請求書から以下の4点の情報を書き出します。
- 請求対象期間(「いつからいつまでの残業代か」)
- 請求金額の合計
- 計算の根拠(時給単価・残業時間数・割増率)
- 回答期限
回答期限が2週間以内に設定されているケースが多いですが、期限内に専門家への相談・社内調査を完了させることが現実的かどうかを見極めることが重要です。必要であれば「回答期限の延長」を書面で求めることも選択肢に入ります。
証拠となる社内資料を即時保全する
請求を受けた時点で、関連する社内資料を一箇所に集めて保全します。具体的には以下のものです。
- 当該社員の雇用契約書・労働条件通知書
- 給与明細・賃金台帳
- タイムカードや勤怠システムの打刻データ
- 36協定の締結・届出書類
- 就業規則(特に残業・固定残業代に関する条文)
これらが後の反論材料になりますので、削除・上書きが起きないよう担当者を明確にして管理してください。
請求額の妥当性を自社で検証する方法
割増賃金の計算式と基礎単価の落とし穴
割増賃金は「1時間あたりの基礎賃金 × 割増率 × 時間数」で算出されます。請求額が正しいかどうかを確認するには、まず「基礎賃金(基礎単価)」の計算が正しいかを見ます。
ここで最もよくあるミスが、役職手当や営業手当を基礎賃金から除外しているケースです。労働基準法施行規則第21条が定める除外できる手当は、以下の7種類のみです。
- 家族手当
- 通勤手当
- 別居手当
- 子女教育手当
- 住宅手当
- 臨時に支払われる賃金
- 1か月を超える期間ごとの賃金
これ以外の手当を除外した計算は過少払いになるため、元社員側が「高い単価」で計算してくる根拠にもなります。
割増率については、以下の基準に従います。
- 法定時間外(月60時間以内):25%以上
- 月60時間超:50%以上(中小企業は2023年4月から適用)
- 法定休日労働:35%以上
- 深夜労働(22時~5時):25%以上
- 時間外と深夜が重複する場合:50%以上
元社員が深夜帯に常態的に働いていた場合、この重複割増が請求額を大幅に引き上げることがあります。
固定残業代(みなし残業)は有効に機能しているか
「うちは固定残業代として毎月2万円払っていた」という反論は、要件を満たさないと法的に無効とされます。
最高裁(2017年・医療法人社団康心会事件)が示した有効要件は、以下の3点です。
- 基本給と固定残業代の金額・対応時間数が明示されていること
- 固定残業時間を超えた分の追加支払い規定があること
- これらが就業規則・雇用契約書に明記されていること
「手当として払っているから残業代はない」という認識だけでは認められません。雇用契約書を確認し、時間数の記載がなければ固定残業代の主張は難しいと考えてください。
勤怠記録がない場合の対処法
タイムカードや打刻データを保存していないケースでは、会社側の反論材料が限られます。ただし「記録がないから全額払わなければいけない」というわけでもありません。
メールの送受信時刻、PCのログオン・ログオフ記録、入退館ログ、業務報告書の提出時刻など、間接的に労働時間を推定できる証拠を探します。また、元社員が主張する残業時間が現実的かどうか(「毎日3時間残業していた」という主張が業務量・他の記録と整合するか)を検討し、交渉の根拠を積み上げることが重要です。
消滅時効と時効援用を正しく理解する
2020年改正で生じた「混在期間」の考え方
2020年4月の労働基準法改正により、未払い賃金の消滅時効は原則2年から3年(当面の措置)に延長されました。ただし、適用のルールは「支払期日」を基準にします。
- 2020年4月1日以降に支払期日が到来した賃金債権:3年
- 2020年3月31日以前に支払期日が到来した賃金債権:2年
たとえば2022年3月に退職した社員から請求を受けた場合、2019年4月以前の分は2年時効で既に消えている可能性があり、2020年4月以降の分は3年時効として残っているという計算になります。請求書に記載された期間をこの基準で精査することで、実際に支払義務が残る期間が絞り込めます。
時効援用の手続きと注意点
消滅時効は、会社側が「時効を援用する」という意思表示をして初めて効力が生じます(民法第145条)。この意思表示は内容証明郵便で書面送付するのが一般的です。
ただし時効の援用は交渉の場で行うものであり、法的な主張として正確に行わなければ無効になるリスクもあります。社労士・弁護士が関与していない段階で安易に援用の意思表示をすることは避け、専門家に文面を確認してもらった上で送付することを強くお勧めします。
また、時効期間内であっても「承認」にあたる言動があればリセットされる点は繰り返し注意が必要です。
弁護士・ユニオンが出てきた場合の示談交渉
代理人との交渉で守るべき基本ルール
元社員が弁護士や合同労組(ユニオン)を代理人に立ててきた場合、窓口は必ず書面・メールに統一し、口頭でのやり取りは避けるのが原則です。電話での発言が後から「承認した」と主張されるリスクがあるためです。
回答期限については、社内調査や専門家への相談に必要な時間を理由として延長を申し入れることが認められるケースが多くあります。「誠実に対応する姿勢を示しつつ、拙速な合意はしない」という基本姿勢を徹底してください。
示談(和解)の落としどころと和解書の必須記載事項
示談で解決する場合、請求額全額を支払う義務はありません。時効援用による減額、計算誤りの是正、証拠の不十分さを踏まえた減額交渉が可能です。実務的には請求額の50~80%程度で和解に至るケースも珍しくありませんが、事案の内容によって大きく異なります。
和解書(合意書)には、必ず「清算条項」(「本件に関してこれ以上の請求は一切しない」旨の文言)を入れることが重要です。清算条項がなければ、和解後に追加請求されるリスクが残ります。また、分割払いとする場合は期日・金額・遅延時の取り扱いも明記してください。
労働審判・訴訟に発展した場合の心構え
交渉が決裂し、労働審判や訴訟に発展するケースもあります。労働審判は申立てから原則3回以内の期日で審理が完結する迅速な手続きで、多くの場合は調停(話し合いによる解決)が試みられます。
裁判所が関与することで第三者的な視点から妥当な解決額が示されるため、交渉段階より早期解決につながることもあります。いずれにせよ、この段階では弁護士への委任が不可欠です。初期対応から弁護士・社労士と連携しておくことで、万一発展した場合の対応コストを大幅に抑えられます。
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在籍社員への波及を防ぐ勤怠・賃金制度の整備
勤怠記録の保存ルールを今すぐ見直す
労働基準法第109条は、賃金台帳・出勤簿などの法定帳簿を5年間(当面3年)保存することを義務付けています。クラウド型勤怠システムを導入していても、データの保存期間設定を「1年」にしたままのケースが散見されます。
まずシステムの保存期間設定を確認し、過去分のエクスポート・バックアップを行ってください。紙のタイムカードを使用している場合も、スキャンしてデータ化した上で5年分保存する体制を整えます。
固定残業代・みなし残業の設計を適法に整える
固定残業代を設定している場合、雇用契約書・就業規則・給与明細の3点に「何時間分の残業代として、金額はいくら」を明記します。在籍社員の雇用契約書を見直し、時間数の記載がないものは次の更新時または同意を得た上で書き直すことが必要です。
また、固定残業時間を実態として超過している社員がいないかを確認し、超過分の追加支給が適切に行われているかをチェックしてください。「みなし残業を設定しているから残業代は発生しない」という誤解は、今回のような請求リスクの温床になります。
36協定の上限管理と定期的な労務監査
36協定(時間外・休日労働に関する労使協定)で定めた上限時間を超えた時間外労働は、それ自体が法令違反です。特に繁忙期に協定時間を超えていないかを月次でモニタリングする仕組みがない企業は要注意です。
年に一度、社労士による簡易労務監査(賃金計算の適法性・協定の有効性・帳簿の整備状況のチェック)を受けることで、問題の早期発見と証拠能力の向上の両面で効果が得られます。一件の請求対応にかかるコストを考えれば、予防的な投資の費用対効果は非常に高いといえます。
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まとめ
退職者からの未払い残業代請求は、初期対応の誤りが交渉を一気に不利にします。請求書を受け取ったらまず安易な「承認」を避け、証拠を保全した上で専門家に相談することが最優先です。請求額の妥当性は基礎単価・割増率・固定残業代の有効性の3点で検証し、消滅時効の混在期間を正確に把握することで支払い義務の範囲を絞り込めます。示談交渉では清算条項を必ず入れ、将来の追加請求リスクを断ち切ることが重要です。そして個別対応にとどまらず、勤怠記録の整備・固定残業代の適法化・36協定の管理といった制度面の見直しが、次の請求を未然に防ぐ本質的な解決策になります。
ウェルセンス株式会社では、こうした労務リスクへの対応を経営者・兼務人事担当者の方と一緒に考えるご支援をしています。「請求書が届いて何から手をつければいいかわからない」「在籍社員の残業実態が不安」という段階からでも、お気軽にご相談ください。
よくある質問
ウェルセンスは、メンタル不調者対応・休職復職支援に強い職場メンタルケアサービスです。産業医・保健師・心理士・社労士などの専門家ネットワークが、人事・管理職だけでは判断しづらいケースの初動対応、専門家連携、再発防止まで支援します。
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