「給与を多く払いすぎてしまった。でも、返してもらえるのか、どう伝えればいいのかわからない」——そんな状況に直面したとき、専任人事のいない職場では特に判断に迷います。給与過払いの返還請求は法的に可能ですが、進め方を誤ると労働トラブルや社員との関係悪化につながります。この記事では、給与過払いの返還請求に関する法的根拠から、社員への正しい伝え方・実務的な回収手順まで、現場で使える知識を整理します。
給与過払いは「返してもらえる」のか
不当利得返還請求権という法的根拠
結論から言えば、会社は誤って支払った給与を社員に返還請求することができます。根拠となるのは、民法703条・704条に定める「不当利得返還請求権」です。「法律上の原因なく利益を受けた者は、その利益を返還しなければならない」という原則に基づき、誤払いされた金額は社員が得た不当利得とみなされます。
「会社のミスなのに社員に返してもらえるの?」と感じる方もいますが、ミスの原因が会社側にあっても、給与過払いの返還請求権そのものは消えません。ただし、請求できる範囲に注意が必要です。
「使ってしまった」と言われた場合の扱い
社員が「過払いと知らずに使い切ってしまった」(善意で消費した)場合、返還義務は「現存利益の範囲内」に限られます(民法703条)。たとえば、5万円の過払いがあっても、すでに生活費に充てて手元に残っていなければ、全額の返還を強制することは難しくなります。
一方、社員が「これは多い」と気づきながら(悪意で)使い続けた場合は、利息を含めた全額返還が求められます(民法704条)。発覚が遅れた場合は、社員がいつ過払いを認識していたかが回収額に影響するため、事実確認の段階でこの点も確かめておきましょう。
給与過払い対応の心理的ハードルを乗り越える
小規模の組織では社員との距離が近いぶん、「会社のミスなのに返却を求めるのは心苦しい」という感情が生まれやすいです。しかし、放置すれば経理上の問題が積み重なるだけでなく、後から発覚した際により大きなトラブルに発展します。「会社として正しく処理するための手続き」として、早めに動き出すことが双方にとって最善です。
給与天引きで回収してはいけない理由
労働基準法第24条「全額払いの原則」とは
「次の給与から差し引けばいい」と考える方は少なくありませんが、これは労働基準法第24条(全額払いの原則)に違反するリスクがあります。同条は「賃金は全額を支払わなければならない」と定めており、会社が一方的に給与から過払い分を控除することは、原則として認められていません。
実際、天引きを強行した後に社員から「未払い賃金がある」と労基署に申告されるケースもあります。給与過払いの回収を急ぐあまり、より大きなトラブルを招かないよう注意が必要です。
例外的に認められるケースと条件
ただし、すべての天引きが違法というわけではありません。最高裁判例(昭和44年・福島県教組事件)では、同一賃金計算期間内の過払いを翌月に清算・調整することは24条違反にならないとされています。たとえば、6月分給与の計算ミスが6月中または7月初旬に発覚した場合、7月の給与で速やかに調整することは実務上許容されやすいと考えられています。
給与過払いを控除で回収する場合は、次のいずれかの対応が必須です。まず社員から書面による同意(返還誓約書・同意書)を取得するか、次に労使協定を締結したうえで控除を行うことが求められます。いずれも「口頭だけ」では不十分で、書面化が必須です。
分割返済が現実的かつ関係性を守る理由
一度に多額の控除をすることは、社員の生活を著しく圧迫します。たとえば、月給25万円の社員に対して10万円の過払い分を一括控除すれば、手取りが激減し生活への影響は深刻です。実務的には、毎月の控除額を給与の10〜20%程度に抑えた分割返済の合意を取り付けるのが、関係性を守りながら確実に回収するうえで最も現実的な方法です。
時間が経ってから発覚した場合の対処法
過払い発覚の遅延と消滅時効
数ヶ月、あるいは1〜2年後に誤払いが発覚するケースは珍しくありません。「今さら言えるのか」と感じる方も多いですが、法的には請求可能です。不当利得返還請求権の消滅時効は、民法改正(2020年4月施行)後、「権利を行使できると知った時から5年」または「権利を行使できる時から10年」とされています(民法166条)。発覚が遅れても、時効の範囲内であれば給与過払いの返還請求ができます。
なお、社員側の未払い賃金請求権(労基法115条)は3年ですが、会社側の過払い回収は不当利得として扱われるため、より長い時効が適用される点に注意が必要です。
長期間にわたる給与過払いへの対応方針
2年間にわたって毎月1万円の過払いが続いていたとすれば、総額は24万円に上ります。このような場合、一括返還を求めることは社員の生活に大きな打撃を与えるだけでなく、感情的なトラブルに発展するリスクも高まります。
現実的な対応としては、まず全体の過払い額を正確に算出し、次に社員と丁寧に協議したうえで、無理のない返還計画(例:毎月1万円ずつ、24回払いなど)を書面で合意することが重要です。金額が大きくなるほど、弁護士や社会保険労務士などの専門家を交えた対応も検討に値します。
社員への伝え方——関係性を守るコミュニケーション設計
伝えるタイミングと場の設定
「どう伝えるか」は、「法的に返還請求できるか」と同じくらい重要です。特に小規模組織では、伝え方一つで関係性が大きく変わります。給与過払いを把握したらできるだけ早いタイミングで動くことが原則です。時間が経てば経つほど、社員側の「なぜ今さら」という感情が強くなります。
伝える場は、他の社員に聞こえない個室を設け、プライバシーに配慮します。上司や経営者など、社員が信頼している人物から直接伝えることで、「責められている」という感覚を和らげることができます。
最初の一言の組み立て方
第一声は「こちらのミスで申し訳ないのですが」という謝罪から始めることが大切です。会社のミスであることを明確に認めたうえで、「正しく処理するために確認させてほしい」というトーンで話を進めます。「返してもらう」という表現より、「一緒に解決したい」というニュアンスで伝えると、協力を得やすくなります。
具体的には次のような流れが効果的です。最初に事実(いつ、いくら、なぜ誤払いが起きたか)を説明し、次に会社として正しい処理をする必要があることを伝え、最後に返還の方法について社員の状況を聞きながら一緒に検討する、という流れです。
書面化で双方を守る
口頭での合意だけでは、後から「そんな話は聞いていない」というトラブルになりかねません。合意内容は必ず書面(返還誓約書・分割返済合意書など)に残しましょう。書面には、過払い額・返還方法(一括または分割)・返還期日・控除の場合は給与控除同意書を別途取得する旨を明記します。書面化は会社を守るだけでなく、社員にとっても「約束した内容が明確になる」という安心感につながります。
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休職中・メンタル不調の社員への給与過払い対応
休職中に誤払いが起きやすい背景
休職中は給与が発生しないはずなのに、給与システムの設定変更を忘れたまま振り込みが続くケースがあります。特に傷病手当金との調整が必要な時期や、復職直後の勤怠管理が不安定な時期に誤払いは起きやすく、気づいたときには複数月にわたっていることもあります。
メンタルヘルス不調の社員への繊細な対応
メンタルヘルス不調で休職中の社員に「給与を返してください」と伝えることは、状態の悪化・離職・最悪の場合はより深刻な結果につながるリスクをはらんでいます。通常の給与過払い対応以上に、タイミング・言葉選び・誰が伝えるかに細心の注意が必要です。
基本方針として、休職中の急性期(症状が重い時期)には請求を急がないことが原則です。主治医や産業医に状態を確認したうえで、復職が安定した後に落ち着いた環境で話し合う機会を設けることが望ましいです。また、会社のミスであることを先に誠実に謝罪し、「一緒に解決したい」という姿勢を伝えることが、社員の精神的安全を守るうえで不可欠です。
産業保健の視点を取り入れた対応
休職者への給与過払い対応は、人事手続きの問題と同時にメンタルヘルスケアの問題でもあります。対応を誤ると、回復途中の社員が再び状態を悪化させ、復職がさらに遠のく結果になりかねません。人事的な判断だけでなく、産業保健的な視点を取り入れた対応ができると、リスクを大きく下げることができます。
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まとめ
給与過払いの返還請求は、民法上の不当利得返還請求権を根拠に、会社として正当に求めることができます。ただし、一方的な給与天引きは労働基準法違反のリスクがあるため、必ず社員の書面による同意を得てから進めることが大原則です。時間が経って発覚した場合も、時効の範囲内であれば返還請求は可能ですが、分割返済など社員の生活に配慮した返還計画を組むことが現実的です。そして、どんなに法的に正しい手続きであっても、伝え方次第で関係性が大きく変わります。特に休職中・メンタル不調の社員への対応は、人事手続きとメンタルヘルスケアの両面から慎重に進める必要があります。
「手続きの正しさ」と「伝え方の丁寧さ」、この両方を同時に実現することが、トラブルを防ぎながら社員との信頼関係を守るカギです。ウェルセンス株式会社では、給与過払いのような繊細な人事対応について、法的な手続き面だけでなく社員とのコミュニケーション設計まで含めてご相談をお受けしています。「どう伝えればいいかわからない」「休職中の社員への対応が不安」という場合は、まずお気軽にご相談ください。
よくある質問
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