「制度を整えたいが、社長に数字で説明できる自信がない」——人事を兼務しながらそう感じている方は少なくありません。メンタルヘルス対応や離職対策として人事制度の整備を検討しても、経営者への説明で詰まってしまう。コストは見えても、リターンが言語化できない。そこで本記事では、20〜50名規模の企業で実際に使える「稟議を通すための資料の作り方」を、コスト試算からROIの伝え方まで体系的に解説します。
稟議が通らない本当の理由
人事制度の稟議が却下される最大の原因は、「費用しか見えていない資料」になっていることです。経営者が見たいのはコストではなく、「投資としての妥当性」です。
経営者が感じる3つの違和感
「なんとなくよくなりそう」「他社もやっている」といった根拠では、経営者は動きません。経営者が稟議を却下するときの心理は、おおむね次の3点に集約されます。まず、費用の根拠が弱い。次に、リターンが抽象的でいつ回収できるかわからない。そして、今やらなくてもいい理由が見えてしまう。この3点を逆から埋めていく構成が、稟議を通す資料の骨格になります。
「後回しでいい」を生む構造的な問題
人事制度は設備投資と違い、導入しないことの損失が目に見えにくい。だからこそ「人が辞めてから考えよう」という判断が生まれます。稟議資料では、この「やらないコスト」を先に示すことが重要です。直近1年間の中途採用コストと離職人数を掛け合わせると、制度未整備による損失の推計値として提示できます。自社の実績数値を使うことで、一気に説得力が増します。
コスト試算で抜け漏れをなくす
人事制度導入のコストは、初期費用だけでなく総所有コスト(TCO)で試算することが原則です。運用コストを見落とすと、後から「話が違う」と経営者の信頼を失います。
コストを4分類で整理する
費用の全体像を漏れなく把握するために、以下の4分類で整理することを推奨します。
| 分類 | 具体的な費用項目 |
|---|---|
| 初期構築費 | 外部コンサル費・制度設計費・就業規則改訂費用(弁護士・社労士) |
| システム導入費 | HRIS(人事情報管理システム)・評価ツール・導入設定費 |
| 運用費 | 管理職向け評価者研修・制度説明会・年次メンテナンス費 |
| 機会コスト | 担当者が制度構築・運営に費やす時間(時給換算) |
特に見落とされやすいのが「機会コスト」です。専任人事がいない中小企業では、兼務担当者が制度構築や研修の準備に費やす時間が積み上がります。この時間を人件費換算して資料に含めることで、試算の精度が上がります。
法的対応コストも忘れずに
人事制度の変更には法的な対応が伴います。就業規則を変更する場合、労働基準法第89条・第90条に基づき、労働者代表からの意見聴取と労働基準監督署への届出が必要です。また、既存社員の待遇を引き下げる内容が含まれる場合は、労働契約法第10条が定める「不利益変更の禁止」に触れないよう、経過措置や説明会の設計が必要になります。これらの対応コストも試算に含めておくことで、後からのトラブルを防げます。
20〜50名規模で注意すべきポイント
大企業向けの複雑なグレード制度や多層的な評価シートは、管理工数が現場を圧迫します。この規模の企業では、「シンプルに回せる制度」を優先するほうが現実的です。制度が複雑になればなるほど評価者研修の回数も増え、運用コストが膨らみます。稟議段階から「シンプルな設計でも目的を達成できる」ことを示せると、コストの妥当性が伝わりやすくなります。
稟議資料の作成段階で、法務や労務の専門判断が必要になったら、外部サポートを活用することで担当者の負担軽減と品質確保が同時に実現できます。
リターンを経営言語で数字に落とす
「エンゲージメントが上がります」という表現は効果として本物でも、稟議の場では金額換算できない主張は弱い。リターンは自社の実績数値から逆算して提示することが、最も説得力のある方法です。
リターンも4分類で考える
費用と対になる形で、リターンも構造化して伝えます。大きく次の4つに整理できます。
- 採用コスト削減:離職率が下がることで採用活動の頻度が減り、採用にかかる費用(求人広告費・エージェント手数料・選考工数)が抑えられる
- 生産性向上:評価基準が明確になることで、社員の動機づけが高まり、業務効率が改善する
- 休職・メンタル不調の予防:評価の不透明さや役割の曖昧さはメンタル不調の一因になる。制度整備により不調対応コスト(休職中の代替要員費・復職支援費)を回避できる
- 法的リスクの回避:同一労働同一賃金(パートタイム・有期雇用労働法)への対応や評価プロセスの可視化により、労働紛争リスクを低減できる
自社の数字で逆算する具体例
たとえば、直近1年で3名が退職し、1名あたりの採用コスト(求人広告費+エージェント手数料+採用選考工数)が150万円かかっていたとします。この場合、「制度未整備による採用コストの損失推計=450万円」として資料に記載できます。離職率が制度導入により1〜2名分改善されれば、年間150〜300万円のコスト削減効果として試算できます。この逆算を自社の実数値で行うことが、稟議を通す最大のポイントです。
回収期間を年次で示す
投資の回収見通しを「何年で元が取れるか」という視点で示すと、経営者にとって判断しやすくなります。一般的に人事制度投資は3〜5年スパンの中期投資として提示するのが実務的に受け入れられやすい傾向があります。たとえば「初年度コストXX万円、年間リターン試算YY万円、回収期間3年」という構成で示すと、投資判断の材料として伝わります。あくまで自社の数値で試算することが前提です。
稟議資料の構成と書き方
稟議を通す資料は「経営者が読む順番で論理を組む」ことが重要です。コストから始めるのではなく、現状の課題と損失から始めて、投資の妥当性へとつなぐ流れが効果的です。
資料の基本構成
稟議書・提案資料として機能させるために、以下の順番で構成することを推奨します。まず、現状の課題と「やらないリスク」を自社の数字で示します。次に、導入する制度の内容と目的を簡潔に説明します。そして、コストの全体像(TCO)をフェーズ別に提示します。その後、リターンの試算と回収期間を示します。最後に、法的対応の必要性と対応計画を添えます。この流れで作ると、経営者が「なぜ今やるべきか」を自分で腹落ちさせやすくなります。
「今やらなくていい」を覆す論点の立て方
経営者が「今じゃなくていい」と感じる背景には、緊急性の欠如があります。これを覆すには、「現状維持のコスト」を可視化することが有効です。離職が1名増えるたびに追加される採用コスト、メンタル不調が1件発生した場合の休職期間中のコスト(代替要員費・マネジメントコスト)、評価不満による生産性の低下分——これらを「今年度何もしなかった場合の推計損失」として提示します。この比較があることで、制度導入のコストが「支出」ではなく「保険」として見えてきます。
担当者が説明に自信を持てる準備
兼務担当者が経営者に説明するとき、最も不安なのは「反論に答えられないかもしれない」という点です。想定される反論と回答を事前に資料に含めておくと、説明の場での動揺を防げます。よくある反論としては「もう少し業績が安定してから」「今いる人材で何とかなっている」などがあります。それぞれに対して、自社の数字を根拠に「今の状態を続けることのコスト」で応答できるよう準備しておきましょう。
稟議資料の完成度が上がると、導入後の運用段階で想定外の課題が浮かぶこともあります。その時は、相談できるパートナーを用意しておくと、組織の混乱を最小化できます。
稟議が通った後に備えておくこと
稟議が承認されたあと、想定外のコストや法的手続きの漏れが発生すると、経営者との信頼関係に影響します。導入フェーズを見据えた準備が重要です。
就業規則の変更と届出手続き
人事制度の変更は、多くの場合、就業規則の変更を伴います。労働基準法第89条は、賃金・退職金・評価制度など重要事項が変わる場合に就業規則の記載と届出を義務付けています。第90条では、変更前に労働者代表の意見を聴取する手続きが必要です。この手続きを後回しにすると、制度が法的に無効となるリスクがあります。稟議の段階から「法的手続きコスト込みで試算している」と説明できると、経営者の安心感にもつながります。
制度の定着に向けた運用計画
人事制度は構築して終わりではなく、定着させるための運用計画が必要です。特に20〜50名規模では、評価者となる管理職が少数であるため、評価者研修の質と頻度が制度の成否を左右します。また、制度導入後1〜2年は見直しの機会を設けることを稟議段階から示しておくと、「完璧な制度を一発で作る必要はない」という認識を共有でき、導入へのハードルが下がります。
まとめ
人事制度のROIを経営者に通すためには、「コストを見せる資料」から「投資対効果を語る資料」へと視点を切り替えることが出発点です。コストは総所有コスト(TCO)で4分類して整理し、リターンは自社の実績数値から逆算して金額化する。そして「やらないコスト」を先に示すことで、経営者が「今やる理由」を自分で納得できる構成にすることが重要です。また、就業規則変更の届出(労働基準法第89条・第90条)や不利益変更への対応(労働契約法第10条)など、法的なコストも含めた試算が信頼性を高めます。
人事制度の導入や改善は、経営層と現場のギャップを埋める重要な投資です。「稟議資料をどう作ればいいかわからない」「自社の数字をどう整理すればよいか迷っている」「導入後の運用が本当に回るか心配」という段階からでも、ウェルセンス株式会社にはメンタルヘルス対応や休職復職支援と並行して、人事制度整備のご相談を承っています。まずはお気軽にお問い合わせください。
よくある質問
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