「休職中の社員が、SNSに旅行写真を投稿していた」「元同僚から”元気そうだった”と聞いた」——そのような情報が入ってきたとき、会社として何をすべきか、何をしてはいけないのか、判断に迷う経営者・人事担当者は少なくありません。傷病手当金の不正疑いは、放置すれば健保組合との信頼関係を損ない、対応を誤れば会社がリスクを負う、非常に難しい局面です。この記事では、専任人事のいない中小企業でも実践できる3ステップ対応を、法的な根拠とともに整理します。
傷病手当金の不正が疑われる典型的な場面
不正受給の疑いが生じる状況はいくつかのパターンに分かれます。まず自社のケースがどのパターンに当てはまるかを把握することが、対応の第一歩です。
休職中の就労・副業の疑い
最も多いのが、休職中に別の仕事をしているケースです。元同僚から「アルバイトをしているらしい」と聞いた、本人のSNSアカウントに仕事関連の投稿がある、といった情報がきっかけになることが多くあります。傷病手当金の受給要件のひとつは「療養のための労務不能」(健康保険法第99条)であり、就労実態がある場合は不正受給に該当しえます。
公開SNSでの活動内容と病状のかい離
「うつ病で自宅療養中」と届け出ている社員が、公開アカウントに頻繁な外出・旅行・イベント参加の写真を投稿しているケースも相談として上がります。ただし注意が必要で、精神疾患の症状は外見だけでは判断できません。「元気そうに見える」という事実だけで不正と断定することはできず、あくまで「情報として記録しておく材料のひとつ」として扱う必要があります。
申請書の内容への疑問
事業主証明欄への記入・押印を求められる中で、申請内容の記載日や欠勤期間に違和感を覚えるケースもあります。この場合、会社は申請書を確認できる立場にあるため、気になる点があれば内容をメモしておくことが後の対応に役立ちます。
会社がしてよいこと・してはいけないこと
不正疑いの場面で最初に確認すべきは、会社として適法にできる行動の範囲です。「何でもできる」と思い込んで違法行為に踏み込むケースも、「何もできない」と諦めて放置するケースも、どちらも誤りです。
適法な対応の範囲
| 対応 | 適法性 | 備考 |
|---|---|---|
| 公開SNS・公開情報の確認・保存 | ○ | 公開設定のアカウントはスクリーンショット保存が有効 |
| 元同僚・知人からの任意の情報聴取 | ○ | 強制・誘導なく、聴取内容を記録する |
| 本人への状況確認の連絡 | △ | 月1回程度が目安。過度な連絡は療養妨害になりえる |
| 健保組合・協会けんぽへの情報提供・相談 | ○ | 健保には独自調査の権限がある。連絡は積極的に推奨される |
| 社労士・弁護士への相談 | ○ | 早期相談が対応の質を高める |
| 自社保有の出勤記録・業務ログの確認 | ○ | 自社が正当に保有するデータの範囲内 |
絶対にしてはいけない行動
以下の行動は法的リスクを伴うため、「不正が確信できても」行うべきではありません。尾行・張り込み・無断での写真・動画撮影は民法709条(不法行為)やプライバシー侵害に当たります。SNSへのなりすましアクセスやアカウントのハッキングは不正アクセス行為の禁止等に関する法律に違反します。また、疑いを理由に傷病手当金申請への協力を拒否することも、申請妨害として問題になりえます。事業主証明欄への記入は義務的な性格を持つためです。さらに、疑いの段階で解雇や不利益な異動などの処分を行うことは、労働契約法第16条の不当解雇リスクを招きます。「疑いはあるが証拠はない」段階では、あくまで情報収集と記録にとどめることが原則です。
「疑いを持っただけで動いてはいけないのか」という不安への答え
疑いの段階での情報収集・記録・専門家相談は問題ありません。問題になるのは、疑いを確定的な事実として扱い、本人や第三者に告知・公表したり、調査手段が違法になることです。「記録して、相談して、健保に情報提供する」という流れであれば、疑いの段階から動くことは適切な対応です。
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記録の残し方——後で証拠として使えるメモの作り方
「何となくメモはしている」では、後々の対応で力を発揮しません。記録は「いつ・誰が・何を・どこで知ったか」を軸に、客観的な事実と主観的な解釈を分けて残すことが重要です。
記録に含めるべき5つの要素
- 日時:情報を得た・確認した日時(例:2024年○月○日 14時頃)
- 情報源:誰から・どのような手段で得た情報か(例:元同僚Aさんから口頭で)
- 内容:聞いた・見た事実をそのまま記載(例:「○○で働いているのを見た」という発言)
- 客観的証拠:スクリーンショット・写しなど。ファイル名に日付を含めて保存する
- 対応内容:その後に自社がとった行動(例:社労士に相談した、健保に連絡した)
記録の形式と保管方法
特定の書式は必要ありません。ExcelやWordで時系列の一覧表を作成し、行ごとに上記5要素を入力する形が管理しやすく、後から健保や専門家に提示する際にも見やすい形です。スクリーンショット等の添付資料は連番でファイル名を付け(例:「傷病手当金記録_20240510_SNS投稿.png」)、記録一覧と対応付けて保存します。これらのデータは社外秘扱いとし、担当者以外がアクセスできない場所(クラウドストレージのアクセス制限フォルダ等)に保管してください。
記録を残すことの法的意味
記録は「会社が誠実に対応した事実」を示すものでもあります。後に不正が確定し、返還請求や労務トラブルに発展した際、会社が疑いを認識してから適切な手順をとっていたことが記録で示せると、会社の立場を守ることにもつながります。逆に記録がない状態では、「会社は知っていたのに何もしなかった」と問われるリスクもゼロではありません。
健保組合・協会けんぽへの連絡手順
健保への連絡は「告げ口」ではなく、制度の適正運営に協力する正当な行動です。連絡を受けた健保側には独自の調査権限があり、会社が直接「不正かどうか」を判断せずに済む仕組みになっています。
連絡前に社内で整えておくこと
健保への連絡は、社内の情報整理が終わってから行います。まず情報収集と記録をひと通り終えた状態にしてから連絡することで、健保側に具体的な情報を伝えられ、調査につながりやすくなります。専任の社労士や顧問弁護士がいる場合は、連絡前に一度相談して「伝えるべき内容・伝え方」を確認することを強く推奨します。就業規則や雇用契約書の内容によっては、社内での追加確認が必要なケースもあります。
連絡先と連絡の方法
連絡先は自社が加入している健康保険によって異なります。組合健保(会社独自の健保組合)に加入している場合は当該組合、協会けんぽに加入している場合は都道府県支部が窓口です。協会けんぽの場合、各都道府県支部のウェブサイトに「不正受給に関する情報提供」の窓口が設けられています。電話・書面・メールのいずれかで対応しているケースが多いですが、記録を残す観点から書面またはメールが望ましいです。連絡した日時と担当者名もメモしておきましょう。
連絡後に会社がすること・しないこと
健保に情報提供した後の調査は健保側が行います。会社が独自にさらなる調査を進める必要はなく、健保から追加情報を求められた場合に対応する、という姿勢が基本です。連絡後に本人への対応が必要になった場合(例:健保から照会が来た旨を本人に伝える)は、内容・タイミングを社労士と相談してから行うことで、余計なトラブルを防ぐことができます。
事業主証明欄への押印と会社の責任範囲
傷病手当金の申請書には「事業主記入欄」があり、会社は休業期間・賃金支払い状況などを証明します。この押印が「不正への加担」にならないかを心配する経営者も多くいますが、基本的な理解を整理しておくことで不安は解消できます。
事業主証明の性質と記載できる範囲
事業主証明欄で会社が証明できるのは、「いつからいつまで休業していたか」「その期間に給与を支払ったか・支払っていないか」という客観的な事実のみです。「労務不能かどうか」は医師が証明する欄であり、会社が判断する立場にはありません。つまり、会社が事実に基づいて正確に記入・押印している限り、後から不正が発覚しても会社の法的責任は原則として生じません。
申請書の内容に疑問を感じたときの対処
申請書の休業期間の記載が実態と異なる、または記入を求められた内容に違和感がある場合は、押印を急ぐ前に内容を確認し、自社の記録(タイムカード・シフト表・業務ログ等)と照らし合わせることが必要です。もし事実と異なる記載への押印を求められている場合は、社労士または弁護士に相談した上で、事実のみを記載する修正を求めるか、対応方針を決めてください。根拠なく押印を拒否し続けることは申請妨害になる可能性があるため、単純な「拒否」ではなく「事実確認」という手続きを踏むことが重要です。
まとめ
傷病手当金の不正疑いに会社が取るべき対応は、大きく「情報を整理して記録する」「専門家に相談する」「健保組合・協会けんぽに情報提供する」という流れになります。疑いの段階で動くことは問題ありませんが、違法な調査手段や疑いを根拠にした不利益取扱いは厳禁です。また、事業主証明欄への押印は事実の範囲内であれば責任を問われません。
こうした対応を一人で判断するのが難しいのは当然です。ウェルセンス株式会社では、専任人事のいない中小企業の経営者・人事担当者からの休職・復職・労務トラブルに関する相談を受けています。「このケースはどう動けばよいか」という段階でのご相談も歓迎していますので、まずはお気軽にお問い合わせください。
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