「入社初日に業務の引き継ぎで手一杯で、契約書を渡しそびれてしまった」——中小企業の採用現場では、こうした状況が珍しくありません。気づけば数週間、場合によっては数ヶ月が経過していた、というケースもあります。
結論から言えば、雇用契約書が未締結のままであっても、今から対応することは可能です。ただし、適切な手順を踏まなければ新たなリスクを生みかねません。この記事では、事後対応の進め方と再発防止策を、実務の視点でわかりやすく解説します。
法的な位置づけを正確に理解する——「書面がないから契約が無効」は誤解
雇用契約書が未締結であっても、雇用契約そのものはすでに成立しています。問題は「契約の存在」ではなく「条件の証拠がないこと」です。
口頭でも雇用契約は成立している
労働契約は、労使双方の合意があれば口頭でも成立します(民法第623条・労働契約法第6条)。つまり、書面がなくても「採用します」「働きます」という意思が一致した時点で契約は成立しており、「書類がないから無効」という主張は法的に通りません。問題が起きるのは、条件の認識に食い違いが生じたときです。
未交付が問題になる本当の理由
実は雇用契約書の作成・交付は、厳密には法的義務ではありません。しかし、労働基準法第15条は、労働条件通知書(賃金・労働時間・就業場所・業務内容など)の文書による交付を使用者に義務付けており、これを怠ると同法第120条に基づき30万円以下の罰金の対象になりえます。雇用契約書と労働条件通知書を兼ねた書類を作成することが、実務上の標準的な対応です。
「言った・言わない」で不利になるのは会社側
書面がない状態でトラブルが発生した場合、立証責任の観点から使用者側が不利になりやすい構造があります。残業代請求や解雇紛争では、「合意していた労働条件」を証明できないと、労働者側の主張が認められるリスクが高まります。書面の整備は義務の問題である以上に、会社を守るためのリスク管理です。
雇用契約書なしで生じる具体的なリスク
雇用契約書(兼労働条件通知書)が未整備のまま放置すると、複数のリスクが重なります。リスクを具体的に把握することが、対処への動機づけになります。
残業代・未払い賃金の請求リスク
所定労働時間・時間外手当の計算方法・固定残業代の有無などが書面で明確になっていない場合、退職後に「残業代が払われていなかった」と請求されるケースがあります。こうした紛争では、会社が証明できる書面がなければ、労働者側の主張をそのまま認める判断がされることがあります。
解雇・雇止めトラブルの深刻化
試用期間の定め、契約期間の有無、更新の基準などが書面化されていないと、「正社員として雇用された」「更新されると思っていた」という主張への反論が難しくなります。特に有期雇用を繰り返している場合、無期転換(労働契約法第18条)をめぐるトラブルも発生しやすくなります。
2024年法改正への未対応リスク
2024年4月施行の労働基準法施行規則改正により、以下の3点が新たに明示義務の対象となりました。既存の書類テンプレートを使い回している場合、これらが漏れている可能性があります。
- 就業場所・業務内容の「変更の範囲」
- 有期契約における更新上限の有無と内容
- 無期転換申込機会および転換後の労働条件
未記載のまま交付した場合も、法令違反となりえます。新規採用・既存の書類どちらも確認が必要です。
事後対応の進め方——今から動くための実務手順
雇用契約書を後から作成・締結することは法的に有効です。ただし、手順と注意点を誤ると新たなリスクを生みます。以下の流れで対応してください。
現状の把握と優先順位づけ
まず、どの従業員の書類が未整備かを整理します。正社員・パート・アルバイト・有期契約社員など雇用形態別に確認し、在籍期間が長い・給与条件が複雑・過去にトラブルの兆候があるといった従業員から優先的に対応するのが現実的です。一覧化するだけでも、抜け漏れの全体像が把握できます。
書類の作成と従業員への説明方法
事後に雇用契約書を作成する際は、締結日を入社日に遡及させないことが最重要の注意点です。実態と異なる日付を記載すると証拠力を損ない、最悪の場合は文書偽造のリスクも生じます。現在の日付で締結し、「入社当初からの合意事項を書面として確認するもの」と従業員に誠実に説明しましょう。
「今さら書類を出すのは不審に思われないか」という心理的ハードルを感じる経営者も多いですが、「法令上の整備のために確認させてほしい」という説明は、ほとんどの従業員に受け入れられます。むしろ丁寧に説明することで、会社への信頼感につながることもあります。
「書類を整備したいが、自社の状況で何から手をつければいいか判断に迷う」という場合は、専門家に相談することで、条件設定の適切性や法令対応を確認した上で進められます。
署名を拒否された場合の対応
従業員が署名を拒否した場合、強制することはできません。その場合は、拒否の事実と日時を記録に残した上で、給与明細・勤怠記録・業務指示のメール・労働条件を伝えたときの記録など、代替的な証拠を保全することが現実的な対応です。書面がない状態を放置するよりも、証拠の層を厚くすることで会社のリスクを軽減できます。
雇用契約書に必ず盛り込むべき記載事項
雇用契約書(兼労働条件通知書)には、法令上の必須事項を漏れなく記載することが前提です。自社の実態に合わせたカスタマイズも不可欠です。
法定の絶対的明示事項(必須)
労働基準法施行規則第5条に基づき、以下の事項は書面による明示が義務付けられています。
| 区分 | 記載すべき事項 |
|---|---|
| 労働時間 | 始業・終業時刻、休憩時間、休日、時間外労働の有無 |
| 賃金 | 基本給、諸手当の額・計算方法、支払日、昇給の有無 |
| 就業場所・業務 | 雇入れ直後の就業場所・業務内容と、変更の範囲(2024年改正) |
| 契約期間 | 期間の定めの有無、有期の場合は更新基準と上限の有無(2024年改正) |
| 退職・解雇 | 退職に関する事項(解雇事由を含む) |
現代的な職場環境に対応した追加条項
法令上の必須事項に加え、昨今の働き方の変化に対応した条項も盛り込んでおくことが重要です。テレワーク勤務の可否とその条件、副業・兼業の可否、試用期間の長さと評価基準、情報管理・秘密保持の義務などは、後からトラブルになりやすい項目です。特にテレワークや副業については、口頭で「OK」と伝えていても、書面がなければ会社の意図と異なる解釈が生じるリスクがあります。
再発防止のための仕組みづくり
事後対応が一段落したら、次は「同じことを繰り返さない仕組み」を整えることが重要です。属人的な管理から脱却し、採用プロセスの中に書類確認を組み込みましょう。
採用チェックリストへの組み込み
雇用契約書の作成・署名回収を、入社手続きのチェックリストに明記します。「内定通知」「入社日の決定」「雇用契約書の交付と署名確認」「労務システムへの登録」という一連の流れを標準化しておくことで、担当者が変わっても漏れが生じにくくなります。専任人事がいない企業では、経営者自身がこのチェックリストを確認する習慣が最も確実です。
就業規則との整合性確認
雇用契約書の内容は、就業規則と矛盾しないことが必要です。就業規則が雇用契約書より有利な条件を定めている場合、就業規則が優先されます(労働契約法第12条)。逆に、雇用契約書で個別に有利な条件を合意した場合は、その内容が優先されます。就業規則が未整備または10年以上更新されていない場合は、雇用契約書の整備と同時に見直すことをお勧めします。
雇用形態別のひな形を用意する
正社員・パート・有期契約社員など、雇用形態ごとに対応したひな形を事前に準備しておくと、次の採用時に慌てずに対応できます。ひな形は一度プロに確認してもらい、自社の実態に合わせてカスタマイズしたものを使いましょう。インターネット上の汎用ひな形は、2024年改正の新規明示事項に対応していない場合があるため注意が必要です。
まとめ
雇用契約書が未締結のまま入社させてしまっても、今から対応することは十分に可能です。口頭でも雇用契約は成立していますが、書面がないと「条件の証拠がない」という不利な状況が続きます。事後対応では、締結日の遡及を避けて現在の日付で締結し、従業員に誠実な説明を行うことが基本です。また、2024年4月の法改正による新たな明示義務にも必ず対応してください。
再発防止には、採用チェックリストへの組み込み、就業規則との整合性確認、雇用形態別ひな形の整備が有効です。人事対応は会社の成長段階に合わせた見直しが必要ですが、専任人事がいない状況では判断が難しいこともあります。「何から手をつければいいかわからない」「自社の状況に合わせて書類を整えたい」という場合は、ウェルセンス株式会社にご相談ください。中小企業の実情に合わせた、実務的なサポートを提供しています。
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