「まだ等級制度が決まっていないのに、候補者に給与を伝えてしまった」——採用活動を続けながら人事制度を整備している企業では、こうした状況が珍しくありません。制度が完成するまで採用を止めることは現実的ではないからこそ、「今どう対応すればよいか」を知っておくことが重要です。この記事では、人事制度の整備途中でも法的リスクを抑えながら採用を前進させる、給与提示の整え方と実務的な対処法を解説します。
人事制度が未完成でも給与提示は可能——まず押さえるべき考え方
結論から言えば、人事制度が完成していなくても、適切な書き方をすれば内定時に給与を提示することは可能です。重要なのは「制度が決まっていないから書けない」という姿勢を捨て、「暫定」であることを明確にしたうえで書面に落とし込むことです。
「制度が未完成」は免除理由にならない
労働基準法第15条および同法施行規則第5条は、労働契約の締結時に賃金の決定・計算・支払い方法を書面で明示することを義務づけています。内定が「解約権留保付き労働契約の成立」と解される判例(最高裁昭和54年7月20日・大日本印刷事件)に照らせば、内定時点から明示義務が発生すると考えておくべきです。等級制度が固まっていないことは、この義務の免除理由にはなりません。
暫定給与提示という選択肢がある
制度未完成期に採れる現実的な対応は、「暫定」であることを明記した形で給与を提示することです。暫定であることを適切に書面化すれば、後から等級制度との整合を図ることができます。「感覚的に金額を伝えてしまった」という場合も、今からでも書面の整備が間に合うケースがほとんどです。まず労働条件通知書・雇用契約書の内容を見直すことを優先しましょう。
内定後に給与を変更できるか——法的リスクの境界線
一度提示した給与条件を後から変更することは、原則として内定者の同意なしには認められません。ただし、「変更可能性をあらかじめ合意している」かどうかで、法的リスクの大きさが変わります。
不利益変更の原則を理解する
労働契約法第9条は、労働者の同意なく労働条件を不利益に変更することを禁じています。制度整備後に「等級制度上は月給25万円が相当」と会社が判断したとしても、内定時に30万円と提示していれば、引き下げは一方的にはできません。変更には本人の真意による合意が必要であり、形式的な署名だけで認められるわけでもありません。
事前の合意設計が後のトラブルを防ぐ
リスクを減らす鍵は「採用時の合意設計」にあります。内定時に「現時点の暫定金額であること」「等級制度の確定後に双方合意のうえで見直す可能性があること」を書面で明示し、内定者に了解を得ておけば、後の整合がとりやすくなります。逆に言えば、口頭だけで金額を伝えてしまっている場合は、できる限り早く書面化することが先決です。
有利な変更・不変の約束は積極的に明示する
「制度確定後の賃金は、提示した暫定金額を下回らない」と雇用契約書に明記することで、内定者の不安を払拭しつつ、会社としての誠実さを示すことができます。これは採用競争力の観点からも有効です。制度整備中であることが辞退理由になりにくくなりますし、万一トラブルが生じたときにも、約束の範囲を文書で示すことができます。
労働条件通知書への具体的な書き方
暫定給与を提示する場合、労働条件通知書(および雇用契約書)には、金額だけでなく「暫定であること」と「今後の扱い」を明記することが重要です。記載漏れが後のトラブルの原因になります。
盛り込むべき4つの記載要素
以下の4点を必ず書面に含めるようにしてください。
| 記載要素 | 記載例(イメージ) |
|---|---|
| 暫定金額の明示 | 入社時の月額基本給:○○円(暫定) |
| 変更可能性の明示 | 当社が整備中の等級・賃金制度の確定後、双方合意のうえで改定する場合がある |
| 等級付与の時期の明示 | 入社後○ヶ月以内に正式な等級を付与する |
| 不利益変更が生じない旨の明示 | 制度確定後の賃金は、本条件を下回らない |
「暫定」の文言が持つ法的な意味
「暫定」と明記することには、単なる説明以上の法的意味があります。労働条件の変更可能性を契約の段階で明示し内定者が了解していれば、後の見直しに際して「一方的な変更」とは解釈されにくくなります。ただし、あくまで双方合意が前提であり、暫定と書いたからといって会社が一方的に条件を下げられるわけではない点には注意が必要です。
書面の整備が間に合っていない場合の対処
すでに口頭または非正式な形で金額を伝えてしまった場合は、正式な労働条件通知書を遅滞なく交付し、その際に上記4点を盛り込むことが現実的な対応です。内定者に対しては「正式な書面をあらためてお渡しします」と一声かけ、内容を丁寧に説明するプロセスが信頼関係の維持につながります。
等級制度が完成したときの整合の取り方
制度が完成したタイミングで入社者を正式な等級に位置づける作業が必要になります。このプロセスを事前に設計しておくことで、入社者・既存社員・会社の三者にとって公平感のある着地ができます。
等級付与の実務フロー
制度整備後の整合は、次の流れで進めると混乱が起きにくくなります。
まず採用時に暫定金額と等級付与の時期を明示します。次に制度整備の進捗を入社者に適宜共有し、透明性を保ちます。制度が確定したら、本人の職務・能力・市場価値と等級のマッピングを行い、等級付与の面談を実施して内容を説明し、合意を得たのち雇用契約変更覚書などの書面を交わします。最後に、同等級の既存社員との給与水準を確認し、著しい逆転や不公平が生じていないかをチェックします。
既存社員との給与逆転問題への向き合い方
採用市場の高騰により、新入社員の提示給与が既存社員を上回るケースは増えています。等級制度の整備はこの問題に向き合う機会でもあります。制度確定後に既存社員の処遇も見直すロードマップを用意しておくことが理想ですが、少なくとも「なぜこの金額になったか」を説明できる根拠を等級制度の中に組み込んでおくことが重要です。根拠のない逆転は既存社員のモチベーション低下を招くリスクがあります。
入社後の「仮の状態」の期間をどう扱うか
等級が正式に付与されるまでの期間(たとえば入社後3〜6ヶ月)は、評価や昇給の対象外とすることが一般的です。ただし、この「仮の状態」が長くなるほど入社者の不満が高まるリスクがあります。等級付与の期限を契約書に明記し、遅延した場合の対応(例:暫定金額を維持し続ける)もあらかじめ設計しておきましょう。
内定者への開示——どこまで、いつ話すべきか
「制度が整備中と伝えると辞退されるかもしれない」という懸念はよく聞かれますが、開示を避けることのリスクの方が大きい場合がほとんどです。透明性の高いコミュニケーションが、入社後の信頼関係の土台になります。
開示が採用競争力を下げるとは限らない
「制度が整備中である」という事実は、成長途上の企業にとって当然の状態です。むしろ「今まさに人事制度を作っている段階で、あなたにもその設計に関わってほしい」という打ち出し方ができれば、前向きに受け取られることもあります。ポジション・ミッション・暫定給与の根拠・整備スケジュールをセットで説明することで、誠実な印象を与えながら入社意欲を維持することができます。
開示のタイミングと内容の設計
開示は内定通知と同時か、遅くとも雇用契約書の交付時までに行うことが基本です。具体的には「現時点では等級制度が整備中であること」「入社後いつまでに正式等級を付与すること」「その間の給与はいくらで、変更可能性はどの程度あるか」の3点を明確に伝えましょう。不確実性を隠して入社させた場合、制度確定時に「聞いていなかった」というトラブルが起きやすくなります。書面作成で迷ったり、既に複数の内定者への対応で混乱している場合は、早めに専門家に相談することで後の紛争を防ぐことができます。
まとめ
人事制度が未完成であっても、「暫定」であることを明示した書面を整備すれば、採用を止めることなく給与提示を進めることができます。労働基準法第15条が定める明示義務は制度の完成を待ってくれません。大切なのは、暫定金額・変更可能性・等級付与の時期・不利益変更が生じない旨の4点を労働条件通知書に記載し、内定者との合意を書面で残すことです。制度確定後の整合プロセスも事前に設計しておくことで、既存社員との公平性も保ちやすくなります。
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