「DD(デューデリジェンス)が始まるらしい。労務まわりを見られると聞いたが、何を準備すればいいかまったくわからない——」資金調達やM&Aの話が進み始めたとき、こうした状況に直面する経営者・人事担当者は少なくありません。財務DDと違い、労務DDは「何を見られるのか」がイメージしにくく、指摘を受けてから慌てるケースが多いのが実情です。この記事では、労務DDで頻出する就業規則・労務管理上の指摘項目を整理したうえで、20〜50名規模の企業が資金調達前に優先して対応すべきポイントを実務目線で解説します。
労務DDとは何を調べるのか
労務DDとは、投資家や買い手企業が対象会社の「労務リスク」を洗い出す調査です。財務DDが過去の損益や資産を確認するように、労務DDは「法令違反・未払い・紛争リスクがないか」を体系的に検証します。
財務DDとの違い
財務DDは会計士が数字を読み解く作業ですが、労務DDは就業規則・雇用契約書・勤怠記録・給与台帳・社会保険の加入状況など、紙と実態の両方を照合する作業です。書類が整っていても「運用の実態と乖離している」と判断されれば、リスクがあるとみなされます。特に20〜50名規模の成長期企業では、採用を急ぐなかで労務整備が後回しになりがちなため、指摘項目が集中しやすい傾向があります。
DDの結果が与える影響
労務DDの指摘事項は「クロージング条件」や「表明保証」の対象になることがあります。つまり、重大なリスクが見つかれば調達額の減額・交渉の長期化・最悪の場合はディール破談につながる可能性があります。「指摘されてから直せばいい」という発想では間に合わないケースがあることを、まず理解しておくことが大切です。
いつ、誰が調査するのか
シリーズA以降のVC調達、事業会社からの資本業務提携、M&Aのいずれでも実施されます。調査主体は社会保険労務士・弁護士・M&Aアドバイザーが担うことが多く、数週間〜1か月程度の期間で実施されます。調査開始後に「さかのぼって整備する」ことには限界があるため、打診を受けた段階で動き始めることが重要です。
就業規則まわりで頻出する指摘項目
労務DDで最も指摘が多いカテゴリのひとつが、就業規則・各種規程の整備状況です。「規程が存在するか」だけでなく「実態と合っているか」まで確認されます。
作成・届出義務の未対応
労働基準法第89条は、常時10人以上の従業員を雇用する事業場に対して就業規則の作成と労働基準監督署への届出を義務づけています。成長期の企業では「気づいたら10人を超えていた」というケースが多く、未届のまま30名・50名規模になっている会社も珍しくありません。DDでは届出の有無と届出日が確認され、義務発生時点から未届であった期間は法令違反として記録されます。
規程と実態の乖離
「就業規則はある」という会社でも、内容が実態と大きくずれているケースが頻出します。例えば、規程では「残業は事前申請制」と定めているのに実際には申請なしで残業が常態化しているケース、あるいは「育児休業規程」は整備されているが社内に周知されておらず取得実績がゼロというケースです。DDでは規程の存在だけでなく、運用の実態(周知方法・実際の運用記録)まで確認されるため、文書整備と運用整備は必ずセットで進める必要があります。
整備が必要な規程の一覧
就業規則本体のほかに、以下の規程もDDの確認対象になります。これらが未整備または古い法令に基づいたままになっていないかを確認してください。
| 規程名 | 主な根拠法令 | 特に注意すべきポイント |
|---|---|---|
| 賃金規程 | 労働基準法第89条 | 固定残業代の要件・割増率の明示 |
| 育児・介護休業規程 | 育児・介護休業法 | 2022年・2023年改正への対応状況 |
| ハラスメント防止規程 | 労働施策総合推進法 | 相談窓口の設置・周知・対応フローの明示 |
| 情報管理・秘密保持規程 | 不正競争防止法 | 退職後の競業避止義務の範囲 |
労働時間・割増賃金管理で指摘されやすいポイント
残業代・固定残業代まわりの指摘は、金銭的リスクの大きさから投資家が特に重視するカテゴリです。未払い残業代は過去3年分(労働基準法改正後)が請求対象となるため、発覚した場合の影響額が大きくなります。
固定残業代(みなし残業)の有効性
多くのスタートアップ・中小企業が採用している固定残業代制度ですが、要件を満たしていない場合はDDで「無効」と指摘されます。最高裁平成29年7月7日のテックジャパン事件などを踏まえ、有効な固定残業代として認められるためには、少なくとも以下の三点を満たす必要があります。まず、固定残業代と基本給が給与明細・雇用契約書上で明確に区別されていること。次に、固定残業代が対応する時間数(例:月40時間分)が明示されていること。そして、その時間数を超えた分の残業代が別途支払われていることです。「基本給に残業代を含む」と曖昧に記載されているだけでは要件を満たしません。
36協定の締結・届出状況
時間外・休日労働をさせるためには、労使で36協定(時間外・休日労働に関する協定)を締結し、労働基準監督署に届け出る必要があります。DDでは、協定の締結日・届出日・上限時間数が確認されます。特に「36協定を締結したことがない」「以前の届出が期限切れになっている」というケースは即座にリスクとして記録されます。
勤怠記録と給与台帳の整合性
タイムカードや勤怠システムの記録と、実際に支払われた給与が一致しているかも確認されます。「システム上の労働時間は月80時間だが、残業代の支払いは30時間分しかない」という乖離が見つかると、未払い残業代のリスクとして算定されます。勤怠記録は過去3年分の保存が義務づけられており(労働基準法第109条)、データの欠損自体もリスク要因として指摘されます。
多くの企業が「労務管理は後でも対応できる」と考えていますが、DD開始後の対応では実務的に間に合わないことがほとんどです。不安を感じたら、早めに専門家に現状を相談することが事業成長のためにも重要です。
雇用契約書・労働条件通知書の不備
全従業員分の雇用契約書または労働条件通知書が存在するかどうかは、労務DDの最も基本的な確認事項です。不備が見つかっても過去分の遡及修正には限界があるため、現時点での状況把握と今後の採用への対応が求められます。
全員分の書類が揃っているか
労働基準法第15条は、雇用時に労働条件を書面(または本人が同意した場合は電子的方法)で明示することを義務づけています。DDでは在籍全員分の書類の有無が確認されます。「昔から働いている古参社員の契約書がない」「口頭での約束しかない」という状況は、労務リスクとして記録されます。
2024年4月改正への対応
2024年4月に施行された労働条件明示ルールの改正により、雇用契約書・労働条件通知書に記載すべき項目が追加されました。具体的には、就業場所・業務内容の「変更の範囲」、有期雇用の場合の「更新上限の有無と上限内容」、無期転換申込権が発生する場合の「転換後の労働条件」の明示が義務化されています。改正前のフォーマットを使い続けている場合は、現時点で法令違反となります。
業務委託・フリーランスの労働者性
「業務委託契約だから労務リスクはない」という誤解は危険です。DDでは業務委託契約者の実態も確認対象になります。指揮命令の有無・拘束時間・専属性・報酬の性格などを総合的に判断し、実態が「労働者」とみなされれば、社会保険未加入・残業代未払いのリスクが生じます。特定の業務委託先が実質的に専属社員と同様の働き方をしている場合は、専門家に相談して契約内容と実態を整理することを検討してください。
ハラスメント・メンタルヘルス対応体制の確認
近年の労務DDでは、ハラスメント防止措置やメンタルヘルス対応の体制が確認項目として定着しています。特に退職者のトラブル履歴は、将来リスクとして投資家が強く警戒するポイントです。
パワハラ防止措置の義務対応状況
改正労働施策総合推進法により、中小企業のパワーハラスメント防止措置は2022年4月から義務化されています。DDでは、相談窓口の設置・社内周知・対応フローの整備状況が確認されます。「規程はあるが窓口が機能していない」「誰に相談すればいいか従業員に伝わっていない」という状況は、措置義務を果たしていないと判断されます。
退職者リストと紛争履歴
過去2〜3年の退職者リスト・退職理由・未払い残業請求や労働審判の履歴はDDで必ず確認されます。「円満退職ばかり」と思っていても、退職合意書が取り交わされていない、または退職理由が記録されていないと、潜在的なリスクとして評価されます。在籍中・退職後を問わずクレームや内容証明が届いたことがある場合は、事前に顧問弁護士・社会保険労務士と状況を整理しておくことが重要です。
メンタルヘルス対応体制
休職・復職対応のルールが就業規則に定められているか、復職支援の仕組みが整備されているかも確認項目です。50名以上の事業場では産業医の選任義務(労働安全衛生法第13条)がありますが、50名未満の企業でも「産業医の活用体制があるか」「休職者への連絡・サポートのフローがあるか」は、組織の健全性を示す指標としてDDで注目されるようになっています。
資金調達前に優先して対応すべき順序
「全部は対応できない」という状況でも、優先度の高いものから手をつけることで、DDでの致命的な指摘を避けることができます。対応の優先順位は、リスクの金銭的影響度と遡及困難性で判断するのが合理的です。
まず確認すべき最優先事項
時間が限られているなら、まず以下の三点を確認し、不備があれば着手してください。
- 就業規則の作成・届出状況:常時10人以上の場合、届出がなければ速やかに作成し、労働基準監督署へ届け出る必要があります。
- 全従業員の雇用契約書・労働条件通知書の有無:今後の採用分から必ず作成しつつ、在籍者分の不備も可能な範囲で整備します。
- 固定残業代の有効性確認:要件を満たしていない場合は賃金規程・給与明細・雇用契約書の修正が必要になります。
次に着手すべき中優先事項
最優先の三点を確認・対応したら、次に36協定の締結・更新状況の確認、ハラスメント相談窓口の設置・周知、育児・介護休業規程の改正法対応へと進みます。これらは即日解決できない項目もあるため、DDの打診を受けた段階で動き始めることが理想です。
DDまでの時間と対応可能範囲の目安
- 3か月以上ある場合:規程整備・雇用契約書の整備・勤怠管理の見直しまで対応できる可能性が高い
- 1〜2か月の場合:最優先事項の確認と36協定・就業規則の緊急整備を優先し、リスクの洗い出しと説明準備に注力する
- 1か月未満の場合:現状のリスクを正確に把握・開示する準備を優先し、整備中であることを誠実に示す対応が現実的
まとめ
労務DDで頻出する指摘は、就業規則の未整備・固定残業代の要件不備・雇用契約書の欠如・ハラスメント対応体制の不足など、「成長期に後回しにされがちな労務管理」に集中しています。一度DDが始まると遡及対応には限界があるため、資金調達やM&Aの話が出た時点で、まず現状を把握し、優先度の高い項目から着手することが重要です。
「人事は1人で判断するべきではない」が、実は労務対応の鉄則です。経営層・CFO・弁護士・社会保険労務士と認識を合わせながら進めることで、DD対応は大きく変わります。ウェルセンス株式会社では、就業規則の整備から労務リスク診断まで、まずはご自身の会社の現状がどうなっているかを確認するお手伝いをしています。
よくある質問
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