「来期から給料を上げるよ」——社長がそう言ったとき、その場に書類はなかった。しかし数ヶ月後、業績の悪化や話の行き違いで昇給は実現しなかった。社員から「約束が違う」と言われたとき、「書面がないから大丈夫」と思っていませんか。実は、その認識が大きなリスクを生む出発点になっています。この記事では、口頭での昇給約束が持つ法的効力と、反故にする前に必ず知っておくべき3つのリスクを、実務に即して解説します。
口頭の昇給約束は「有効」が法律の原則
結論から言えば、口頭での昇給約束は原則として法的に有効です。「書面がないから無効にできる」は誤りで、この誤解が後々のトラブルを深刻にします。
書面がなくても労働契約は成立する
日本の民法第522条は、契約の成立に書面を必須としていません。また、労働契約法第3条は「労働契約は、労働者及び使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、又は変更される」と定めており、書面がなくても双方の意思が合致していれば契約の内容として成立し得ます。
つまり、「書面にしていないから反故にできる」という判断は法律的に通用しません。口頭であっても、「来期から昇給する」という合意が成立した事実があれば、それは労働契約の一部になり得るのです。
労働契約法が定める「書面確認の努力義務」
労働契約法第4条は、労働契約の内容をできる限り書面で確認するよう「努力義務」を定めています。ただし、これはあくまで努力義務であり、書面がないこと自体が契約を無効にするわけではありません。むしろこの条文は、「書面化しなければリスクが生まれる」という警告として読むべきです。
書面化していないということは、「証拠がない」のではなく「どこに証拠があるかわからない」状態です。後述するように、社員側が予想外の証拠を持っているケースは少なくありません。
「書面がないから安全」という誤解が招く3つのリスク
書面がなければ証拠もない——そう思っている経営者ほど、トラブル発生時に後手を踏みます。口頭約束を反故にすることには、少なくとも3つの具体的なリスクがあります。
社員側が持つ「見えない証拠」
書面化していないからといって、証拠が存在しないとは限りません。社員側が以下のような証拠を保有しているケースは実務上よく見られます。
- SlackやLINE、メールでの「来期から上げるね」などのメッセージ
- 面談後に社員自身がつけた手帳のメモ
- 同席した第三者(他の従業員や上長)の証言
- 適法に取得した録音データ
経営者が「言っていない」と主張しても、これらの記録が残っていれば会社側が不利な立場に立たされます。特にチャットツールでの一言は、記録が自動的に残るため注意が必要です。
未払い賃金として過去3年分を請求されるリスク
昇給の約束が「賃金の合意」と認定された場合、その差額分は未払い賃金として請求される可能性があります。2020年4月の労働基準法改正(第115条)により、賃金請求権の消滅時効は従来の2年から3年に延長されました。
たとえば、月給が3万円上がる約束をしていたと認定された場合、3年分で最大108万円(3万円×12ヶ月×3年)が請求対象になり得ます。中小企業にとってこの金額は小さくありません。
対応言動が新たな証拠をつくるリスク
問題が発覚した後の対応が、さらなるリスクを生むケースがあります。社員から「約束と違う」と言われた際、「少し待ってほしい」「改めて検討します」と返答したり、代替条件を提示したりすると、その言動自体が「約束の存在を認めた」と解釈される可能性があります。
問題発覚後の不用意なメッセージや口頭でのやり取りが新たな証拠になります。問題が起きてからこそ、慎重な対応が求められます。
🔗 社内だけでの判断はトラブルを招きやすいため、早めに専門家に相談することをお勧めします。 →
不利益変更の禁止原則と「合理的期待」の考え方
口頭での昇給約束を一方的に反故にすることは、労働法上の「不利益変更」に該当し得ます。また、明確な確約がなくても、状況によっては昇給への「合理的期待」が保護されることがあります。
労働契約法が禁じる一方的な不利益変更
労働契約法第9条・第10条は、就業規則や労働契約の内容を労働者に不利益な方向へ変更するには、原則として労働者の同意が必要と定めています。一度「来期から昇給する」という合意が成立していれば、それを一方的に撤回することは不利益変更として問題になり得ます。
ただし、業績悪化など合理的な理由があり、その理由を丁寧に説明したうえで社員の了解を得る形で変更するのであれば、法的リスクは大きく低減します。重要なのは「一方的」かどうかです。
「合理的期待」という概念
明示的な確約がなかったとしても、「通常の社員が昇給を期待するに足る状況があった」と判断される場合、不支給が問題になる可能性があります。たとえば、毎年定期的に昇給を行ってきた慣行があるにもかかわらず、特定の社員だけ昇給がなかった場合などがこれに当たります。過去の運用実績や就業規則の記載との整合性にも注意が必要です。
状況別・対処の考え方
口頭での約束の有無や現在の状況によって、取るべき対応は異なります。自社の状況に照らして、適切な対処を選ぶことが重要です。
状況に応じた対処の方向性
| 現在の状況 | 優先すべき対応 |
|---|---|
| 口頭で約束したが、まだ反故にしていない | 約束の内容・条件を速やかに書面で確認・合意。変更が必要な場合は丁寧な説明と合意取得 |
| すでに反故にしており、社員から主張されている | 不用意な応答を避け、専門家(社労士・弁護士)に相談のうえ対応方針を決める |
| 「言った・言わない」で認識に食い違いがある | 証拠(チャット・メール等)を双方で確認し、事実関係を整理したうえで交渉 |
| 昇給は難しいが別条件で折り合いをつけたい | 代替条件(手当・役職・在宅勤務等)を明確にし、社員の同意を書面で取得 |
就業規則・雇用契約書の整備状況による違い
就業規則が整備されていない、または変更手続きが曖昧な会社では、口頭合意が就業規則よりも優先されるケースがあります。逆に就業規則に昇給の基準や手続きが明記されていれば、それが基準となり口頭約束との関係が整理しやすくなります。
専任人事がいない中小企業では、就業規則の内容が古いままだったり、条件変更がすべて口頭で処理されてきたりすることは珍しくありません。しかしそれ自体がリスクであることを、今回のようなケースを機に認識しておくことが重要です。
社外の専門家リソース活用の重要性
社内に人事専任者がいる場合は、社員との対話の場を設けたうえで第三者を交えた調整が可能です。一方、そうした体制がない場合は、外部の社会保険労務士や弁護士に早期に相談することで、対応方針の誤りを防ぐことができます。問題が表面化してからよりも、トラブルの兆しが見えた段階での相談が効果的です。
今からできる予防策と書面化の実務
口頭約束のトラブルを防ぐ最善策は、約束の内容を速やかに書面で残すことです。難しい手続きは必要なく、シンプルな確認書から始められます。
書面化の具体的な方法
昇給の約束をした場合は、できるだけ早い段階で内容を文書にまとめ、双方が署名・押印する形で保管します。「覚書」や「労働条件変更通知書」という形式でも構いません。記載すべき主な項目は、変更後の給与額、適用開始日、変更の前提条件(業績達成など)です。
また、メールやチャットで確認メッセージを送ることも有効です。「本日の面談でお話した内容を確認させてください」とまとめて送り、相手から返信をもらうだけで記録として機能します。
条件変更を口頭で伝えてしまった後の対処
すでに口頭で昇給を約束してしまった場合でも、速やかに書面化すれば状況を整理できます。ただし、その書面を作成する際に「実は難しい」という事情があるなら、それを誠実に伝えたうえで社員と話し合い、代替条件を含めた合意を取り直すことが重要です。この交渉プロセスを記録に残しておくことも、後々のトラブル防止になります。
このような状況にお困りなら、一度専門家に相談するだけでも対応の道が見えることがあります。
まとめ
口頭での昇給約束は、書面がなくても法的に有効である可能性が高く、「書面がないから反故にしても大丈夫」という認識は大きなリスクを生みます。社員がチャットや録音などの証拠を持っているケースも多く、問題発覚後の不用意な対応が新たな証拠になることもあります。また、2020年の法改正により未払い賃金の時効は3年に延長されており、金銭的リスクも無視できません。
対処のポイントは、まず「現状の証拠状況を冷静に把握すること」、次に「一方的な対応を避け、社員との合意を丁寧に取り直すこと」、そして「今後の条件変更はすべて書面で残す習慣をつくること」の3点です。
ウェルセンス株式会社では、専任人事がいない中小企業の経営者・兼務人事担当者からの、こうした人事労務の課題に関するご相談をお受けしています。「すでに約束してしまった」「社員から請求されそうで不安」という段階でも、対応の選択肢は残っています。まずは現状をお聞かせください。
よくある質問
🔗 人事の責任を一人で抱えず、まずは現状を聞いてもらうことから始めてみてください。 →
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