「採用時から給与を変えていないけど、これって問題になる?」——ある日、長年勤めた従業員からそう切り出されたとしたら、あなたはすぐに答えられるでしょうか。賃金据え置きそのものは必ずしも違法ではありません。しかし、就業規則の文言・昇給の実績・口頭での説明次第では、未払い賃金として請求される根拠になりえます。しかも2020年の法改正で時効は最大3年に延長されており、「2年前までしか遡れない」という認識はすでに古くなっています。この記事では、賃金据え置きがどういう条件で法的リスクに転化するのかを整理し、今から整備すべき実務対応を具体的に解説します。
賃金を上げなかったことは「未払い」になるのか
結論から言えば、賃金を据え置いただけでは自動的に未払い賃金にはなりません。ただし、一定の条件が揃うと「本来支払うべき金額との差額」を請求される根拠が生まれます。
昇給義務は原則として存在しない
労働基準法は、賃金の「改定」(昇給・降給)を使用者の義務とは定めていません。最低賃金を下回らない限り、何年賃金を据え置いても、それだけで法律違反にはなりません。中小企業の経営者が「業績が厳しいから今年も据え置き」と判断すること自体は、原則として使用者の裁量の範囲内です。
例外:契約・規則・慣行によって義務が発生する
問題になるのは、以下のいずれかに該当するケースです。
- 労働契約に昇給を明記している(例:「毎年4月に昇給する」)
- 就業規則に義務的な昇給規定がある(例:「昇給は毎年行う」)
- 毎年昇給してきた実績があり、従業員が当然のものとして期待している
- 職能給・号俸制など等級が上がれば賃金が上がる仕組みが規定されている
これらの条件が揃うと、昇給は「会社の好意」ではなく「契約上の債務」として扱われます。その場合、据え置いた分が「支払わなかった賃金の差額」=未払い賃金とみなされる可能性があります。
「昇給は会社が定める」という文言は安全策にならない
就業規則に「昇給の有無・時期・金額は会社が定める」と書いてあっても、それだけで義務を免れるとは限りません。口頭での説明内容、過去の昇給実績、等級制度の存在——これらが総合的に判断され、「昇給が当然期待できる状況だった」と認定されると、文言の留保が意味をなさなくなるケースがあります。就業規則の文言と実態が乖離しているほど、リスクは高まります。
時効はいつまで遡れるか——2020年改正で変わった現実
賃金債権の消滅時効は、2020年の民法改正(令和2年法律第13号による労働基準法附則の経過措置)により延長されました。「2年前までしか請求できない」という認識はすでに正確ではありません。
時効期間は「当面3年」に延長されている
以下の表のとおり、支払期日の時期によって時効期間が異なります。
| 支払期日が到来した時期 | 消滅時効の期間 |
|---|---|
| 2020年3月31日以前 | 2年 |
| 2020年4月1日以降 | 当面3年(本則は5年) |
「当面3年」は暫定的な経過措置であり、将来的に5年へ延長される方向性が労働基準法の附則に明示されています。つまり、現時点でも最大3年分、将来的には最大5年分の差額を請求されうるリスクがあります。
金銭的リスクを具体的にイメージする
仮に月給25万円の従業員に対して、本来年1万円の昇給義務があったと認定された場合を考えてみましょう。3年間据え置いていたとすれば、請求対象になりうる差額は3年分の累積となります。さらに、複数の従業員が同様の状況であれば、請求額は乗算されます。「たかが数千円の昇給」という感覚でも、年数と人数が重なれば経営に直結する金額になりえます。
時効の「起算点」にも注意が必要
消滅時効は、賃金の支払期日ごとに個別に進行します。毎月の給与日ごとにカウントが始まるため、「まだ退職していないから大丈夫」とは言えません。在籍中であっても、支払期日から3年が経過した分については時効が成立しますが、逆に言えば直近3年分は常に請求対象として残り続けます。
自社の昇給規定は「義務」か「裁量」か——就業規則の点検ポイント
未払い請求リスクの有無は、就業規則と雇用契約書の記載内容を確認することで、ある程度自社で判断できます。チェックすべき観点を整理します。
就業規則の昇給規定の「義務度」を見極める
就業規則の昇給条項には、義務度の高いものと低いものがあります。「毎年4月に昇給する」という表現は義務的であり、「業績に応じて昇給することがある」という表現は裁量的です。自社の就業規則がどちらに近いかを確認し、義務的な文言が含まれている場合は、その条項が実態と乖離していないかを点検する必要があります。
雇用契約書と就業規則の整合性を確認する
雇用契約書に「昇給:あり」と記載しながら、就業規則では「昇給の有無は会社が決定する」と書いてある——こうした矛盾がある場合、従業員側に有利な解釈が適用されるリスクがあります。労働契約法の原則として、労働者に不利な変更は合理的な理由と周知が必要であり、書類間の矛盾はそれ自体が争点になりえます。
等級制度・号俸制が存在する場合は特に注意
職能給や号俸制を採用している企業では、等級が上がれば賃金が上がる仕組みが規定に組み込まれています。この場合、「等級を上げずに賃金も据え置く」は制度上整合しますが、「等級は上げたのに賃金は据え置く」は矛盾であり、支払義務が発生していると判断される可能性があります。等級制度がある企業は、等級の運用実績と賃金実績が一致しているかを確認してください。
就業規則の見直しは単なる法的対応ではなく、従業員との信頼関係を守るためのステップでもあります。「自社の現状はどうなっているか」「どのリスクが高いのか」判断に迷ったら、専門家に相談することで解決の筋道が見えやすくなります。
就業規則の不利益変更——制度を変えるときの落とし穴
既存の昇給制度を縮小・廃止しようとする場合、就業規則の不利益変更(労働契約法第10条)の問題が生じます。「これから変えれば大丈夫」と安易に考えると、変更自体が無効と判断されるリスクがあります。
不利益変更が有効になるための要件
労働契約法第10条は、就業規則の変更が労働者に不利益をもたらす場合、その変更が有効であるためには「合理的な理由」と「労働者への周知」の両方が必要だと定めています。合理性の判断要素には、変更の必要性の程度、不利益の内容・程度、代償措置の有無、労働組合との交渉経緯などが含まれます。
変更が無効と判断された場合のリスク
不利益変更が無効と判断されると、変更前の就業規則がそのまま継続適用されます。たとえば「毎年昇給する」という規定を「昇給しないことがある」に変更しても、その変更が無効であれば、従業員は変更前の条件で昇給を請求できることになります。制度を変えようとしたこと自体が、争いの火種になるケースもあります。
変更を行う場合の実務的な手順
制度変更を行う場合は、まず変更の必要性を明確にし、次に従業員(または労働組合・過半数代表者)に対して丁寧に説明・協議を行い、代償措置がある場合はそれも提示します。その後、変更した就業規則を労働基準監督署へ届け出るとともに、従業員全員に周知します。この手順を省略した変更は、後から「無効」と主張される根拠になります。
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今から整備すべき実務対応
未払い請求リスクを防ぐための対策は、「制度の明確化」「記録の整備」「対話の実施」という三本柱で考えるのが実務的です。会社の規模や現在の整備状況によって、優先する対応が異なります。
就業規則の昇給規定を実態に合わせて整備する
まず、就業規則の昇給条項を現在の実態と一致させることが最優先です。「毎年昇給する」という実態のない義務的文言は、「業績・評価に基づき昇給を検討する」という裁量的な表現に見直すことを検討します。ただし前述のとおり、変更は不利益変更の手続きを正しく踏む必要があります。人事制度(等級・賃金テーブル)がない企業は、この機会に簡易的な基準を設けることで、将来の昇給判断に客観的な根拠を持たせることができます。
賃金決定の根拠を記録として残す
据え置きを行った年度については、「なぜ昇給しなかったか」という判断の記録を残しておくことが重要です。業績データ、経営会議の議事録、従業員への説明記録——こうした証拠があると、昇給義務の有無を争う場面で会社の主張を裏付ける材料になります。記録がなければ「根拠なく据え置いた」という印象を与え、交渉・訴訟を不利にします。
従業員との対話を早期に行う
法的な問題である以前に、賃金据え置きは「10年間ないがしろにされた」という感情的な不満と結びつきやすい問題です。従業員が弁護士に相談したり、労働基準監督署に申告したりする前に、まず対話の場を設けることが重要です。賃金の見直しが難しい場合でも、現状の説明と今後の見通しを誠実に伝えることで、問題が法的請求に発展するリスクを大幅に下げられます。対話を先延ばしにするほど、関係修復のコストは上がります。
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まとめ
賃金据え置きは、それだけで即違法にはなりません。しかし就業規則の文言・昇給の実績・口頭での説明内容によっては、未払い賃金請求の根拠になりえます。2020年の法改正により時効は最大3年(将来的に5年の可能性あり)に延長されており、「もう時効だから安心」という状況は常に変化しています。リスクを防ぐためには、就業規則の昇給規定を実態と一致させること、賃金決定の根拠を記録として残すこと、そして従業員との対話を早期に行うことが必要です。「うちは大丈夫だろうか」と思った段階が、整備を始める最適なタイミングです。
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