昇給基準を明文化して属人化を防ぐ評価ルールの作り方

昇給基準を明文化して属人化を防ぐ評価ルールの作り方 人事制度
Photo by Ketut Subiyanto on Pexels

「どうすれば給料が上がるのか、社員に聞かれて答えられなかった」——そんな経験をした経営者・人事担当者は少なくありません。昇給の判断が経営者の感覚や印象に依存している企業では、社員のモチベーション低下や離職が静かに進行しています。昇給基準を明文化し、誰が見ても納得できるルールを設計することは、採用・定着・法的リスク対策のすべてに直結する経営課題です。

「社長の気分で昇給が決まる」状態が引き起こすリスク

属人化した昇給判断が離職を生む構造

20〜50名規模の企業では、昇給の判断が経営者や特定の上司の印象に依存しているケースが非常に多く見られます。「なんとなく頑張っていた人を上げた」「声が大きくて存在感がある人が有利になる」という状態が常態化すると、正当に評価されていない社員は不満を抱えながら沈黙し、やがて退職という形で組織を去っていきます。

深刻なのは、経営者側には「なぜ辞めたのか」が見えない点です。退職理由としてアンケートに「一身上の都合」と書かれても、その背景に評価・昇給への不満があることには気づけません。離職コストは採用費・引き継ぎコストを含めると年収の30〜50%ともいわれており、見えないところで経営体力を削り続けます。

採用面でも昇給基準のなさはマイナスになる

採用強化期に面接で「昇給基準を教えてください」と求職者から聞かれて詰まるケースが増えています。特に20代・30代の転職者は、給与の透明性を重視する傾向が強く、「頑張れば上がります」という曖昧な回答では信頼を得られません。昇給基準が明文化されているかどうかは、企業の組織成熟度を測るバロメーターとして見られています。

法的リスクという視点からも看過できない

昇給基準がないことは、法的なリスクも生みます。育休・休職中の社員の昇給をどう扱うかルールが存在しない場合、「なんとなくそのままにしておく」対応が育児・介護休業法第10条の不利益取り扱い禁止に抵触する可能性があります。ルールがないこと自体が法的リスクの温床になるのです。

昇給基準を明文化する前に押さえておく法律の知識

就業規則への記載は法律上の義務

労働基準法第89条では、昇給に関する事項は就業規則の絶対的必要記載事項のひとつとされています。常時10名以上の労働者を雇用する事業場では、就業規則の作成と労働基準監督署への届出が義務づけられています。

注意が必要なのは、「昇給は会社が決定する」という一文だけでは不十分とされる実務解釈が広まっている点です。「昇給の有無」「昇給の時期」「昇給額・昇給率の決定方法」まで記載することが求められます。現在の就業規則に「会社が定める」としか書かれていない場合は、見直しのタイミングです。

既存社員への不利益変更には慎重な手続きが必要

昇給基準を新たに設計・変更する際、注意すべきなのが労働契約法第9条・第10条に定める不利益変更の禁止です。既存社員にとって不利になる内容への変更は、合理的な理由と適切な手続きなしには認められません。

たとえば、これまで「なんとなく全員3,000円昇給」だったルールを「評価Cの社員は昇給なし」に変更する場合、実質的に不利益変更となり得ます。新しい基準を導入する際は、社員への丁寧な説明と合意形成のプロセスを省略しないようにしましょう。

非正規社員にも昇給基準の説明が求められる時代

パートタイム・有期雇用労働法第8条・第9条(同一労働同一賃金)の観点から、正社員と非正規社員の間で昇給基準の有無や内容に不合理な差があることも問題となります。非正規社員から「なぜ私には昇給基準の説明がないのか」と問われたとき、答えられる状態を整えておくことが必要です。

昇給基準を設計するための4つの要素

「時期・原資・基準・連動ロジック」を整理する

昇給ルールを設計するうえで、まず整理すべき要素は次の4つです。

時期は、定期昇給をいつ実施するかです。4月や10月など会社の決算・評価サイクルに合わせて設定します。原資は、昇給にあてる総額をどう設定するかです。「全社で月額給与総額の1%を原資とする」のように総額管理する方法と、職種・グレードごとに個別管理する方法があります。

基準は、何をもとに昇給を判断するかです。評価シートの結果、目標達成率、スキル習得状況などが代表的な指標です。そして連動ロジックは、評価ランクと昇給額・昇給率の対応表です。「評価Aなら月額3,000円増」「評価Bなら1,500円増」のように、評価結果を金額に変換するルールです。この4要素が揃って初めて「説明できる昇給」が実現します。

小規模企業に向く3つの設計パターン

評価連動型の昇給設計には、主に3つのパターンがあります。

定昇+考課昇給型は、全社員に一定額の定期昇給(例:月額1,000円)を行ったうえで、評価ランクに応じた加算を行う方式です。「頑張った人が報われる」感覚を持たせながら、全員に最低限の昇給を保証できるため、社員の安心感を確保しやすい設計です。

考課昇給のみ型は、定期昇給を設けず、評価ランクのみで昇給を決める方式です。原資を効率的に配分したい企業向けですが、評価Cや評価なしの場合は昇給ゼロになるため、社員への丁寧な説明が不可欠です。

号俸表連動型は、グレード(等級)と号俸(ランク)のマトリクスで昇給幅を規定する方式です。「営業職グレード2・号俸3の社員は評価Aで2号俸アップ」のように一覧化することで、判断の属人化を排除できます。組織が30名を超えてきた企業に導入しやすい設計です。

「評価シートと賃金テーブルをつなぐ」橋渡し設計が鍵

多くの企業では「評価シートはある。でも昇給額を決めるときはまた感覚で決めている」という状態に陥っています。評価制度と賃金制度が”別々の書類”として存在しており、実際の昇給判断は毎年ゼロベースで行われます。

解決策は、既存の評価シートの評価ランク(A・B・C等)と昇給テーブルを対応表として一枚の資料にまとめることです。たとえば「評価A:+3,000円、評価B:+1,500円、評価C:+0円、評価D:据え置き検討」のように明記するだけで、毎年の昇給作業が格段にシンプルになります。

明文化した昇給基準を社内に浸透させるポイント

社員に「読める場所」に置くことが信頼の第一歩

昇給基準を設計したら、社員がいつでも確認できる形で開示することが重要です。就業規則への記載はもちろんのこと、社内ポータルや共有フォルダに「昇給ルール説明資料」として掲示しておくと、社員の納得感が高まります。

「開示すると文句が来るかもしれない」と心配する経営者もいますが、実態は逆です。ルールが見えないことへの不満のほうが、社員の離職意向を高める要因となっています。エンゲージメントサーベイでも「評価・報酬の納得感」は離職意向との相関が特に強い項目として報告されています。

育休・休職中の社員への適用ルールも明記する

昇給ルールを設計する際に見落とされがちなのが、育休・休職中の社員への対応です。「休んでいた期間はどう扱うか」を明記しないままにしておくと、担当者の判断でその都度対応するしかなく、不公平感や法的リスクが生じます。

実務的な対応例としては、「育休取得期間については評価対象期間を在籍月数で按分して算出する」「休職中は昇給対象期間から除外するが、復職後は翌年度の評価から通常通り適用する」のように、ルールの例外処理まで文書に落とし込むことが重要です。厚生労働省は「育休中の昇給機会を一律に排除することは不利益取り扱いにあたりうる」との見解を示しており、慎重な設計が求められます。

昇給判断の根拠を記録として残す運用を習慣化する

昇給基準を明文化したとしても、毎年の判断根拠を記録として残していなければ、担当者が交代したときに属人化が再発します。「誰が・いつ・どの評価結果をもとに・いくら昇給を決めたか」を記録するシンプルな台帳(ExcelやGoogleスプレッドシートで十分)を整備し、毎年の昇給シーズンに更新していく運用を習慣化しましょう。記録が積み重なることで、翌年以降の判断の一貫性も保たれます。

小規模企業が陥りやすい昇給設計の失敗パターン

精緻すぎる制度を作って運用できなくなる

昇給基準の設計に取り組む際、「せっかく作るなら完璧な制度を」と考えて複雑すぎるルールを作ってしまうケースがあります。グレード体系を5段階に分け、評価項目を20項目以上設定し、昇給テーブルを細かく設計しても、運用する人員も時間もない中小企業では形骸化します。

まずは「評価ランク3段階×昇給額の対応表」という最小限の設計から始め、運用しながら改善していくアプローチが現実的です。完成度より継続性を優先することが、小規模企業での制度設計の鉄則です。

導入時に社員への説明を省略してしまう

新しい昇給基準を設計しても、社員への説明なしに運用を始めると「急にルールが変わった」「自分に不利な基準に変えられた」という不信感を招きます。特に既存社員にとって実質的な不利益変更となる可能性がある場合は、労働契約法の観点からも丁寧な説明と合意形成が必要です。

導入前に全体説明の場を設け、「なぜ明文化するのか」「自分たちにとってどんなメリットがあるか」を伝えることで、制度への信頼感は大きく変わります。

一度作ったら見直さない固定化問題

昇給基準は一度作って終わりではありません。会社の規模や事業内容が変われば、必要なスキルや役割も変化します。少なくとも2〜3年に一度は内容を見直し、「今の会社の状況に合っているか」を確認する機会を設けることが重要です。見直しの際は社員代表からのフィードバックを取り入れると、制度の納得感がさらに高まります。

まとめ

昇給基準の明文化は、単なる「制度整備」ではありません。社員の離職防止、採用競争力の強化、法的リスクの回避、そして毎年の昇給作業の効率化まで、多くの経営課題を同時に解決する取り組みです。まず「時期・原資・基準・連動ロジック」の4要素を整理し、既存の評価シートと昇給テーブルをつなぐ対応表を一枚作ることから始めてみてください。完璧な制度を目指すより、「説明できる昇給」を実現することが最初のゴールです。

とはいえ、「どこから手をつけていいかわからない」「現状の評価シートをどう昇給に連動させればいいか判断できない」という方も多いと思います。ウェルセンス株式会社では、現状の昇給判断の属人化リスクを一緒に整理し、貴社の規模・状況に合った昇給ルールの設計をサポートしています。人事の専任担当がいなくても運用できる、シンプルで実用的な仕組みづくりを得意としています。昇給シーズンを前に「今年こそルールを整えたい」と思われたら、まずは気軽にご相談ください。

よくある質問

Q. 従業員が10名未満でも昇給基準を明文化する必要がありますか?

A. 就業規則の作成・届出義務は常時10名以上の事業場に課されていますが、10名未満でも昇給基準を明文化することは強く推奨されます。基準がないまま運用すると、社員の不満や離職につながるほか、育休・休職中の社員への対応で法的トラブルが発生するリスクがあります。規模にかかわらず、「説明できる昇給」を目指すことが大切です。

Q. 昇給基準を新たに設けると、これまで多く昇給していた社員への不利益変更になりますか?

A. 新しいルールの内容によります。たとえば「これまで感覚で5,000円上げていたが、ルール化すると評価Bで1,500円になる」という場合、実質的に不利益変更となる可能性があります。この場合は、労働契約法第10条に基づき、合理的な理由の説明と社員への丁寧な説明・合意形成が必要です。新制度の導入には移行期間を設けるなど、段階的なアプローチも有効です。

Q. 評価制度がまだ整っていない場合、昇給基準から先に作ることはできますか?

A. 可能ですが、評価制度と昇給基準はセットで設計することを推奨します。昇給基準だけを先に作ると、「何を評価してその金額になったのか」が説明できないためです。最小限でも「目標達成度を3段階で評価し、各ランクに昇給額を対応させる」というシンプルな評価連動の枠組みを同時に整備することで、社員に納得感を持って説明できる仕組みが完成します。

Q. 育休から復職した社員の昇給はどのように扱えばよいですか?

A. 育休取得を理由に昇給機会を一律に排除することは、育児・介護休業法第10条の不利益取り扱い禁止に抵触する可能性があります。実務上は「育休期間を按分して在籍月数で評価対象を計算する」「復職後の最初の評価サイクルから通常通り適用する」などのルールを就業規則や昇給規程に明記しておくことが有効です。個別対応ではなくルールを整備することで、担当者の判断ブレや法的リスクを防げます。

Q. パート・アルバイトにも昇給基準を設ける必要がありますか?

A. パートタイム・有期雇用労働法(同一労働同一賃金)の観点から、正社員と非正規社員の昇給基準に不合理な差を設けることは問題となります。非正規社員にも昇給の有無・基準を説明できる状態を整えることが求められています。正社員と全く同じ基準でなくとも、「勤務評価に基づいて時給を見直す仕組みがある」ことを示せるよう、別途シンプルな昇給ルールを設けることが実務的な対応です。

【監修】ウェルセンス株式会社
社会保険労務士・産業カウンセラーと連携し、中小・成長企業の人事課題に向き合う実務ノウハウをお届けします。
タイトルとURLをコピーしました