「この候補者に400万円を提示したいけど、既存の社員と逆転しないか…」「給与交渉されたとき、どこまで上げていいか基準がない」——採用のたびにこうした悩みを抱えながら、勘と経験で乗り切ってきた経営者・人事担当者は少なくありません。給与レンジの設計は、採用成功率と社内公平感の両方に直結する重要な仕組みです。この記事では、専任人事がいない中小企業でも実践できる給与レンジの設定方法と、交渉余地の作り方を具体的に解説します。
給与レンジとは何か、なぜ中小企業に必要か
給与レンジとは、特定のポジションや等級に対して「下限額〜上限額」を定めた給与の幅のことです。採用時だけでなく、既存社員の処遇管理や昇給設計の土台にもなります。
「なんとなく相場」からの脱却
多くの中小企業では、求人票に記載する給与額を「同業他社の求人票を見て決める」「社長の感覚で決める」といった方法で設定しています。これ自体が悪いわけではありませんが、根拠のない設定はトラブルの温床になります。候補者に「なぜこの金額なのか」と問われたとき答えられない、既存社員から「なぜ新人の方が高いのか」と不満が出る——こうした問題は、レンジの設計が不在であることから生じます。
給与レンジがもたらす採用と定着への効果
給与レンジを整備すると、採用担当者が自信を持って金額を提示できるようになります。また、候補者に対して「あなたの経験・スキルに基づいてこのレンジ内で提示しています」と説明できるため、納得感が高まり内定承諾率の向上にもつながります。さらに、入社後の昇給イメージを示すことで「この会社で長く働けるか」という候補者の不安を払拭する材料にもなります。
給与相場の調査方法——お金をかけずに情報を集める
大手企業が活用する賃金サーベイ(外部調査会社のデータ)は、中小企業には費用・手間ともにハードルが高いのが現実です。しかし、無料または低コストで使える情報源を組み合わせれば、十分に実用的な相場観を得られます。
公的データと求人媒体を組み合わせる
まず活用すべきは、厚生労働省が毎年公表している「賃金構造基本統計調査」です。職種・産業・企業規模別の賃金データが無料で閲覧できます。加えて、求人媒体(求人ボックス、Indeed、doda等)の給与検索機能を使えば、同業・同地域・同職種の求人票に記載された給与レンジをリアルタイムで確認できます。この2つを組み合わせるだけで、相場の「だいたいのゾーン」は把握できます。
エージェントと内定辞退者からのフィードバック
人材紹介会社(エージェント)を使っている場合は、担当コンサルタントに「同職種・同規模で決まった年収の実績値」を確認することが有効です。エージェントは日々の商談から相場感を持っており、公的データより実態に近い情報を提供してくれます。また、内定を辞退した候補者に対して「差し支えなければ、他社のオファー条件と比較してどう感じましたか」と確認することも、自社の給与水準を客観視する機会になります。
給与レンジの設定方法——下限・上限・幅の決め方
給与レンジは「下限」「上限」「幅」の三要素で構成されます。それぞれに設計の根拠を持たせることが、内外への説明責任につながります。
下限額の決め方
下限額は「このポジションで最低限求めるスキル・経験を持つ人に支払う金額」です。設定の際は、同ポジションの既存社員の最低年収を下回らないことを基準にします。既存社員がいない新設ポジションの場合は、相場調査で確認した中央値の8〜9割程度を目安に設定します。下限を低くしすぎると、応募者から「誠実でない会社」と見られるリスクがあります。
上限額と幅の設計
上限額は「このポジションで最大限のパフォーマンスを発揮できる人に支払う金額」です。実務慣行として、同一ポジションのレンジ幅(上限÷下限)は20〜30%程度以内に収めると、既存社員との給与バランスが保ちやすくなります。たとえば下限350万円のポジションであれば、上限は420〜455万円程度が目安です。幅が広すぎると候補者の期待値のコントロールが難しくなり、「年収400万〜700万円」のような設定は信頼性を下げます。
ポジション別の簡易グレード設計
複数ポジションがある場合は、最低限でも「一般職」「リーダー・主任」「管理職」の3階層程度に分けてレンジを設定することをお勧めします。完全なジョブグレード制度を整備しなくても、この3階層があるだけで「この人はどのレンジに入るか」の判断が格段にしやすくなります。
| グレード | 対象イメージ | レンジ設定の考え方 |
|---|---|---|
| 一般職 | 実務担当・経験3年未満 | 相場中央値の90〜110% |
| リーダー・主任 | チームリード・専門職 | 一般職上限の1.1〜1.2倍 |
| 管理職 | 部門責任者・マネジャー | リーダー上限の1.2〜1.4倍 |
逆転現象を防ぐための既存社員との整合の取り方
「新しく採用した社員の方が給与が高い」という逆転現象は、既存社員のモチベーション低下と退職リスクを高めます。採用時にこの問題を予防する仕組みを持つことが重要です。
逆転現象が起きる構造的な原因
逆転現象の多くは、採用市場の相場が上昇しているにもかかわらず、既存社員の昇給が追いついていないことから生じます。また、採用のたびに個別交渉で給与を決めてきた結果、在籍年数や貢献度と無関係な給与体系が積み上がっているケースもあります。まず自社の現状を「誰がいくら受け取っているか」を一覧化し、ポジションごとの給与分布を確認することが出発点です。
採用前に確認すべきチェックポイント
新たな採用オファーを出す前に、同ポジションまたは近いポジションの既存社員の年収と比較します。もし採用オファー額が既存社員を上回る場合は、オファーを下げるか、既存社員の昇給・一時金で対応するかを経営判断として決めておく必要があります。「採用できたが、それが既存社員の退職を招いた」という本末転倒を避けるために、採用コストだけでなく定着コストも含めた総合的な視点が求められます。
ポイント
給与レンジ設定で迷ったときは、一度全体を見直す機会が必要です。現状把握から構造改善まで、専門家のサポートを活用することで解決スピードが大きく変わります。
交渉余地の作り方——給与交渉に備えた社内設計
候補者から「もう少し上げられますか」と言われたとき、その場で場当たり的に判断しないために、あらかじめ「交渉余地」を設計しておくことが不可欠です。
オファー提示額と上限額を分けて設計する
給与レンジの中で、採用担当者が即決できる「通常オファー額」と、上長の承認が必要な「交渉上限額」を事前に決めておきます。たとえばレンジが350〜420万円のポジションであれば、「担当者権限で提示できるのは350〜390万円、390万円超は部長承認が必要」といった社内ルールを設けます。これにより、交渉を受けた際に「確認が必要ですが、可能であれば○○万円まで対応できます」と誠実に、かつ根拠を持って対応できます。
交渉されやすいポイントへの事前対応
候補者が給与交渉を持ち出す背景には、「現職の年収を維持したい」「他社からより高いオファーが来ている」の2パターンが多くあります。前者に対しては「現職年収の確認を選考プロセスの早い段階で行う」ことで、レンジが合わない候補者に無駄なコストをかけずに済みます。後者に対しては、金額だけで競うのではなく「入社後の昇給パス」「裁量の大きさ」「福利厚生」など、金銭以外の魅力を整理して提示できると交渉の土俵が変わります。
内定通知書への年収幅の記載方法
内定通知書に年収を記載する際は、「年収○○万円(試用期間3ヶ月は月額○○万円、以降は月額○○万円)」のように確定額で示すことが基本です。「年収○○万円〜○○万円」という幅表記を内定通知書に用いると、確定額としての明示義務(労働基準法第15条・同施行規則第5条)を満たさない可能性があります。求人票では幅表記が許容されますが、内定通知書・雇用条件通知書では確定額の記載が原則です。また、固定残業代(みなし残業代)を含む場合は、最高裁判例(日本ケミカル事件・2017年)の基準に従い、固定残業の時間数と金額を明確に区分して明示する必要があります。
求人票の給与表記で注意すべき法的ポイント
求人票の給与表記は、採用トラブルの入り口になりやすい箇所です。職業安定法および労働基準法の観点から、正確な記載ルールを押さえておきましょう。
求人票と雇用条件通知書の齟齬を防ぐ
職業安定法第65条は、求人票に虚偽の内容を記載することを禁じています。また、2022年10月施行の職業安定法施行規則改正により、求人情報の的確な表示が義務化されています。求人票に「年収400万円〜600万円」と記載しておきながら、実際のオファーが常に400万円前後であれば、実態と乖離した表示として問題となりうります。求人票の上限額は「在籍社員の実績上位者の年収」を目安に設定し、初年度想定額は面接の早い段階で口頭でも補足することが実務上のベストプラクティスです。
固定残業代・試用期間給与の明記ルール
固定残業代を含む給与体系の場合、求人票には「月給○○万円(固定残業代○時間分・○万円を含む。超過分は別途支給)」と具体的に記載します。試用期間中に本採用より低い給与を設定する場合も、求人票と雇用条件通知書の双方に明記が必要です。これらを曖昧にしたまま採用を進めると、入社後に「聞いていた条件と違う」というトラブルに発展しやすく、最悪の場合、労働基準監督署への申告や訴訟リスクにつながります。なお、性別を理由に同一ポジションで異なる給与レンジを設定することは、労働基準法第4条(男女同一賃金の原則)に反します。
採用時の給与設定は、後々の人事課題に直結します
法的リスクを避け、社員の納得感を高めるためには、給与レンジの整備と社内ルールの明確化が欠かせません。判断基準が曖昧なままでは、採用のたびに同じ悩みを繰り返すことになります。
まとめ
給与レンジの設計は、採用の成功率・既存社員の定着・給与交渉への対応力のすべてに影響します。まず相場調査で「市場水準」を把握し、次にポジションごとの簡易グレードを設定してレンジの下限・上限を決める。そのうえで、交渉余地を社内決裁フローとして整備し、求人票と内定通知書の記載内容を法的に適切に整える——この流れを一度整えることで、採用のたびに迷う状況から抜け出せます。
とはいえ、「どこから手をつければいいかわからない」「自社の給与体系を客観的に見てほしい」という場合は、専門家のサポートを活用することも有効です。ウェルセンス株式会社では、人事制度が整備されていない成長企業向けに、給与設計・採用オファー基準の整備から人事労務全般の課題解決まで伴走支援しています。採用と定着の両面から、貴社の人事課題の整理から解決策の実装までお手伝いします。まずはお気軽にご相談ください。
よくある質問
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