「健康保険組合から休職中の社員の受診状況について照会が来た。これは回答しなければいけないのか、でも勝手に答えたら個人情報保護法に違反するのでは……」。そんな判断の難しい状況に直面したとき、専任の人事担当者も顧問社労士もいない中で、締め切りだけが迫ってくる——そのプレッシャーはよくわかります。この記事では、健康保険組合からの照会に会社がどこまで回答する義務があるのか、個人情報との関係をどう整理するのか、実務で使える判断基準と手順をわかりやすく解説します。
健康保険組合からの照会に、会社は回答義務があるのか
結論から言えば、「照会の種類によって義務の有無が異なる」というのが正確な答えです。すべての照会に一律に回答義務があるわけではなく、逆にすべて断れるわけでもありません。
傷病手当金申請書の「事業主証明欄」は法的義務
傷病手当金の申請書には、事業主が記入する証明欄があります。この欄への記入は、健康保険法(第99条等)に基づく事業主の法定義務です。「その期間、業務に就けなかったか」「給与の支払いがあったかどうか」といった事実を証明するもので、これは「照会への任意回答」とは性質が異なります。証明を拒否する理由はなく、速やかに対応するべき事項です。
受診状況・病名などの医療情報は義務の対象外
一方、「社員がどの医療機関に何回通ったか」「どんな診断を受けているか」といった受診情報は、そもそも会社が通常把握していない情報です。健保組合がそうした情報を会社に照会してくることがありますが、これに対して会社が法的に回答しなければならない根拠はありません。「公的な文書が来た=全部答えなければ」と思い込まず、まず照会の内容を確認して種類を見極めることが重要です。
健康保険組合は「公的機関」ではない
健康保険組合は私法人(特別の法人)であり、行政機関ではありません。税務署や労働基準監督署からの調査とは法的根拠が異なります。公的な体裁の文書が届くため「断れない」と感じやすいのですが、照会すべてに義務的に応じる必要はないということを、まず理解しておいてください。
個人情報保護法との関係を正確に理解する
休職中の社員に関する情報を健保組合に提供することは、個人情報保護法上の「第三者提供」に該当する可能性があります。どのような場合に本人同意が必要で、どのような場合が例外となるのかを整理します。
健保組合への情報提供は原則「第三者提供」
個人情報保護法第27条(旧第23条)は、本人の同意なく個人情報を第三者に提供することを原則として禁止しています。健康保険組合は、たとえ自社が設立に関与している組合であっても、法人格が異なる以上「第三者」に該当します。したがって、社員の個人情報を健保組合に提供する場合は、原則として本人の事前同意が必要です。
「法令に基づく場合」は本人同意なしで提供できる
ただし、同法第27条第1項第1号では「法令に基づく場合」は例外として本人同意なしの提供が認められています。先ほど述べた傷病手当金申請書の事業主証明欄への記入は、健康保険法上の義務的行為として、この例外に該当すると解釈されます。つまり、法定の証明行為については個人情報保護法違反にはなりません。
医療情報の照会はこの例外に当たらない
受診状況や病名など、法定証明の範囲を超えた情報の照会については「法令に基づく場合」の例外が適用されません。本人の同意なしに回答すると、個人情報保護法違反となるリスクがあります。善意で「全部答えておいた」という対応が、後に社員との信頼関係を損なったり、トラブルの原因になったりするケースは実際に起きています。
照会の種類を見極める判断フロー
健保組合から届いた照会文書を受け取ったら、まず「何を・なぜ・いつまでに」求めているのかを整理し、回答義務の有無と必要な手続きを判断します。以下の表が実務での判断基準になります。
| 照会の種類 | 具体例 | 回答義務 | 本人同意 |
|---|---|---|---|
| 傷病手当金申請書の事業主証明欄 | 労務不能期間・給与支払いの有無 | 法的義務あり | 個別取得は不要(法令に基づく行為) |
| 受診状況・通院頻度の照会 | 「何回通院したか」「どこの病院か」 | 義務なし | 回答する場合は本人同意が必要 |
| 資格確認・在籍確認 | 「現在も在籍しているか」 | 実務上対応が望ましい | 在籍の有無程度なら許容範囲内だが確認推奨 |
| 病名・診断内容の照会 | 「傷病名を教えてほしい」 | 義務なし | 回答する場合は必ず本人同意が必要 |
照会文書が届いたら、上記の表に照らして「どの種類の照会か」を確認することが最初のステップです。複数の照会が1通の文書にまとまって届くこともあるため、項目ごとに分けて判断してください。
本人への確認・同意取得の実務手順
法定証明の範囲を超えた照会に応じる場合、または照会内容が不明確な場合は、本人への確認と同意取得が必要です。「休職中の社員に連絡するのは気が引ける」という声はよく聞きますが、適切な方法で連絡することは配慮と義務の両立が可能です。
本人への連絡は「配慮のある伝え方」で
休職中の社員への連絡は、本人の回復状況に配慮しながら行う必要があります。電話よりもメールや文書での連絡が望ましい場合も多く、「健康保険組合から照会が届いています。回答してよいかどうか、また内容についても確認させていただけますか」という形で、事実を端的に伝えるだけで十分です。「どんな病気なのか」「いつ復帰するのか」といった本題とは関係のない質問を同時にしてしまうことは避けてください。
同意取得の記録は必ず残す
本人から同意を得たら、その事実を必ず記録に残してください。記録に含めるべき内容は、連絡した日時、連絡方法(電話・メール等)、同意した情報の範囲、同意の確認方法(口頭・メール返信等)です。後になって「そんな話は聞いていない」という認識のズレが生じることがあります。メールでのやり取りであれば履歴がそのまま証拠になるため、メールを推奨します。
同意が得られなかった場合の対応
本人が「回答しないでほしい」と言った場合、または連絡が取れない場合は、その旨を健保組合に伝えて回答を保留することが適切です。「本人に確認したところ、現時点での情報提供について同意が得られませんでした」という説明で対応できます。同意なく回答することは個人情報保護法上のリスクがあるため、無理に回答しないようにしてください。
照会への判断がつかない場合や、複数の照会に同時に対応する場合は、早めに専門家に相談することで後のトラブルを防げます。
回答後の記録保管と社内体制の整備
照会への対応は一度で終わりではありません。同じ社員の休職が長引けば複数回の照会が来ることもあり、対応の一貫性と記録の蓄積が後々の労使トラブル防止に役立ちます。
回答内容は社内に保存する
健保組合へ回答した内容(事業主証明欄に記入した内容を含む)は、コピーまたは記録を社内に保管してください。後で「あの時期は給与を支払っていたのか、いなかったのか」といった確認が必要になるケースがあります。人事・給与担当者と情報共有しながら、社員ごとのフォルダにまとめて管理する習慣をつけておくと安心です。
就業規則・個人情報取扱方針の整備も視野に
今後こうした照会への対応をスムーズにするためには、就業規則や社内の個人情報取扱方針に「健保組合等への情報提供に関する手続き」を明文化しておくことが理想です。特に従業員数が増えてきた企業では、担当者が変わっても判断基準がぶれないよう、マニュアルや判断フローを文書化しておくことを推奨します。就業規則への反映には社労士の関与が必要なため、顧問社労士がいない場合は専門家へのスポット相談も選択肢です。
対応が遅れるとどんなリスクがあるか
照会への対応を放置・後回しにすることには、見えにくいリスクが複数あります。「急ぎではないだろう」と思いがちですが、影響は社員・会社の双方に及びます。
傷病手当金の支給が遅れ、社員の不満につながる
傷病手当金は休職中の社員にとって主要な収入源です。事業主証明欄の記入が遅れると、健保組合の審査が止まり、社員への給付が遅延します。「会社が手続きを怠ったせいでお金が入ってこなかった」という状況は、復職後の労使関係にも悪影響を及ぼします。法定証明の範囲の書類は、受け取り次第速やかに対応することが原則です。
無回答・誤回答は後のトラブル要因になる
回答を放置した場合、健保組合から督促が来たり、最悪の場合、給付の不正受給調査の対象として会社も関係者として扱われることがあります。一方、本人同意なしに過剰な情報を回答してしまった場合は、社員からの個人情報侵害の申し立てに発展するリスクもあります。「よくわかからないからとりあえず全部答えた」という対応が最もリスクが高いことを認識してください。
人事判断を一人で抱えていると、リスク判断も自社のみの視点になってしまいます。外部の目を入れることで、同じ課題を扱った実例や最新の法解釈も得られます。
まとめ
健康保険組合からの照会への対応は、「照会の種類を見極めること」が出発点です。傷病手当金申請書の事業主証明欄への記入は健康保険法に基づく法定義務であり、速やかに対応が必要です。一方、受診状況や病名など法定範囲を超えた情報の照会には回答義務がなく、回答する場合は個人情報保護法に基づき本人の同意取得が必要となります。健保組合は行政機関ではないため、すべての照会に義務的に応じる必要はありません。同意取得の記録と回答内容の社内保管を徹底することで、後のトラブルを防ぐことができます。
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