「うちの従業員がミスをして、取引先に損害を与えてしまった。給与から引いてもいいよな?」——そう咄嗟に判断してしまう経営者は少なくありません。気持ちはよくわかります。実害が出ているのに何もできないのでは、会社が持ちません。しかし、その判断が後になって「未払い賃金の請求」という形で会社に跳ね返ってくるケースがあります。本記事では、業務ミスによる損害を合法的に回収するための考え方と、実務で使える3つの手順を解説します。
給与天引きは「原則として違法」という大前提
結論から言うと、業務ミスを理由に給与を一方的に差し引く行為は、労働基準法第24条(賃金全額払いの原則)に違反します。ただし「一切回収できない」わけではなく、適切な手順を踏めば損害の一部を回収することは可能です。
賃金全額払いの原則とは
労働基準法第24条は、賃金は「全額を・直接・通貨で・毎月1回以上・一定期日に」支払わなければならないと定めています。これを「賃金全額払いの原則」と呼びます。損害賠償名目での控除は、この原則に真っ向から違反します。法令による控除(所得税・社会保険料など)や、労使協定に基づく控除(財形貯蓄など)は例外として認められていますが、業務ミスによる損害賠償はこの例外には該当しません。
「就業規則に書いてあるから大丈夫」は通用しない
「うちの就業規則には天引きできると明記してある」というケースがあります。しかし、就業規則の定めがあっても、労働基準法に反する内容は無効です。就業規則は法令の範囲内でのみ有効であり、全額払い原則を超えた天引き条項は法的拘束力を持ちません。また、労働基準法第16条は「違約金・損害賠償の予定」を禁止しており、「ミスをしたら〇万円を支払う」という事前の取り決め自体が無効となります。
違反した場合のリスク
一方的に天引きを行ってしまった場合、従業員から「未払い賃金」として請求を受けるリスクがあります。労働基準監督署への申告、労働審判、民事訴訟と段階が上がるにつれ、会社のダメージも大きくなります。小規模企業ほど1件の対応コストが経営を圧迫するため、「知らなかった」では済まされない問題です。
本人の同意書があっても安心できない理由
「本人に同意書を書かせれば天引きできる」という考えは実務でよく聞きますが、その同意書が有効かどうかは状況によって大きく異なります。強制・圧力のある状況での署名は無効となるリスクが高く、これだけで安心してはいけません。
最高裁が示した「自由な意思」の基準
日新製鋼事件(最高裁平成2年11月26日判決)において、最高裁は「賃金と損害賠償の相殺合意は、労働者の自由な意思に基づくものと認められる客観的事情がある場合に限り有効」と判示しました。つまり、単に書面に署名させるだけでは不十分であり、「自由な意思による合意であること」が客観的に証明できなければなりません。
無効になりやすいケース
以下のような状況での同意書は、後から「強制的に署名させられた」と主張され、無効と判断されるリスクがあります。上司が圧力をかけた状況での署名、退職を引き留めるための条件として署名させた場合、内容を十分に説明せず署名させた場合などが典型例です。一方、退職後に冷静な状態で従業員自身が任意で返済計画に合意した場合は、有効と認められた判例もあります。状況と手続きの違いが、法的有効性を大きく左右します。
同意書を取る際に最低限すべきこと
任意の合意書を作成する場合は、少なくとも次の点を確認・記録しておくことが重要です。合意の内容(損害額・返済方法・期日)を書面で明確にすること、従業員が内容を理解したうえで署名していること、署名を強制していないこと(第三者の立会いや時間的余裕の確保)、そして従業員が弁護士や社労士に相談する機会を持てる状況であることです。これらが揃わない同意書は、法的効力が脆弱です。
従業員への損害賠償請求はどこまで認められるか
業務ミスによる損害の全額を従業員に請求することは、判例上認められていません。信義則による制限があり、実務上は損害額の一部しか請求できないケースがほとんどです。
「報償責任の原則」による制限
茨城石炭商事事件(最高裁昭和51年7月8日判決)は、この領域の代表的判例です。最高裁は、使用者は従業員の労働によって利益を受けている以上、業務上発生した損害のリスクも使用者が負うべきという「報償責任の原則」を示しました。この考え方に基づき、損害の全額を従業員に負担させることは信義則に反するとされています。
過失の程度による請求範囲の違い
実務上の目安として、故意または重大な過失がある場合は損害の相当部分を請求できる可能性がありますが、通常の業務上の軽過失では請求できる割合は低くなります。具体的な金額は事案ごとに異なりますが、損害額の4分の1から2分の1程度が認められる傾向にあるとされています。以下の表で、過失の程度と対応の方向性を整理します。
| 過失の程度 | 典型的な状況 | 損害賠償請求の可否・範囲 |
|---|---|---|
| 故意 | 意図的な横領・破壊行為 | 全額請求が認められる可能性が高い |
| 重大な過失 | 著しく注意を欠いた行為 | 損害の一定割合(半額程度)の請求が認められる場合がある |
| 通常の過失 | 一般的な業務上のミス | 請求できても損害の4分の1程度が目安とされることが多い |
| 軽過失 | 注意義務を若干怠った程度 | 請求が認められないか、極めて少額にとどまる |
なお、会社側に管理体制の不備(マニュアルの未整備、教育不足、過剰な業務量など)があった場合は、それも損害額の算定において考慮される要素となります。
適法な損害回収の手順
給与天引きが使えない以上、適法な方法で損害を回収するには手順が重要です。まず事実を記録し、次に本人と話し合い、そのうえで回収の方法を決める——この流れを踏むことが、後のトラブルを防ぐ最大の防御策になります。
事実の確認と記録
最初に行うべきは、ミスの内容・損害額・発生経緯を客観的に記録することです。「誰が・いつ・何をして・どのような損害が生じたか」を書面で残します。損害額は請求書・見積書・実費領収書などで裏付けを取ります。この段階での記録が、後の交渉や法的手続きで会社の主張を支える根拠となります。感情的にならず、事実の整理に徹することが大切です。
本人との対話と任意合意の形成
次に、本人を呼んで事実確認の場を設けます。このとき重要なのは「一方的な通告」ではなく「事実確認の対話」であることです。本人の言い分を聴いたうえで、損害額と会社の立場を説明します。そのうえで、任意の分割返済を提案し、本人が自由な意思で合意する形で書面を作成します。合意書には、返済金額・返済方法・期日を明記し、強制の痕跡が残らないよう配慮します。可能であれば、本人が内容を確認する時間的余裕(数日程度)を与えることも有効です。
懲戒処分・民事請求の検討
任意の合意が得られない場合や、故意・重過失が認められる場合は、就業規則に基づく懲戒処分か民事請求(労働審判・訴訟)を検討します。懲戒処分として減給を行う場合は、労働基準法第91条の上限(1回の事案につき平均賃金の1日分の半額、総額では1賃金支払期における賃金総額の10分の1)を超えてはなりません。民事請求は時間・コスト・心理的負担が大きい手段ですが、故意による横領や重大な過失がある場合は有効な選択肢です。社会保険労務士や弁護士に相談のうえ判断することをお勧めします。
🔗 社員のメンタル不調に、精神科・心療内科医によるスポット産業医サービス →
退職時・退職後の損害賠償はどう扱うか
退職時の最終給与や退職金と損害賠償を相殺したいというニーズは多いですが、最終給与と退職金では扱いが異なります。それぞれのルールを正しく理解することが重要です。
最終給与との相殺は原則不可
退職時の最終給与も、在職中の給与と同じく賃金全額払い原則の適用を受けます。したがって、損害賠償を理由に最終給与を一方的に差し引くことは違法です。本人の任意の合意がある場合に限り、相殺が認められる可能性はありますが、退職という状況は「自由な意思」の証明が難しい局面でもあります。
退職金との相殺は条件付きで可能
退職金は賃金の後払い的性格を持ちますが、就業規則に「懲戒事由に該当する場合は退職金を減額・不支給とする」旨の規定がある場合、一定の範囲で控除や不支給が認められることがあります。ただし、規定が整備されていること、手続きが適正であること、裁量権の逸脱がないことの3点が揃っていなければなりません。規定がない状態で退職金を差し引くことは認められません。
退職後の民事請求という選択肢
退職後も民事上の損害賠償請求権は消滅しません。退職によって請求権が消えるわけではないため、故意や重大な過失による損害であれば、退職後に民事訴訟や労働審判で請求することは法的に可能です。ただし、立証のための証拠保全と請求額の妥当性(信義則による制限)を考慮したうえで、法律の専門家に相談してから判断することが不可欠です。
まとめ
業務ミスを理由に給与を一方的に天引きすることは、労働基準法第24条(賃金全額払いの原則)に違反します。同意書があっても、強制・圧力下での署名は無効となるリスクがあります。また、損害の全額請求も判例上認められておらず、過失の程度によって請求できる範囲は制限されます。適法に損害を回収するためには、事実の記録・本人との対話・任意合意の形成という手順を踏むことが基本です。懲戒処分を行う場合は労働基準法第91条の上限を守り、民事請求が必要な場合は専門家に相談のうえ判断してください。
ウェルセンス株式会社では、こうした業務ミス・損害賠償対応に限らず、就業規則の整備、従業員とのトラブル対応、休職・復職支援まで、専任人事のいない中小企業の経営者・人事担当者の「困った」に対応しています。「自社のケースではどう対応すればいいのか」と迷ったときは、まず気軽にご相談ください。
よくある質問
🔗 人事だけで抱えない。メンタル不調者面談や休職・復職対応を、1件からスポットでご相談 →
ウェルセンスは、メンタル不調者対応・休職復職支援に強い職場メンタルケアサービスです。産業医・保健師・心理士・社労士などの専門家ネットワークが、人事・管理職だけでは判断しづらいケースの初動対応、専門家連携、再発防止まで支援します。
不調者対応を、人事だけで抱えない。
メンタル不調者面談や休職・復職対応を、1件からスポットでご相談いただけます。


