「採用が決まった。でも給与テーブルも評価制度もまだ何もない」——資金調達後にこうした状況に直面する経営者・人事担当者は少なくありません。調達完了と同時に採用が加速し、気づけば制度の整備が追いつかないまま人が増え続けている。何から手をつければいいのか、何を後回しにしていいのか、判断軸がないまま時間だけが過ぎていく。この記事では、資金調達後の人事制度導入における優先順位をフェーズ別に整理し、限られたリソースで「やるべきこと」と「やらなくていいこと」を明確にします。
資金調達後に人事制度を整備すべき理由
資金調達後に人事制度を後回しにすると、採用・労務・組織の3つの側面で同時にトラブルが起きやすくなります。制度の不備は「後で整えればいい」と思いがちですが、人が増えた後に遡って修正するコストは想像以上に大きいため、調達直後のタイミングが最も整備しやすい時期です。
採用が加速するほど制度の不備が目立つ
資金調達後に採用ペースが上がると、入社のたびに給与を個別交渉で決め、雇用契約書も都度作り直すという非効率が生じます。給与テーブルがなければ「なぜあの人のほうが給与が高いのか」という不公平感が社内に広がり、離職につながります。資金調達後に制度がある状態で採用するのと、採用が終わってから制度を作るのでは、社員の納得感がまったく異なります。
投資家のデューデリジェンス対応への影響
シリーズAやその後のラウンドでは、投資家がデューデリジェンス(DD)の過程で人事制度の整備状況を確認するケースが増えています。「就業規則がない」「36協定を締結していない」「社会保険の加入漏れがある」といった状態は、投資判断に影響するだけでなく、クロージング後の条件交渉を不利にすることもあります。
労基法上の義務は従業員数で変わる
人事制度の整備は任意ではなく、法律上の義務を伴うものも多くあります。たとえば、労働基準法第89条により、常時10名以上の従業員を使用する事業場では就業規則の作成・届出が義務になります。また、労働基準法第15条により、雇用時の労働条件の明示は従業員数に関わらず全員に必要です。「まだ少人数だから大丈夫」という感覚のまま放置すると、義務違反のリスクを抱えることになります。
フェーズ別に整理する「今やるべき制度」
資金調達後の人事制度導入の優先順位は、従業員数とフェーズによって明確に変わります。すべてを一度に整えようとするのではなく、自社の現状フェーズに合わせて「今必要なもの」に絞ることが重要です。
10名未満(Pre-seed〜Seed初期)
この段階で最優先で整えるべきは、全員への労働条件の明示と、社会保険・労働保険の加入です。労働基準法第15条に基づく労働条件通知書(または雇用契約書への記載)は、採用のたびに必ず交付する義務があります。「口頭で伝えた」では法的に不十分です。また、法人であれば原則として全従業員が社会保険・雇用保険の加入対象になります。加入漏れは後から遡及して対応が必要になるため、初期に正確に設定することが重要です。
10〜29名(Seed〜シリーズA初期)
常時10名に達した時点で、就業規則の作成・届出が法律上の義務になります(労働基準法第89条・第90条)。また、時間外労働をさせる場合は労使間で36協定を締結し、労働基準監督署に届け出なければなりません(労働基準法第36条)。さらに、パワーハラスメント防止措置は労働施策総合推進法により事業主の義務とされています。この規模でよく見落とされるのが有給休暇の管理で、労働基準法第39条に基づく年5日の取得義務の管理は確実に運用できる体制を整えてください。
30〜49名(シリーズA中期)
組織が30名を超えると、マネージャー層が生まれ、評価・等級・昇給の基準がないと現場が混乱し始めます。この段階では、精緻な評価制度でなくてよいので「評価の骨格」と「等級の簡易版」を作ることを優先してください。また、休職・復職のルールが就業規則に盛り込まれているかを確認し、育児休業・介護休業の規程が整備されているかも改めて確認が必要です。メンタルヘルスの問題が表面化しやすくなるのもこのフェーズです。
50名到達(シリーズA以降)
従業員が常時50名に達すると、労働安全衛生法により、ストレスチェックの実施義務(第66条の10)と産業医の選任・届出義務(第13条)が生じます。さらに衛生委員会の設置も必要になります。このフェーズになると義務の種類が一気に増えるため、50名に近づいてきた段階から準備を始めることをお勧めします。
| フェーズ目安 | 優先して整えるべき制度 | 後回しでよい制度 |
|---|---|---|
| 10名未満 (Pre-seed〜Seed) |
労働条件通知書・雇用契約書、社保・労保加入、給与計算フロー | 就業規則(作成は推奨)、評価制度、等級制度 |
| 10〜29名 (Seed〜シリーズA初期) |
就業規則の作成・届出(義務)、36協定、ハラスメント防止措置、有給管理 | 評価制度の精緻化、グレード制度、研修体系 |
| 30〜49名 (シリーズA中期) |
評価制度の骨格・簡易等級制度、休職・復職規程、育休・介護休業規程の確認 | ストレスチェック(任意実施は可)、産業医(努力義務段階)、タレントマネジメントシステム |
| 50名以上 (シリーズA以降) |
ストレスチェック実施(義務)、産業医選任・届出(義務)、衛生委員会設置 | 高度な人材開発制度、CDP体系の精緻化 |
「後回しでいい制度」の判断基準
リソースが限られている中で、「後回しでいい制度」を正確に見極めることは、経営判断として重要です。資金調達後の人事制度導入タイミングは、「法的義務があるかどうか」「運用する人がいるかどうか」の2軸で考えると整理しやすくなります。
法的義務のない制度は現場が機能してから整える
等級制度・グレード制度・研修体系・CDP(キャリア開発計画)体系などは、法的な整備義務がありません。これらは「あると組織運営がスムーズになる」制度ですが、制度設計と運用に相応のコストがかかります。従業員数が少ない段階では、経営者が個別にコミュニケーションを取ることで代替できる部分も多いため、組織的に管理が必要になる30名前後まで導入を待っても問題ない場合が多いです。
「箱だけ作って形骸化」する制度を避ける
評価制度・面談制度・タレントマネジメントシステムは、運用できる人がいなければ機能しません。制度を導入するタイミングは「運用できる人・仕組みが揃ってから」が原則です。形だけの評価制度を作っても、社員の不満が増えるだけで、むしろ導入しないほうがよかったというケースもあります。「誰が運用するのか」を先に決めてから導入を判断してください。
メンタルヘルス対応は義務化前から準備する
ストレスチェックは常時50名以上で義務化されますが、資金調達後の採用急増フェーズでは不調者対応やメンタルヘルス上のトラブルが起きやすくなります。50名未満であっても、休職・復職のルールを就業規則に定め、相談窓口を設けておくことは、組織の安定運営に直結します。義務化のタイミングを待たず、30名を超えた段階から任意でのストレスチェック実施や、外部相談窓口の設置を検討することをお勧めします。
見落としがちな法的リスクと実務の落とし穴
資金調達後の人事制度整備で多くの企業が陥る落とし穴は、「義務があるかどうか」の判断を誤るケースと、「人が急増するタイミングで対応が後手に回るケース」の2つに集約されます。
「10名未満だから就業規則は不要」は誤り
就業規則の届出義務は常時10名以上ですが、9名以下でも「雇用契約書に書いていない事項」をめぐるトラブルは発生します。特に休職・解雇・ハラスメント対応は、規程がない状態では会社側が不利な立場になるケースがほとんどです。「届出義務がない=作らなくていい」という解釈は誤りで、8〜9名の段階から簡易版の社内ルールを作成しておくことがリスクヘッジになります。
採用急増時こそメンタルヘルス対応が後手に回る
人員が急増する調達直後は、採用・オンボーディング・評価制度に注目が集まり、メンタルヘルス対応が後回しになりやすい時期です。新しい環境への適応、業務負荷の増加、人間関係の変化が重なり、不調者が出るリスクが高まります。「何かあってから対応する」という姿勢では、対応が後手に回り、休職・退職へとつながりやすくなります。休職ルールと復職支援の手順を就業規則に組み込み、相談しやすい仕組みを早期に整えることが重要です。
「誰に何を頼むか」の設計図を先に作る
社労士・人事コンサル・HR SaaSベンダーなど選択肢が多く、何をどこに頼むかが整理されていないと、制度整備が止まります。基本的な整理として、社労士は労務手続き・就業規則・社保手続きを担い、人事コンサルは制度設計・評価体系の構築を担い、HR SaaSは運用効率化のツールです。まず「何が課題か」を特定し、その課題に合った専門家にアクセスする順序で考えると、コストと時間のロスが減ります。
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給与テーブルと評価制度、どちらを先に整えるか
給与テーブルと評価制度は連動していますが、資金調達後の人事制度導入では、先に整えるべきは給与テーブル(給与規程)です。採用時の給与決定の根拠を先に作ることで、個別交渉のばらつきを防ぎ、後から制度を導入したときの整合性が取れます。
給与テーブルは採用の「入口」を揃える
給与テーブルとは、職種・等級・経験年数などの軸で給与の範囲(レンジ)を定めた基準表です。「この職種・このレベルであれば月額○○万円〜○○万円」という基準があると、採用面談での給与提示が一貫し、社内の公平感も保てます。Seed〜シリーズA初期では、精緻な等級制度でなくても、「採用時の給与の決め方のルール」を社内で明文化するだけで十分です。
評価制度は「評価する人がいる組織規模」になってから
評価制度は、評価者(マネージャー)が存在し、評価結果を給与や処遇に反映できる仕組みが整ってから導入します。10名未満の段階で多面的な評価制度を導入しても、評価の運用が経営者1人に集中し、制度が形骸化します。評価制度の骨格を作る目安は、直属の上司(マネージャー)が複数存在する30名前後のタイミングです。それまでは、定期的な1on1面談と口頭フィードバックで代替することを検討してください。
まとめ
資金調達後の人事制度整備は、「全部一気にやる」ではなく「フェーズに合わせた優先順位」で進めることが重要です。まず労働条件の明示と社保・労保加入を確実に行い、10名に達したら就業規則と36協定の整備を進める。給与テーブルは採用の入口を揃えるために早期に作成し、評価制度はマネージャーが存在する規模になってから骨格を整える。後回しにしてよい制度は、法的義務がなく、運用する人が確保できていないものです。一方、メンタルヘルス対応と休職・復職ルールは、義務化のタイミングを待たず早期に整備することをお勧めします。
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