「うちの部長、みんなから問題だって言われているんですが……」——人事担当者からそんな言葉を聞くことは、決して珍しくありません。ある日突然、複数の部下から同じ上司への訴えが重なったとき、多くの担当者は「これは本当のことに違いない」と直感し、すぐに何か対処しなければという焦りを覚えます。しかし、その焦りが判断を誤らせることがあります。訴えの数は証拠の数ではありません。複数の部下から同じ上司への訴えが重なった場面でも、事実確認を経ずに処分や異動を行えば、後に「不当処分」として争われるリスクを招きます。この記事では、複数部下から同じ上司への訴えが重なったときに、何から手をつければいいのか、どう調査を進めればいいのか、実務の流れを整理してお伝えします。
「複数名=証拠」という思い込みがリスクを生む
訴えが複数重なっていても、それだけで事実認定をしてはいけません。訴えの件数は「問題がある可能性の高さ」を示すものであり、それ自体が法的・実務的な証拠にはなりません。
訴えが重なる背景には複数の原因がある
複数の部下が同じ上司を問題視している場合、その背景にはさまざまな要因が混在しています。実際のハラスメント行為が繰り返されているケースもあれば、上司の指導スタイルへの単純な不満が積み重なっているケース、部下間で「あの上司はひどい」という話が広まり共鳴・伝播しているケース、あるいは特定の部下が中心となった組織的な不満運動が起きているケースもあります。これらは同時に存在していることもあります。「全員が言っているから本当のこと」という判断は、こうした背景の複雑さを無視した危険な単純化です。
「訴えの重複」が後の処分を無効にしうる
事実確認を省略して処分に走った場合、行為者である上司が「弁明の機会を与えられなかった」「恣意的な認定がなされた」として、処分の無効を主張できる余地が生まれます。就業規則の懲戒規定に基づかない処分は法的に無効となるリスクがあり、労働契約法の観点からも手続きの公正性が求められます。訴えの多さに安堵せず、あくまで「各自が独立して体験した具体的事実」を確認することが、後のトラブルを防ぐ唯一の道です。
訴えを受けたら最初にすること
訴えを受けた直後に行うべきことは、個別の記録化と調査体制の整備です。複数の部下から同じ上司への訴えをひとまとめに扱うことは、後の調査精度を大きく下げます。
訴えは必ず個別に文書化する
誰が、いつ、何を訴えたかを一人ひとり別々に記録します。複数名分をまとめた「訴え一覧」を作るのではなく、それぞれの訴えを独立した文書として管理することが重要です。訴えた日時・訴えの内容・具体的な出来事・影響(体調・業務への影響等)を聞き取り、担当者が署名または確認したメモとして保存します。この段階では「事実確認」ではなく「訴えの受理」であることを担当者自身が意識しておくことが大切です。
調査体制を整える——誰が調査するかが公正性を決める
調査担当者は、訴えられた上司とも訴えた部下とも利害関係のない人物を選びます。社内に適切な人物がいない場合、社会保険労務士や弁護士などの外部専門家に初期調査を委託することも有効な選択肢です。特に、訴えられた上司が社長や経営幹部に近い存在である場合、社内だけで調査を完結させることは独立性の観点から危険です。また、経営陣がその上司を高く評価しているような場合は、調査担当者が「板挟み」になるリスクがあるため、外部専門家の関与を早めに検討してください。
秘密保持の範囲を明確にする
調査が始まった後、訴えた部下同士が情報を共有することで証言が「汚染」されるリスクがあります。訴えた部下には「調査に関わる事実をほかの当事者と共有しないようにしてほしい」と伝えることが必要ですが、「他言するな」という強すぎる言い方は、報復・圧力と受け取られかねません。「公正な調査のために」という目的を明示したうえで、穏やかな表現で協力を求めることが実務上の適切な対応です。
ヒアリングの進め方——順序と記録が命
ヒアリングは、訴えた部下を一人ずつ、上司のヒアリングより先に行います。各ヒアリングの内容は詳細に記録し、後の事実認定の根拠として保存します。
部下のヒアリングは個別・隔離で行う
複数名を同時にヒアリングすることは厳禁です。一人ずつ、別々の日時・場所で行い、互いの証言内容が影響し合わないよう配慮します。ヒアリングでは「その上司に何をされたか」「いつ、どこで、誰がいたか」「どんな言葉・行動があったか」「その後どう感じたか・どんな影響があったか」を具体的に確認します。「上司が嫌い」「職場の雰囲気が悪い」といった感情的な評価ではなく、具体的な事実を引き出すことがヒアリングの目的です。
上司へのヒアリングは弁明の機会として設ける
部下のヒアリングが終わった後、訴えられた上司にも必ずヒアリングを行います。これは義務です。弁明の機会を与えなかった場合、手続き上の瑕疵として処分が無効になるリスクがあります。上司には「複数の部下から申し出があった」という事実を伝えたうえで、具体的な出来事に対する認識・経緯・意図を聞きます。この段階で上司が「そんな事実はない」と否定しても、それは事実認定を複雑にする要素のひとつとして記録に残します。
物証・第三者証言の収集を並行して行う
ヒアリングだけに依存せず、メール・チャットのログ、勤怠記録、業務指示書などの物証を収集します。また、当事者以外の同僚や他部署スタッフが目撃者になりうる場合は、第三者としてのヒアリングも検討します。物証と証言を突き合わせて信憑性を検討することが、公平な事実認定につながります。
調査中の上司の処遇——「保留」は安全配慮義務違反になりうる
「調査中だから何もできない」は誤りです。調査期間中も使用者の安全配慮義務(労働契約法第5条)は継続しており、二次被害を防ぐための措置が必要です。
業務上の配置変更・接触制限を検討するタイミング
訴えの内容が具体的かつ複数名から独立して確認されており、調査中も同一職場での接触が続く状況であれば、暫定的な業務上の措置を取ることが望ましいです。具体的には、部下との直接的な業務指示ラインを外す、別フロアや別拠点への一時的な業務変更、在宅勤務への切り替えなどが考えられます。これらは「懲戒処分」ではなく「調査期間中の安全配慮措置」として行うものであり、就業規則に懲戒規定がなくても実施できます。ただし、措置の理由と目的を明示し、書面で通知することが重要です。
経営陣が上司を庇う場合の対応
業績への貢献度が高い上司について、経営陣が「部下の誇張では」と調査に介入しようとするケースがあります。この場合、調査担当者は「パワーハラスメント防止法(労働施策総合推進法)に基づく使用者の義務として調査を進める必要がある」という法的根拠を示したうえで、調査の独立性を守ることが必要です。経営陣の意向で調査が歪められた場合、後に「不作為による安全配慮義務違反」として会社全体が民事責任を問われるリスクがあることを、丁寧に説明することが担当者の役割です。
事実認定と処遇判断の考え方
調査の最終段階では、「認定できる事実」と「認定できない事実」を分離して整理します。曖昧なまま処分に進むことは、紛争リスクを最大化します。
事実認定は「全員が言っている」では書かない
事実認定書には「Aさんが○月○日に△△という発言を受けたと証言し、同日のメール記録にも□□という文言が確認された」のように、証拠の種類と内容を具体的に記述します。「複数名が同じことを言っているため事実と認定した」という書き方は、証拠としての価値が低く、後に「証拠能力のない認定」と批判されうる根拠になります。認定できない部分は「確認が取れなかった」として記録に残し、白黒つけられない事実を無理に確定させないことも重要です。
処分は就業規則の懲戒規定に照らして判断する
事実が認定された場合、どのような処分が相当かは就業規則の懲戒規定に基づいて判断します。就業規則に懲戒規定がない、あるいは「ハラスメントを行った場合」という規定がない場合は、処分自体が法的に無効になるリスクがあります。処分内容は、認定された事実の重大性・行為の継続性・被害の程度・本人の反省度合いなどを総合的に勘案し、社会保険労務士や弁護士に法的助言を求めたうえで決定することを強くおすすめします。
企業規模・体制別の対応ポイント
以下の表を参考に、自社の状況に合わせた対応を判断してください。
| 状況 | 追加で検討すべき対応 |
|---|---|
| 産業医が選任されている(50名以上) | 被害申告者の健康状態を産業医に確認し、就業上の配慮を検討する |
| 産業医がいない(50名未満) | かかりつけ医や地域産業保健センターへの相談を被害申告者に案内する |
| 就業規則に懲戒規定がある | 規定の懲戒事由にハラスメントが明記されているか確認する |
| 就業規則が未整備または古い | 処分前に社労士・弁護士に確認。処分よりも再発防止措置を先行させる選択肢も検討 |
| 社内に利害関係のない調査担当者がいない | 外部専門家(社労士・弁護士・EAP機関)に初期調査を委託する |
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記録管理と再発防止——「終わった後」が実は重要
調査が完了した後も、記録の適切な管理と再発防止策の実施が使用者の義務として求められます。対応を終えた段階で安堵して放置することが、次のリスクを生みます。
調査記録の保管と情報管理
調査で収集した情報(面談記録・証言・物証)は個人情報保護法の観点から目的外利用が禁じられています。関係者以外には開示せず、厳重に保管します。保管期間については明確な法定規定はありませんが、労働関係の紛争時効(民事は基本的に3〜5年)を意識して、少なくとも5年程度の保管が現実的な目安です。また、調査結果を必要以上に社内共有することは、訴えられた上司のプライバシー侵害にもつながるため、「知る必要のある人」に限定した共有にとどめます。
再発防止策と職場環境の整備
パワーハラスメント防止法(労働施策総合推進法)は、使用者に「再発防止措置」の実施を義務づけています。今回の調査結果を踏まえ、管理職向けのハラスメント研修の実施、相談窓口の整備・周知、職場環境のモニタリング強化などを行います。特に、今回訴えが重なったような職場では、「管理職の指導スキル」そのものを底上げする取り組みが根本的な再発防止につながります。
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まとめ
複数の部下から同じ上司への訴えが重なったとき、最も避けるべきは「訴えの多さ」に引っ張られた拙速な対応です。まず個別に訴えを記録し、利害関係のない調査担当者を立て、部下・上司それぞれを個別にヒアリングし、物証と証言を照合して事実を認定する——この流れを公正に踏むことが、会社を守り、当事者全員を守ることにつながります。調査中も安全配慮義務は継続しており、暫定的な業務上の措置を取ることは「処分」ではなく「義務の履行」です。就業規則の整備状況や社内体制によっては、外部の専門家を早期に巻き込むことが、最もリスクの少ない選択肢になります。
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よくある質問
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