傷病手当金の立替払いを求められた時の正しい対応

労務管理

「長期入院中の従業員の家族から、傷病手当金を会社に立て替えてほしいと電話があった。どう答えればいいのか…」。そんな場面に突然直面し、断っていいのか、対応しなければならないのか、判断に迷っている経営者・人事担当者の方は少なくありません。

結論からお伝えすると、会社に傷病手当金の立替払い義務はありません。しかし「断れる」とわかっていても、どう伝えるか、どこまで協力すべきか、断った後の関係性はどうなるか——実務の判断はそう単純ではないのも現実です。この記事では、制度の正しい理解から、協力範囲の線引き、万が一立替払いをする場合のリスク管理まで、実務に即した形で整理します。

傷病手当金は「誰が払う」制度なのか

傷病手当金は会社が支払う給付ではなく、健康保険制度(協会けんぽまたは健康保険組合)が支払う保険給付です。この点を最初に押さえておくことが、すべての判断の出発点になります。

制度の仕組みと支払主体

傷病手当金は、健康保険法第99条に基づく保険給付です。業務外の病気・ケガで休業し、給与が支払われない(または減額される)場合に、全国健康保険協会(協会けんぽ)または加入している健康保険組合から直接支給されます。支給額は標準報酬日額の3分の2相当で、支給開始日から通算1年6か月(2022年1月改正後)が上限です。

申請の窓口・支払の義務を負うのはあくまで健康保険の保険者(協会けんぽ・健保組合)であり、会社(事業主)には傷病手当金を支払う法的義務は一切ありません。「会社が立て替えて後から返してもらう」という仕組みも制度上は存在しません。

従業員・家族が「会社払い」と誤解する背景

なぜ「会社に立て替えてほしい」という要望が出るかといえば、給与振込の口座・タイミングに慣れているため、「お金の窓口は会社」というイメージが根強いからです。また、入院初期は手続きの余裕がなく、「とにかく早くお金が欲しい」という切実な事情も重なります。悪意のある要求ではないケースがほとんどですが、だからこそ丁寧に制度を説明することが重要です。

会社が「必ず対応すべき」協力範囲

立替払いは義務ではありませんが、申請手続きへの協力は会社として果たすべき役割があります。この区別を明確にしておくことが、従業員との関係を保ちながら適切に断るための土台になります。

事業主証明欄への記入・押印

傷病手当金の申請書には「事業主記載欄」があり、休業期間中の出勤状況・賃金の支払い状況などを会社が証明する必要があります。この記入・押印は、正当な理由なく拒否することはできません。拒否すれば従業員の給付受給を妨げることになり、トラブルの原因になります。速やかに対応するのが基本です。

申請に必要な情報の提供

被保険者番号・標準報酬月額・欠勤開始日などの情報提供や、書類の送付先の案内なども会社として協力すべき事務的サポートです。専任人事がいない職場では、申請書類の記入方法がわからない従業員も多いため、協会けんぽや健保組合のページを案内するだけでも大きな助けになります。

「協力」と「立替払い」は別の話

申請書類のサポートや証明書の記入は会社の協力義務の範囲ですが、「お金を事前に用意して渡す」ことはまったく別の話です。従業員や家族から立替えを求められた際は、「手続きへの協力は全力でします。ただし、給付の支払いは健康保険が行うものですので、お金を立て替えることは会社の役割の範囲外です」と、役割を丁寧に分けて伝えることが重要です。

立替払いを断っていい理由と、断り方のポイント

会社には立替払いの義務がないため、断ることは法的に問題ありません。ただし、断り方によっては関係悪化やトラブルにつながることもあるため、伝え方には配慮が必要です。

法的根拠を持って明確に断る

「会社の方針で…」という曖昧な断り方ではなく、「傷病手当金は健康保険法に基づき健康保険が支払う給付であり、会社が立替払いを行う制度上の仕組みはありません」と制度の説明を軸に伝えることで、感情的な対立を避けられます。「会社が意地悪をしている」のではなく「制度の仕組みがそうなっている」という文脈で話すことがポイントです。

申請の迅速化で実質的に支援する

傷病手当金の支給が遅れる原因のひとつは、事業主証明の記入が遅れることです。書類が届いたらできるだけ速やかに処理し、わからない点があれば健保に確認して返送を早めることで、従業員の手元に給付が届くまでの期間を短縮できます。「立替えはできないが、申請が早く進むよう最大限協力する」という姿勢を示すことが、関係悪化を防ぐ最善策です。

就業規則の「休職中の給与規定」を確認する

就業規則に「休職中は給与の○%を支給する」旨の定めがある場合は、それは傷病手当金とは別の話として会社が支払う義務が生じます。立替払いとは異なりますが、この規定がある場合は忘れずに適用してください。逆に規定がない場合は、無給扱いが原則です。まず就業規則を確認することが出発点になります。

万が一、立替払いに応じる場合のリスク管理

どうしても立替払いに応じる場合でも、書面による合意なしに行うことは絶対に避けてください。口約束で立て替えて回収できなかった事例は少なくありません。

立替払い合意書で必ず書面化する

立替払いを行う場合は、以下の内容を盛り込んだ合意書を締結してから実施します。

  • 立替金額と支払日
  • 返済期限(例:傷病手当金が振り込まれてから○日以内)
  • 返済方法(給与への相殺または振込)
  • 退職した場合の返済義務の継続
  • 未返済時の対応方針

「今回だけ」という意識であっても、書面がなければ後のトラブル対応が極めて困難になります。

退職後の回収リスクを想定する

立替払い後に従業員が退職した場合、傷病手当金は退職後も一定条件を満たせば受給継続できます。しかし、退職後の回収は在職中と比べて格段に難しくなります。給与からの相殺もできなくなるため、回収できないまま終わるリスクが高まります。立替払いを検討する際は、このシナリオを必ず想定しておいてください。

前例が「慣行」になるリスク

就業規則に定めがないまま「今回だけ」と立替払いに応じた場合、社内慣行として定着するリスクがあります。労働法の世界では、繰り返された事実上の取り扱いが「労使慣行」として法的拘束力を持つ場合があります。次のケースで断ろうとしたとき、「前の人は立て替えてもらえた」という声が出てくれば、対応の一貫性が問われます。立替払いに応じる場合は、その後の対応方針も含めて就業規則や社内ルールとして明文化することを検討してください。

「代理受領」という方法とその注意点

会社が傷病手当金を従業員に代わって受け取り、渡す「代理受領」という方法を選ぶ会社もありますが、この方法には制度上の制約があり、安易に運用することはお勧めできません。

代理受領の仕組みと必要な手続き

健康保険法上、傷病手当金の受取人は被保険者本人が原則です。会社が代理で受領するには、従業員本人からの委任状が必要です。また、これを恒常的・継続的に行うことは制度の趣旨に反するリスクもあり、健保組合によっては認めないケースもあります。

代理受領を検討する場合の確認事項

確認項目 内容
加入している健保への確認 協会けんぽ・健保組合によって対応が異なるため事前確認が必須
従業員からの委任状 書面による委任がなければ受領自体が無効になりうる
受領後の渡し方・タイミング 全額を速やかに渡す必要があり、会社側での留保は不可
社労士・専門家への相談 継続運用は法的リスクを伴うため、専門家確認を推奨

再発防止のための社内整備

立替払いを求められてから慌てて対応するのではなく、事前に社内ルールを整備しておくことが中長期的な労務リスクの軽減につながります。

就業規則・休職規程の整備

休職中の給与の扱い(無給か一部支給か)、立替払いの可否、申請手続きサポートの範囲などを就業規則または休職規程に明記しておくことで、従業員からの要求に対してルールに基づいた一貫した対応が可能になります。「規程上、立替払いの定めはありません」と説明できれば、個人的な判断や感情論を排した対応ができます。

休職発生時の初期対応フローの整備

休職が決まった時点で、傷病手当金の申請方法・会社の協力範囲・給与の扱いをまとめた案内書を従業員(または家族)に渡す仕組みを作っておくと、後からの問い合わせや誤解を大幅に減らせます。専任人事がいない職場では、こうした「ひな形」を一度用意しておくだけで、担当者の負担が大きく変わります。

まとめ

傷病手当金の立替払いを求められた場合、会社に法的義務はありません。支払主体は健康保険(協会けんぽ・健保組合)であり、会社の役割は申請書類への事業主証明の記入・申請手続きのサポートまでです。断る際は制度の仕組みを丁寧に説明し、申請を迅速に進める形で実質的な支援を示すことが、関係悪化を防ぐ最善策です。万が一立替払いに応じる場合は、必ず書面で合意内容を明確にし、退職後の回収リスクも想定した上で対応してください。また、就業規則に明文規定がない状態での対応は「前例」として後のケースを縛るリスクがあります。

「うちの会社はどこまで対応すべきか」「就業規則に何を定めればいいか」「傷病手当金の立替払いで実際にトラブルが起きた」など、個別の状況に応じた判断に迷ったときは、専門家への相談が解決の近道です。ウェルセンス株式会社では、専任人事のいない中小企業の経営者・担当者からの休職・復職対応、労務規程の整備、メンタルヘルス対応に関するご相談をお受けしています。ひとりで抱え込まずに、まずは気軽にご相談ください。

よくある質問

Q. 傷病手当金の立替払いを断ると、休職中の従業員との関係が悪化しませんか?

A. 断り方と代替サポートが重要です。「制度上、給付の支払い義務は健康保険にある」という事実を丁寧に説明し、申請書類の処理を迅速に進めることで、「立て替えはできないが、できる限り協力する」という姿勢を示せます。感情的な断り方や説明なしの拒否は避けてください。

Q. 傷病手当金の申請書に事業主証明を書くのも拒否できますか?

A. 原則として拒否できません。事業主証明欄への記入は、従業員の給付受給を支える手続き上の協力義務です。正当な理由なく拒否すると、従業員の給付を不当に妨害したとみなされるリスクがあります。書類が届いたら速やかに処理することが基本対応です。

Q. 以前に1人立替払いをしたことがあります。次のケースでも断れますか?

A. 断ることは可能ですが、前例があると「なぜ今回は対応しないのか」という声が出やすくなります。就業規則に「立替払いは行わない」と明記し、過去の対応は例外的なものであったことを記録しておくことが重要です。今後のケースへの影響を最小限にするためにも、早期に社内規程を整備することをお勧めします。

Q. 立替払いをした後に従業員が退職した場合、返金を求めることはできますか?

A. 立替払い合意書で「退職後も返済義務は継続する」と明記していれば、法的には請求できます。ただし、実際の回収は在職中と比べて大幅に困難になります。給与からの相殺もできないため、未回収リスクを十分に想定した上で、そもそも立替払いに応じるかどうかを判断することが重要です。

Q. 休職規程がない場合、まず何から整備すればよいですか?

A. まず就業規則に「休職事由・休職期間・休職中の給与の扱い(無給か一部支給か)・復職の要件」を定めることが優先です。立替払いの可否についても明文化しておくと、従業員からの要求に対して一貫した対応が取れます。社労士や専門家に相談しながら自社の実情に合った規程を作成することをお勧めします。

【監修】ウェルセンス株式会社
ウェルセンスは、メンタル不調者対応・休職復職支援に強い職場メンタルケアサービスです。産業医・保健師・心理士・社労士などの専門家ネットワークが、人事・管理職だけでは判断しづらいケースの初動対応、専門家連携、再発防止まで支援します。

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