「物価が上がっているのはわかる。でも、何%上げれば正解なのか、まったく基準がない」——ベースアップの時期になるたびに、こうした言葉を口にする経営者・人事担当者は少なくありません。大手企業のように専任の報酬コンサルタントがいるわけでもなく、毎年「去年と同じでいいか」「声の大きい社員に合わせてしまった」という経験を繰り返していませんか。この記事では、中小企業がベースアップを判断するための実務的な基準と、社員が納得しやすい伝え方を整理します。
ベースアップと定期昇給は別物と理解することが出発点
多くの中小企業で混同されているのが、ベースアップ(ベア)と定期昇給の違いです。ベースアップの判断基準を決める前に、この二つを整理しないまま給与改定を進めると、評価制度との矛盾やコスト超過を招きます。
ベースアップとは何か
ベースアップとは、賃金テーブル全体を底上げする施策です。インフレや最低賃金の引き上げに対応し、従業員全員の実質的な購買力を維持することが主な目的です。個人の評価や成果とは切り離された、いわば「生活水準の底支え」として機能します。
定期昇給とは何か
一方、定期昇給は個人の評価・スキルの習熟度・勤続年数などに応じて賃金を引き上げる仕組みです。高評価の社員により多くを配分し、組織内の動機づけを促す目的があります。ベースアップと定期昇給を混同したまま運用すると、「高評価者も低評価者も同じ金額しか上がらない」という状況になり、評価制度そのものへの不信感につながります。
年の経営状況に応じて使い分ける
財務的に厳しい年は、ベアを実施せず定期昇給のみで差をつけるという選択肢も十分に有効です。逆に物価上昇が著しい局面では、定期昇給とは別にベアを上乗せすることで、社員の生活水準を守っているというメッセージを出すことができます。どちらか一方が「正解」ではなく、その年の経営状況とメッセージ性によって使い分けるものと理解してください。
| 区分 | 目的 | 対象 | インフレ対応 |
|---|---|---|---|
| ベースアップ | 賃金テーブル全体の底上げ | 全従業員(原則一律) | 主目的 |
| 定期昇給 | 評価・習熟度に応じた個別昇給 | 個人ごとに差をつける | 副次的 |
中小企業がベースアップを判断するための実務的な基準
ベースアップの「正解の金額」は会社ごとに異なりますが、判断に使える客観的な指標はあります。感覚や前年踏襲ではなく、複数の軸を組み合わせて判断基準を決めることが重要です。
物価・最低賃金の動向を確認する
まず確認すべきは、自社が所在する都道府県の地域別最低賃金(最低賃金法に基づく)と、直近の消費者物価指数の動向です。最低賃金は毎年10月頃に改定されることが多く、月額換算で現行の給与が法定水準を下回っていないか確認することは法的義務です(最低賃金法違反には罰則があります)。最低賃金の引き上げ幅を一つの判断基準として、その水準を上回る賃金帯の社員にも波及させるかどうかを検討するのが基本的な出発点です。
同業他社・採用市場との比較
求人票に記載されている同業他社の給与水準や、ハローワーク・求人サイトの相場情報を定期的に確認することで、自社の給与が採用競争上どの位置にあるかを把握できます。特に「優秀な人材が転職活動を始めるきっかけ」は、社外との給与格差を知ることが多いため、自社の現状を外部目線で見ることは離職リスク管理の観点からも欠かせません。
人件費総額を財務計画に落とし込む
「1人あたり月3,000円のベア」という決め方では財務管理が甘くなります。月3,000円のベアが社員30人に適用された場合、月額で9万円、年間で108万円の人件費増加になります。さらに、標準報酬月額が上がれば社会保険料の事業主負担も連動して増えるため、総額コストはそれ以上になることを試算に含めてください。先に「今年の人件費増加の上限は年間〇万円まで」と財務的な枠を設定してから、その枠の中でどう配分するかを考える順序が実務的です。
原資が確保できないときの現実的な対応策
財源が十分でない状況でも、「何もしない」以外の選択肢は複数あります。優先順位をつけた部分的な対応と、税制の活用が現実的な判断基準になります。
全員一律でなく優先順位をつけた対応
財務的に全社一律のベアが難しい場合、最低賃金に近い低賃金帯の社員を優先的に引き上げる方法があります。これは法的コンプライアンスを確保しながら、会社として誠実に対応している姿勢を示す手段にもなります。また、賃上げの代わりに一時金(決算賞与や特別手当)で還元する選択肢もあります。一時金は翌年のコスト固定化を避けられるため、業績が不安定な年の対応として検討する価値があります。
賃上げ促進税制を活用して実質的な原資を作る
中小企業向けの賃上げ促進税制(給与等の増加額に対して一定割合を法人税から控除する仕組み)は、2024年度以降も継続されています。税制の詳細は年度ごとに変わるため、必ず最新情報を国税庁・経済産業省のウェブサイトで確認し、税理士と連携して試算することをお勧めします。活用できれば、実質的な賃上げコストを圧縮しながら給与を引き上げることが可能になります。
賃金圧縮(コンプレッション)問題を後回しにしない
最低賃金引き上げへの対応で低賃金帯を引き上げると、中堅・ベテラン層との賃金差が縮まり「自分だけ上がっていない」という不満が生まれます。これを「賃金圧縮(コンプレッション)」といいます。低賃金帯を引き上げる際は、その上の層にも小幅な引き上げを行うか、手当の追加などで差を維持する設計を同時に検討してください。後回しにすると中堅層の離職リスクが高まります。
法的手続きを正しく踏む
ベースアップは「上げる方向の変更だから問題ない」と思いがちですが、所定の手続きを省略すると後でトラブルになる場合があります。
就業規則・賃金規程の変更と届出
賃金の構成や算定基準を変更する場合、労働基準法第89条・第90条に基づき、就業規則(賃金規程)を改定し、労働者代表への意見聴取を経て所轄の労働基準監督署に届け出る必要があります。賃金の決定・計算・支払方法は就業規則の絶対的必要記載事項であるため、実態と規程の内容が一致していないと「約束と違う」というトラブルの原因になります。就業規則が整備されていない会社は、ベアを機に整備することを検討してください。
有利な変更でも不利益変更が伴う場合は要注意
ベアは原則として有利な変更ですが、同時に職能手当の廃止・賞与算定基準の変更など不利益を伴う変更を抱き合わせる場合には、労働契約法第9条・第10条の不利益変更ルールが適用されます。合理的な理由と十分な周知が必要です。「基本給を上げる代わりに手当を削る」といった組み替えは、社員への説明と合意形成を丁寧に行わないとトラブルになりやすいため注意が必要です。
社員が納得する伝え方の原則
賃上げしたにもかかわらず社員の満足度が上がらない、あるいは「やっと上げてくれた」「もっと上げてほしい」と受け取られる——この問題は、金額ではなくプロセスと理由の伝わり方にあることがほとんどです。
「なぜこの金額か」を説明できる状態にする
社員が知りたいのは「会社が自分の生活を気にしてくれているか」という事実です。ベアの根拠として、消費者物価の動向・最低賃金の改定幅・会社の財務状況のいずれかを組み合わせて言語化しておくと、「なぜこの金額か」と聞かれたときに誠実に答えられます。「経営判断です」だけでは、社員は自分が大切にされているかどうかを判断する材料がなく、不満が残ります。
上げられないときの伝え方
財務的にベアができない年は、「現状を正直に伝える」ことが信頼につながります。売上・利益の状況や、翌年以降の方針(業績が改善したら還元する意思)を言葉にするだけで、社員の受け止め方は大きく変わります。何も説明せずに据え置きにすることが最も士気を下げるリスクの高い対応です。
説明・合意のプロセスを記録に残す
社内説明会を開催した場合の議事録、個別面談を行った場合の記録は、後の「聞いていない」「約束と違う」というトラブルを防ぐ実務的な手段です。労働基準法上の手続きとは別に、コミュニケーションの証拠として残しておくことを習慣にしてください。記録の形式はシンプルなメモで構いませんが、日付・参加者・主な内容の3点は必ず残します。
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自社の状況に当てはめた判断チェックリスト
ベースアップの判断は、会社の規模・財務状況・制度の整備状況によって異なります。以下の視点で自社の現状を確認することで、優先して取り組むべき事項が見えてきます。
最低賃金クリアと賃金規程の整備を先に確認する
まず、現在の賃金が地域別最低賃金を上回っているかを時給換算で確認します。次に、賃金規程が実態と一致しているかを確認します。この二点は、ベアの「金額をいくらにするか」よりも先に対処すべき基礎的な事項です。特に従業員数が10名未満で就業規則が未整備の会社は、ベアの設計と並行して規程整備を進めることをお勧めします。
財務シミュレーションと税制活用の確認
人件費の増加総額を計算し、社会保険料の事業主負担増も含めた年間コストを試算します。その上で、賃上げ促進税制の適用可否を税理士に確認します。この二つを踏まえて「いくらまでのベアが持続可能か」の上限を設定し、その枠内で配分を決める順序が財務管理として正しい進め方です。
社員への説明計画を事前に準備する
ベアの金額が決まったら、発表前に「なぜこの金額か」「今後の方針はどうなるか」を一枚の紙にまとめておきます。全体説明会・個別面談・書面での通知のいずれかを状況に応じて組み合わせ、質問に答えられる準備をしてから発表するのが理想です。発表と同時に就業規則・賃金規程の改定手続きも進めてください。
- 現在の賃金が最低賃金(時給換算)を上回っているか確認した
- 賃金規程が実態と一致しているか確認した
- 人件費増加の総額(社会保険料含む)を試算した
- 賃上げ促進税制の適用可否を税理士に確認した
- 「なぜこの金額か」を社員に説明できる言葉を準備した
- 就業規則・賃金規程の変更手続きと届出の準備をした
- 説明・合意のプロセスを記録する準備をした
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まとめ
ベースアップの判断に迷う背景には、「ベアと定期昇給の混同」「判断基準の不在」「社員への説明スキルの不足」という三つの課題が重なっています。まずベアと定期昇給を切り分け、物価・最低賃金・採用市場の動向を参照しながら財務的に持続可能な上限を設定する。その上で、税制優遇の活用可否を確認し、法的手続きを踏みながら社員に丁寧に説明する——この流れを一度整理しておくと、毎年繰り返していた「感覚での決断」から脱却できます。
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よくある質問
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