「売上が落ちている。でも人を切るわけにはいかない。給与を一時的に下げることはできないか——」そう考えたとき、多くの経営者が最初にぶつかるのが「これって違法じゃないか」という不安です。実際、給与カットは正しい手順を踏まなければ労働トラブルに発展するリスクがあります。しかし、適切な合意と書面があれば、中小企業でも合法的に実施できます。この記事では、不利益変更にならない給与カットの4つの手順と、必要な書面の作り方を実務的に解説します。
給与カットは「合意」があれば違法ではない
給与カットは従業員の同意(合意)があれば、労働契約法上、適法に行うことができます。ただし、「サインをもらえばOK」という単純な話ではなく、合意の有効性には明確な要件があります。
根拠となる法律の整理
給与は労働条件の中核であり、一方的に引き下げることは法律で禁じられています。根拠は労働契約法です。
- 第8条:使用者と労働者は合意によって労働契約の内容(労働条件)を変更できる
- 第9条:労働者の合意なしに、就業規則の変更によって不利益に変更することはできない(原則禁止)
- 第10条:就業規則の変更による不利益変更を全員に適用するには「合理的な理由」と「労働者への周知」が必要
つまり「合意があれば変更可能(第8条)」が原則ですが、その合意が本物かどうかが問われます。
「合意」が有効と認められる条件
最高裁平成28年2月19日判決(山梨県民信用組合事件)は、合意の有効性を判断する重要な基準を示しました。この判決では、「形式的に署名があっても、自由意思に基づく合意でなければ無効」とされています。
有効な合意として認められるためには、次の3点が必要です。
- 変更内容(カット率・期間・金額)を具体的かつ明確に説明していること
- 不利益の内容と程度を従業員が理解したうえで署名していること
- 署名が任意(自由意思)であること——「同意しなければ解雇」等の圧力がない状態
署名を「強制的に取った」と後から主張されるリスクを防ぐために、説明の記録(説明資料・面談記録・参加者リスト)を残すことが不可欠です。
一方的な給与カットが違法となるケース
合意なしに給与を引き下げた場合、未払い賃金として請求される可能性があります。また、就業規則の変更で一方的に引き下げようとした場合も、合理的な理由がなければ無効と判断されます。特に「業績が悪化しているから」という理由だけでは不十分で、変更の必要性・変更内容の相当性・労働組合や従業員代表への説明といった複合的な事情が考慮されます。
就業規則と個別合意の関係を正しく理解する
給与カット合意を実施するには、個別合意だけでなく就業規則(給与規程)の変更も原則として必要です。この2つはセットで対応しなければなりません。
就業規則が「最低基準」になる理由
労働契約法第12条は、就業規則で定めた基準に達しない労働条件を個別に定めても無効とし、就業規則の基準が適用されると定めています。つまり、就業規則の給与規程に「基本給◯◯万円」と書かれている場合、個別合意で「◯◯万円以下にする」と取り決めても、就業規則を同時に変更しなければ法的に効力を持ちません。
従業員数による手続きの違い
就業規則の変更手続きは、事業場の常時雇用者数によって異なります。
| 従業員数 | 就業規則の作成・変更義務 | 届出先 |
|---|---|---|
| 常時10名以上 | 作成・変更・届出が義務 | 所轄の労働基準監督署 |
| 常時10名未満 | 作成義務なし(任意) | 届出不要(作成している場合は変更推奨) |
20〜50名規模の企業であれば、ほぼ確実に就業規則の変更・届出が必要です。変更する際は、変更前に労働者代表(過半数を代表する者)の意見を聴取し、意見書を添付して届出を行います。なお、意見書は「賛成意見」でなくても構いません——聴取したという事実が重要です。
就業規則がない場合の対応
就業規則がない(または給与規程が整備されていない)10名未満の事業場では、個別の雇用契約書・労働条件通知書が労働条件の根拠になります。この場合、個別合意書に加えて、変更後の労働条件通知書を交付することで対応します。
給与カット合意取得の4つの手順
給与カットを合法的に実施するための手順は、大きく4段階に整理できます。順番を守ることが、後のトラブル防止につながります。
経営状況の説明と変更の必要性の共有
まず最初に行うべきは、なぜ給与を引き下げる必要があるのかを、書面または説明会を通じて従業員に説明することです。ここで重要なのは「説明した記録を残す」ことです。売上の推移、固定費の状況、今後の見通しなどを資料にまとめ、配付した日時・参加者を記録します。一方的な通知にならないよう、質問を受け付ける場も設けましょう。
変更内容の明示
次に、給与カット合意の具体的な内容を文書で示します。口頭だけでは「言った・言わない」のトラブルになります。明示すべき内容は以下のとおりです。
- カット前の給与額(現行の基本給・各種手当)
- カット後の給与額(または算定方法)
- カットの期間(開始日・終了日または回復条件)
- 回復の見通し(業績目標、見直し時期など)
「業績が回復したら元に戻す」という約束を口頭だけで済ませてしまうケースが非常に多いですが、これが後の紛争の火種になります。必ず書面に明記してください。
個別面談と同意書への署名
説明会後、個別面談を設けて従業員一人ひとりから同意を得ます。集団の場で「じゃあ署名を」とまとめて求めることは、圧力とみなされるリスクがあるため避けましょう。面談では「この内容で同意しますか」「疑問や不安はありますか」と確認し、十分に理解・納得したうえで署名・捺印してもらいます。面談の日時・担当者・主な質問内容も記録しておきます。
就業規則の変更と届出
最後に、個別合意と整合する形で就業規則(給与規程)を変更します。変更案を作成し、労働者代表の意見書を取得したうえで、常時10名以上の事業場は所轄の労働基準監督署に届出を行います。変更後の就業規則は従業員が容易に閲覧できる場所(社内掲示・共有フォルダ等)に周知します。
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合意書・覚書に必ず盛り込む6つの記載事項
給与カット合意書の形式が不十分だと、合意があったにもかかわらず後日トラブルになります。合意書または覚書には、以下の6項目を必ず明記してください。
書面に必要な記載事項
- カット前の給与額:現行の基本給・手当の内訳を記載する
- カット後の給与額(または算定方法):「基本給を◯◯円から◯◯円に変更する」のように具体的に書く
- 期間(始期と終期または回復条件):「◯年◯月◯日から◯年◯月◯日まで」または「◯の条件が達成された月の翌月から元の金額に戻す」など
- 回復の条件・見通し:業績指標や売上目標など、可能な限り具体的に記載する
- 合意の任意性に関する一文:「本合意は本人の自由意思に基づくものであり、いかなる強制もなく同意するものです」などの文言
- 署名・捺印欄と日付:会社側(代表者等)・従業員側の双方が署名・捺印し、日付を明記する
「一時的なカット」と「恒久的なカット」で書き方が変わる
一時的(期間限定)な給与カットの場合、終了条件を明確にすることが最重要です。「業績が回復したら」「◯年◯月まで」のように、終期または回復の客観的な基準を必ず書面に入れます。書面に終期がなければ、実質的に恒久的なカットとみなされるリスクがあります。
恒久的なカットの場合は、就業規則の変更との整合性がより厳密に問われます。また、変更の合理性(会社の状況・必要性)を文書に残しておくことが、後の紛争対応でも有効です。
同意を得られなかった従業員への対応
全員の同意が必要かというと、法的には必ずしもそうではありません。就業規則の不利益変更(労働契約法第10条)によって全員に適用する方法もありますが、こちらは「高度の必要性に基づいた合理的な変更」が求められ、ハードルが高くなります。同意しない従業員が一部いる場合、その従業員には変更前の条件が維持される可能性があります。同意取得を急がず、丁寧な説明を重ねることが基本的な対応です。無理に署名を求めることは逆効果になります。
まとめ
給与カットは、従業員の合意があれば合法的に実施できます。ただし、「署名させれば終わり」ではなく、経営状況の説明・変更内容の明示・個別面談・就業規則の変更という4つの手順を丁寧に踏むことが、トラブルを防ぐ唯一の方法です。また、合意書には期間・カット額・回復条件・任意性の確認を必ず明記し、「言った・言わない」が起きない書面を整備してください。特に一時的なカットは終期・回復条件を書面に書かないことで恒久化するリスクがあります。
専任人事がいない環境では、こうした給与カット合意の手続きを適切に進めること自体が大きな負担になりがちです。対応の流れや書面の作成に悩むときは、お気軽にお問い合わせください。ウェルセンス株式会社では、中小企業の経営者・兼務人事担当者が直面するこのような労務・人事対応についてのご相談を承っています。
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