「内定を出したら、また給与の話が来た。これで3回目です……」
採用活動に多くの時間とコストをかけた後で、こうした状況に直面すると判断に迷うのは当然です。「ここで断ったら次の候補者を探す余裕がない」という焦りと、「このまま入社させて大丈夫か」という不安が交錯する。20~50名規模の企業では、専任の採用担当者もなく、経営者や兼務の人事担当者が一人でこの判断を迫られることがほとんどです。本記事では、感情論でなく「法的リスク」「入社後リスク」「実務対応」の三つの軸から、判断の根拠を整理します。
内定後の給与交渉は違法か——法的な立場を確認する
内定後の給与交渉は、それ自体は違法ではありません。ただし、内定の法的な意味を正しく理解しておかないと、対応を誤ってトラブルに発展するリスクがあります。
内定=労働契約の成立という大原則
採用内定通知を出した時点で、法的には「始期付・解約権留保付き労働契約」が成立していると解されています(大日本印刷事件・最高裁昭和54年7月20日判決)。つまり内定は「仮の約束」ではなく、すでに契約が始まっている状態です。この前提に立つと、内定取消は「解雇」に準じた扱いを受けるため、合理的な理由がなければ違法となるリスクがあります。
「交渉を繰り返した」は取消の理由にならない
内定取消が正当と認められるのは、主に以下の三つのケースに限られます。
- 採用選考時に候補者が重要な事実を詐称していた
- 企業の経営状況が著しく悪化した(整理解雇に準じた要件の充足が必要)
- 内定通知時に明示した解約留保事由が現実に発生した
「給与交渉を何度も繰り返した」「交渉態度が気に入らなかった」という理由だけでは、取消事由として認められない可能性が高いのが実態です。
「辞退させる」と「取り消す」は法的に別物
会社側から内定を取り消す行為と、候補者が自らの意思で辞退する行為は、法的効果がまったく異なります。ただし「辞退を促す」行為が事実上の強要・不当な圧力と評価されると、民法上の不法行為として損害賠償請求リスクが生じます。辞退を促す場合は、会社側の最終条件を明確に書面で提示し直し、候補者が自らの意思で判断できる状況を整えることが法的に安全な進め方です。
入社させるべきか、辞退を促すべきか——判断の三つの軸
「入れるか・断るか」の判断は、採用コストの問題だけで考えると必ず判断を誤ります。入社後のリスクまで含めた三つの軸で評価することが重要です。
交渉の「内容」より「姿勢・スタイル」を見る
給与交渉そのものは珍しいことではありません。問題は、交渉の中身ではなく、どのように交渉しているかです。以下の表を参考に、候補者の交渉スタイルを評価してください。
| リスクが低い交渉スタイル | リスクが高い交渉スタイル |
|---|---|
| 業務内容・成長・チームへの関心も示している | 条件面の話のみで業務・文化への関心が薄い |
| 要望の根拠を論理的に説明できる | 他社比較を繰り返し、会社への志望動機が希薄 |
| 会社の回答を受け入れる姿勢がある | 感情的・高圧的になる場面がある |
| 交渉の着地点を探ろうとしている | 「もっと出せるはず」という前提で話が進む |
動機を見極めるための確認ポイント
交渉を繰り返す背景には、複数のパターンがあります。他社オファーを引き出すための材料として使っているケース、生活上の切実な必要から来るケース、単に交渉スタイルがアグレッシブなだけで入社意欲は高いケース——これらは対応が異なります。「なぜこの条件が必要なのか」を率直に尋ねる場を設け、回答の内容と一貫性を確認することが判断材料になります。
「採用コストの焦り」で判断を歪めない
20~50名規模の企業では、一人の採用に多大な時間とコストがかかります。「今さら断れない」という焦りが判断を歪める最大の要因です。ここで感情的に条件を飲んでしまうと、入社後に「あの条件で来てあげたのに」という意識を持った社員が誕生するリスクがあります。採用コストのロスと、入社後に処遇不満を抱えた社員が引き起こすリスクを冷静に天秤にかけてください。
「判断が難しい」「記録をどう残せばいいか分からない」という状況が生じたら、一人で決めず専門家に相談することをお勧めします。ウェルセンス株式会社では、こうした採用時の法的判断を含めた人事課題をサポートしています。
条件を受け入れた場合——入社後リスクの管理方法
交渉を経て内定を維持する判断をした場合でも、事前に手を打っておくべきことがあります。入社後トラブルの多くは、対応後の記録不足と社内整合性の欠如から生まれます。
口頭のやりとりはすべて書面で残す
交渉の過程で電話や対面で話した内容は、必ずその後メールで要点を確認する「議事録メール」の習慣が不可欠です。「あの時○○と言った」という主張は、記録がなければ水掛け論になります。最終的に合意した条件は、雇用契約書または労働条件通知書に明記し、候補者の署名・押印(または電磁的な承諾記録)を取得してください。
既存社員との処遇バランスをどう考えるか
特別に給与を引き上げた場合、既存社員や他の内定者との均衡が崩れます。等級・賃金テーブルが整備されていない企業では特に深刻な問題になります。対応策として、賃金テーブルの範囲内で処遇できないかを先に検討すること、範囲外の場合は「なぜこの処遇になったか」を説明できる根拠(職務・スキル・経験)を社内で明文化しておくことが重要です。整合性がとれない場合は、他の社員から不満が出たときに対応できなくなります。
入社後のフォロー体制を入社前に決める
処遇面で特別な配慮をした社員ほど、入社後の期待値管理が重要です。入社前に「期待する役割と評価の基準」を文書で共有し、試用期間終了時に振り返りの面談を設定することを事前に伝えておくと、「条件を得た後に存在感を示す必要がある」という意識を自然に持ってもらえます。
辞退を促す場合の進め方と注意点
会社側として最終条件を提示した上で、候補者に判断を委ねる形で辞退を促すことは、適切な手順を踏めば法的リスクを抑えることができます。
「最終提示」を書面で明確に伝える
まず社内で「これ以上は変更できない最終条件」を明確に決め、その内容をメールで候補者に送付します。「この条件が弊社の最終的な提示です。ご検討のうえ、○月○日までにご意向をお知らせください」という形で、回答期限を設定することが重要です。これにより、候補者が自らの意思で辞退を選択する状況が整います。
辞退を強要しない・記録を残す
「辞退してほしい」と直接的に伝える表現や、精神的プレッシャーをかける言動は避けてください。候補者が後に「強要された」と主張できる余地を与えないために、やりとりはすべてメールで行い、電話で話した場合も内容をメールで確認する形を徹底します。万一のトラブルに備えて、一連のやりとりの記録を保管しておきましょう。
辞退後の手続きを丁寧に行う
候補者が辞退を選択した後は、辞退の意向を書面(メール)で確認し、内定通知書の返却を求めるなど、内定の消滅を記録として残します。このプロセスを丁寧に行うことが、後々の法的リスクを最小化します。
再発を防ぐ——採用プロセスの設計で交渉トラブルを減らす
内定後の条件交渉トラブルの多くは、採用プロセスの入口の設計を見直すことで予防できます。
選考段階で条件のすり合わせを完結させる
内定後に条件交渉が起きやすいのは、選考中に給与・処遇の具体的な話が曖昧なまま進んでいるケースです。最終面接の前に「想定年収のレンジ」「給与決定の基準」「入社後の評価サイクル」を候補者に伝え、双方の認識を合わせておくことが有効です。内定通知書に記載する条件は、このすり合わせを経た上で確定させるのが理想です。
社内で「交渉の打ち止め線」を事前に決めておく
交渉対応で最も判断が揺れるのは、「どこまで対応するか」の基準が決まっていないときです。内定候補者が出た段階で、次のことを社内で合意しておくと対応が安定します。給与・役職・入社日について変更できる最大幅を決めること、交渉への対応は何回まで行うかを決めること、そして誰が最終判断をするかを決めることです。この三つが決まっているだけで、交渉への対応が格段に整理されます。
「採用プロセスをどう改善すればいいか分からない」という悩みも、多くの中小企業が抱えています。ウェルセンス株式会社では、採用から入社後の定着まで、実務的なアドバイスをしています。
まとめ
内定後に給与交渉を繰り返す候補者への対応は、「入れるか・断るか」の二択で考えると判断を誤りやすいテーマです。まず法的には、内定取消は解雇に準じた扱いを受けるため、「交渉態度が気に入らない」だけでは取消事由になりません。判断の軸は、交渉の内容よりも交渉の姿勢・スタイル——業務や会社への関心があるか、感情的・高圧的になっていないか——を見ることです。条件を受け入れる場合はすべての合意を書面化し、社内の処遇バランスへの影響も確認してください。辞退を促す場合は、最終条件を書面で明示し、候補者が自らの意思で判断できる状況を作ることが法的リスクを抑えるポイントです。そして何より、採用プロセスの入口で条件のすり合わせを完結させることが、こうしたトラブルの根本的な予防策になります。
「この候補者、入社させてよいか判断が難しい」「内定後のやりとりが複雑になってきた」という状況は、一人で抱え込むと誤った判断につながりやすいものです。ウェルセンス株式会社では、採用から入社後の定着・処遇管理まで、中小企業の人事課題を実務的にサポートしています。気になることがあれば、まずは状況をご相談ください。
よくある質問
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