「うちは社長が毎年考えて決めているから、特に基準はないんですよね」——採用面接でそう答えた後、応募者の表情が曇った。そんな経験はありませんか。あるいは、既存社員から「どうすれば給料が上がるんですか」と聞かれて、明確に答えられなかった場面を思い出す方もいるかもしれません。昇給の根拠を言語化できていない状態は、採用・定着・社員のモチベーションに静かに影響し続けます。この記事では、等級制度がなくても昇給基準を就業規則に書ける最小ステップを、法的根拠とともに実務的に解説します。
「基準がない昇給」は法的にまずいのか
結論から言えば、昇給の基準を就業規則に書かずに運用し続けることは、法的なリスクを伴います。ただし「今すぐ罰則が発生する」というより、紛争・トラブルになったときに会社側が不利になるという性質のリスクです。
就業規則への記載義務(労働基準法第89条)
労働基準法第89条は、就業規則の「相対的必要記載事項」として昇給に関する事項を定めています。相対的必要記載事項とは「その制度を設けるなら、就業規則に書かなければならない」ものです。つまり、求人票や雇用契約書に「昇給あり」と記載している以上、その基準や手続きを就業規則に書く義務が発生します。「昇給は会社が別途定める」という一文だけでは、実質的に「定め」が存在しないのと同じ状態です。
採用時の明示義務の強化(2024年4月施行)
2024年4月に施行された労働基準法施行規則の改正により、求人・採用時の労働条件明示が強化されました。昇給に関する事項も明示対象に含まれており、「昇給あり(基準・時期は応相談)」といった曖昧な記載だけでは対応が不十分になるケースが増えています。採用候補者から具体的な基準を問われたとき、明文化されたルールがあれば正確に答えられます。
不利益変更のリスクを理解する(労働契約法第9条・第10条)
逆に、「これから基準を作ると縛られるのでは」という心配もよく聞きます。ここで重要なのは、昇給基準を新たに定めること自体は不利益変更ではないという点です。問題になるのは、既存社員の賃金を実質的に下げる(昇給のハードルを著しく引き上げるなど)変更を一方的に行う場合です。「昇給を検討する基準」を初めて明文化するだけであれば、不利益変更のリスクは低く、むしろ透明性が上がるため社員にとってプラスに働きます。
等級制度なしで昇給基準は明文化できる
等級制度(グレード・ジョブレベルの体系)がなくても、昇給基準の明文化は十分に可能です。必要なのは「軸を決めること」と「その軸を就業規則に書くこと」の2点だけです。
昇給判断の軸を3〜4項目に絞る
複雑な評価シートや点数制度は不要です。「何を見て昇給を判断するか」の軸を言語化するだけで、運用の一貫性が生まれます。たとえば以下のような軸が中小企業では扱いやすいです。
- 勤務態度・規律(遅刻・欠勤・ルール遵守など)
- 業務の習熟度・スキルの向上(担当業務への習熟、新たな業務への対応)
- 目標・期待値に対する達成状況
- チームや職場への貢献(後輩育成、改善提案など)
これらをすべて精緻にスコア化する必要はありません。「こうした観点から総合的に判断する」と就業規則に書くだけで、「社長の感覚」から「根拠のある判断」へ移行できます。
「絶対昇給」ではなく「昇給を検討する」設計にする
業績が悪い年に昇給できない可能性を想定し、条文は「昇給を行う」ではなく「昇給を行うことがある」または「昇給を検討する」という表現にするのが実務上の定石です。これにより、業績不振時に昇給を見送っても就業規則違反にはなりません。ただし「昇給しない場合の条件」も明記しておくことで、社員への説明がよりスムーズになります。
従業員規模による対応の違い
従業員数によって対応の優先度が変わります。10名以上の事業場は就業規則の作成と労働基準監督署への届出が法律上の義務です(労働基準法第89条・第90条)。10名未満の場合は届出義務はありませんが、就業規則を作成・整備すること自体はトラブル防止の観点から強く推奨されます。また、正社員とパート・有期社員が混在する場合は、パートタイム・有期雇用労働法第8条・第9条(同一労働同一賃金)への対応も合わせて検討が必要です(中小企業には2021年4月から適用済み)。
就業規則に書くべき昇給条項の最小構成
昇給条項として就業規則に最低限盛り込むべき要素は4つです。これを満たしていれば、労働基準監督署への届出水準を実質的にクリアできます。
条項に必要な4要素
| 要素 | 記載例 | ポイント |
|---|---|---|
| 昇給の時期 | 毎年4月(年1回) | 「随時」でも可だが年1回等の明示が望ましい |
| 昇給の判断要素 | 会社の業績、個人の勤務成績・習熟度・勤務態度等を考慮する | 軸を3〜4項目程度列挙するだけでよい |
| 昇給しない場合の条件 | 会社の業績が著しく悪化した場合、または懲戒事由に該当する場合は昇給を行わないことがある | 「行わないことがある」という表現が重要 |
| 決定権限 | 昇給の可否および額は、会社が決定する | 最終決定者を明示することで恣意性の批判を回避 |
条文の文例
以下は実際の就業規則に使える文例です。自社の実態に合わせて括弧内を書き換えてください。
「会社は、毎年〇月に、従業員の昇給を検討する。昇給の要否および額は、会社の業績ならびに各従業員の勤務成績・習熟度・勤務態度・目標達成状況等を総合的に考慮したうえで、会社が決定する。ただし、会社の経営状況が著しく悪化した場合、または従業員が懲戒事由に該当する行為を行った場合は、昇給を行わないことがある。」
この文例のポイントは「検討する」「総合的に考慮したうえで」「行わないことがある」という表現です。これらにより、会社側の柔軟な判断余地を確保しながら、判断の根拠が示された状態になります。
就業規則改定後の届出と周知
就業規則を改定したら、10名以上の事業場は所轄の労働基準監督署へ届け出る必要があります。届出には就業規則と意見書(労働者代表の署名捺印が必要)を添付します。また、労働契約法第7条は「就業規則が労働契約の内容となるには、周知されていることが必要」と定めています。改定後は社員への説明の場を設け、書面または社内システムで閲覧できる状態にすることがセットで必要です。
明文化を先送りにしたときの実際のリスク
昇給基準の明文化を後回しにすることには、法的リスクだけでなく採用・定着・組織運営への具体的なダメージがあります。
採用活動への影響
求人票に「昇給あり」と記載しながら、面接で「基準は特に決まっていない」と答えると、候補者の信頼を損ねます。2024年の労働条件明示ルールの強化を受け、採用候補者が昇給の具体的な基準を問うケースは増えています。明文化されたルールがあれば、採用の場で自信を持って説明でき、求職者への訴求力が上がります。
早期離職とモチベーション低下
入社後に「評価・昇給の仕組みが不透明」と感じた社員が離職するパターンは、20〜50名規模の成長企業でよく見られます。特に中途入社者は前職の評価制度と比較するため、「何をすれば評価されるかわからない」状態への不満が離職動機になりやすいです。昇給基準を明示することは、社員の「頑張れば報われる」という感覚を支える基盤になります。
「評価基準がはっきりしていない」という悩みは、多くの成長企業が抱えています。判断軸の言語化から届出まで、段階的にサポートできます。
不公平感からくる内部トラブル
「なぜあの人は昇給して自分はされなかったのか」という疑問は、基準が不明確なほど強くなります。このような不満は表面化しにくいまま蓄積し、退職・チーム内の不和・最悪の場合は労働紛争に発展することもあります。基準が明文化されていれば、個別の昇給判断に対して根拠のある説明ができるため、納得感の醸成につながります。
明文化を進める実務フロー
昇給基準の就業規則への明文化は、まず「判断軸の言語化」から始め、就業規則への記載、届出・周知という流れで進めます。専任人事がいない中小企業でも、この順序を守れば無理なく整備できます。
判断軸を言語化する(社内作業)
まず最初に、現在の昇給判断で実際に見ている要素を書き出します。「勤務態度」「スキルの向上」「業績への貢献」など、普段の感覚を言葉にするだけで構いません。この作業は社長や管理職1〜2名で1〜2時間あれば完了します。精緻な点数化より「言語化されているか否か」が重要です。
就業規則の条文を作成・改定する
次に、言語化した判断軸を前述の4要素(時期・判断要素・不昇給条件・決定権限)に当てはめて条文化します。既存の就業規則に昇給条項がある場合は改定、ない場合は新設します。この段階で社労士に相談すると、自社の労働条件との整合性確認や文言の法的チェックが受けられ、後のトラブルを防げます。
届出・周知・運用開始
就業規則を改定したら、労働者代表の意見書を添えて所轄の労働基準監督署に届け出ます(10名以上の場合)。届出後は社員説明会や書面配布で内容を周知し、「この基準で次回の昇給を判断します」と明示することで、制度としての実効性が生まれます。周知なき就業規則は、法的に効力が認められないリスクがあることを覚えておいてください(労働契約法第7条)。
まとめ
昇給基準を就業規則に明文化することは、法的義務の履行であると同時に、採用力・社員定着・組織の信頼感を支える実務的な投資です。等級制度がなくても、判断軸を3〜4項目に絞り、「昇給を検討する」という表現で条文化するだけで、運用可能な仕組みが作れます。大切なのは「完璧な制度を作ること」ではなく、「根拠を説明できる状態にすること」です。
人事制度や労務のことを社長ひとりで判断するのではなく、外部の専門家に相談しながら進めることで、制度の実効性が高まります。ウェルセンス株式会社では、専任人事のいない中小企業向けに就業規則整備から運用サポートまで行っています。
よくある質問
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