「休職中のはずの社員が、海外旅行のSNS投稿をしていた」——そう社内で話題になったとき、経営者・人事担当者としてまず頭に浮かぶのは「傷病手当金は返還させられるのか」「懲戒処分はできるのか」という疑問ではないでしょうか。しかし焦りのまま本人を問い詰めたり、「不正受給だ」と断言して動くことには、思わぬ法的リスクが潜んでいます。この記事では、制度の正しい理解から証拠の保全方法、会社が取るべき対応ステップまでを順を追って解説します。
傷病手当金は「会社が返還請求できる」制度ではない
結論から言えば、会社には傷病手当金を直接返還請求する権限はありません。この点を誤解したまま動くと、対応そのものが違法リスクを招きます。
傷病手当金の支給主体はどこか
傷病手当金は健康保険法第99条に基づき、協会けんぽまたは健康保険組合(保険者)が支給する給付です。会社は申請書類の一部を作成・提出することはあっても、支給を決定したり停止したりする権限を持ちません。したがって「会社が返還させる」という対応は制度上存在しません。
不正受給への正しいアプローチ
もし不正受給の疑いがある場合、会社が取るべきアクションは保険者への情報提供・申告です。保険者が調査を行い、不正受給と認定されれば健康保険法第121条等に基づいて保険者側が返還請求を行います。さらに悪質な場合は刑法第246条の詐欺罪に発展する可能性もあります。「会社が怒って直接請求する」のではなく、「保険者に事実を伝えて判断を委ねる」が正しい流れです。
「海外渡航=労務可能」とは限らない理由
傷病手当金の支給要件は「労務不能」の状態にあること、つまり自社の業務に従事できない状態であることです。特にメンタル不調の場合、症状は波状的で「外出できる日がある」「旅行ができた」と「労務に就ける」は必ずしもイコールではありません。医師の指示のもと気分転換の外出が療養の一環として認められるケースもあります。一方で、医師の関与なく長期の海外渡航を行っていた場合は、保険者が「療養の必要性」を疑う調査対象になりえます。いずれにせよ、不正かどうかの判断は保険者が行うものであり、会社が断言して行動することにはリスクが伴います。
会社が取るべき対応
会社側の対応は「事実確認→就業規則との照合→保険者への情報提供の検討」という段階で進めるのが原則です。感情的に動かず、記録を残しながら順序立てて対応することが重要です。
事実確認と証拠の保全
まず最初に行うのは、情報の確認と記録化です。SNS投稿が情報源であれば、URLと投稿日時を含めたスクリーンショットを保存します。第三者からの情報であれば、証言者と内容・日時を書面で記録しておきます。次に、本人への事情聴取を行います。このとき重要なのは「詰問しない」ことです。複数人同席のうえ、「確認のための面談」として位置づけ、録音するか議事録を作成して本人に署名を求めます。面談では渡航の時期・期間・目的・主治医の指示の有無を口頭で確認したあと、同内容を書面で回答させます。威圧的な面談はパワーハラスメントのリスクがあるため注意が必要です。
主治医への確認と就業規則との照合
事実確認の結果、渡航の事実が本人から認められたら、主治医への確認を行います。ただし、主治医に問い合わせるには本人の書面による同意(同意書)が必要です。確認すべき内容は「海外渡航を許可または指示していたか」という一点です。主治医が「気分転換として勧めた」と回答する場合もあります。その回答内容も記録に残してください。並行して、自社の就業規則を確認します。「療養専念義務」や「長期不在・外出時の届出義務」が明記されているかどうかが、その後の懲戒処分の可否を左右します。就業規則にこれらの規定がない場合、懲戒処分は難しくなります。
保険者への情報提供の検討
事実が書面で明確になった段階で、協会けんぽまたは健康保険組合の問い合わせ窓口に相談します。情報提供は法的義務ではありませんが、実務上は「会社として把握している事実をお伝えしたい」というかたちで連絡することが可能です。保険者はその後独自に調査を行い、支給継続の可否・返還請求の要否を判断します。会社が「不正だ」と断言して動く必要はなく、「判断を保険者に委ねる」という姿勢が正しい対応です。
懲戒処分・休職打ち切りは「就業規則次第」
懲戒処分や休職の打ち切りを検討できるかどうかは、就業規則の記載内容によって大きく変わります。規定がなければ処分は難しく、規定があっても手順を誤れば無効になるリスクがあります。
就業規則に何が書かれているかを確認する
会社が懲戒処分を行うには、労働契約法第15条に基づき、就業規則に懲戒事由と処分の種類が明記されている必要があります。「療養に専念すること」「海外渡航等の長期不在は事前に届け出ること」といった規定があれば、その違反を理由とした懲戒(戒告・減給等)の検討が可能になります。一方、こうした規定が存在しない場合は、同じ行為に対して懲戒処分を下すことは困難です。対応の前に必ず就業規則を確認し、不明な点は社労士に相談することを推奨します。
休職打ち切りを検討できるケース・できないケース
| 状況 | 対応の可否 | 必要な条件・注意点 |
|---|---|---|
| 就業規則に療養専念義務・届出義務あり、違反が書面で確認できた | 懲戒処分(戒告・減給等)を検討できる | 規定の文言と行為の整合性確認が必須 |
| 主治医が「渡航を指示・許可していた」と回答した | 懲戒処分・打ち切りは困難 | 医師の判断を覆す根拠が会社側にはない |
| 主治医が「指示していない」と回答、かつ長期渡航が確認された | 休職期間の短縮・打ち切りを検討できる余地あり | 就業規則の休職条項を確認。独断での打ち切りはリスク大 |
| 就業規則に関連規定がない | 懲戒処分は困難 | 今後の規程整備を検討する |
「回復の証拠」として復職を強制できるか
「海外旅行ができるなら回復しているはずだ」と感じるのは自然ですが、それだけを根拠に復職を強制することは法的にリスクがあります。復職の可否は主治医・産業医の意見と診断書が基本となります。特に産業医選任義務のない50名未満の企業では、主治医の診断書が唯一の医学的根拠になるケースが多いです。「渡航の事実」は保険者の調査材料・就業規則違反の根拠とはなりえますが、それのみで「復職可能」と会社が判断して就労させることは、かえってトラブルの種になります。
SNSで発覚した場合の証拠保全と注意点
SNSや第三者の情報から発覚した場合、証拠の扱いを誤ると会社側が不利になることもあります。感情的に突きつけるのではなく、正確に記録・保全するプロセスが重要です。
スクリーンショットの正しい保存方法
SNS投稿を証拠として活用する場合、保存すべき情報は投稿内容だけではありません。投稿のURL・投稿日時・アカウント名が確認できる状態でスクリーンショットを撮影し、日付を記録したファイル名で保存します。投稿が後から削除される可能性を考慮し、複数の日時に保存しておくことも有効です。ただし、社員の非公開アカウントに無断でアクセスして取得した情報は証拠としての扱いに問題が生じる場合があるため、公開投稿に限って参照するのが原則です。
第三者情報(同僚・知人からの報告)の扱い方
同僚や取引先から「○○さんが海外にいるのを見た」と聞いた場合、その情報を即座に本人に突きつけることは避けてください。まず情報提供者に対し、いつ・どこで・どのような状況で見たかを具体的に聞き取り、内容を書面または記録として残します。情報源を特定されると職場の人間関係に影響することもあるため、提供者のプライバシーへの配慮も必要です。その後、こうした情報をもとに「確認のための面談」を設定するという流れが適切です。
面談時のハラスメントリスクを避ける
本人への事情聴取は、会社の使用者としての指示権の範囲内で行えますが、「証拠を突きつけて一方的に責める」「威圧的な雰囲気で追及する」といった対応はパワーハラスメントと判断されるリスクがあります。面談は複数人同席・事前に目的を告知・録音または議事録を残すという形式を守り、「確認のための場」として設定することが重要です。本人が弁明する機会を確保することも、後の処分の有効性に関わります。
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産業医・主治医のいない中小企業が取りうる対応
50名未満の企業には産業医の選任義務がなく、医療的な判断を求める先がないと感じる経営者・人事担当者は多いです。しかし、手段がないわけではありません。
主治医への確認は「本人同意があれば可能」
「主治医には守秘義務があるから問い合わせできない」と思い込んでいるケースが多くあります。しかし、本人が書面で同意をしていれば、会社が主治医に問い合わせることは可能です。同意書には「海外渡航の可否について主治医に確認することを了承する」という趣旨を明記し、署名・日付を取得します。主治医への確認事項は「渡航を指示または許可したかどうか」に絞り、治療内容など不必要な情報を求めないことが望ましいです。
外部の専門家・支援機関を活用する
産業医がいない場合でも、社会保険労務士・産業保健総合支援センター(都道府県ごとに設置)に相談することができます。産業保健総合支援センターは無料で産業保健に関する相談に応じており、小規模事業場向けの支援制度もあります。また、こうした事案を経験した外部の人事・労務の専門家に対応の方針を相談することで、対応の適切性を確認することができます。今後の再発防止のためにも、就業規則の整備や休職ルールの明文化を専門家と進めることを検討してください。
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まとめ
休職中の海外渡航が発覚した場合、会社がまず理解すべきは「傷病手当金の返還請求は会社の権限ではない」という点です。支給主体は保険者(協会けんぽ・健康保険組合)であり、不正受給の疑いがあれば保険者への情報提供が正しいアクションになります。会社側の対応としては、まず事実確認と証拠保全を丁寧に行い、次に主治医への確認と就業規則との照合を経て、最後に保険者への情報提供を検討するという流れが基本です。懲戒処分や休職打ち切りは、就業規則に明確な規定がある場合のみ検討でき、規定がない場合は難しくなります。また、海外渡航の事実だけで「回復した」と判断して復職を強制することもリスクを伴います。産業医のいない中小企業でも、主治医への問い合わせ(本人同意のもと)や産業保健総合支援センターの活用によって対応の糸口を見つけることができます。今回の事案をきっかけに、就業規則の休職規定を整備しておくことが、今後の同様のトラブル予防にもつながります。
ウェルセンス株式会社では、こうした休職・復職にまつわる対応を社労士・産業保健の知見を組み合わせてサポートしています。対応方法に迷われている、あるいは今後のルール整備について相談したいといった場合は、お気軽にお問い合わせください。「どこから手をつければいいかわからない」という段階からでも、お力になります。
よくある質問
ウェルセンスは、メンタル不調者対応・休職復職支援に強い職場メンタルケアサービスです。産業医・保健師・心理士・社労士などの専門家ネットワークが、人事・管理職だけでは判断しづらいケースの初動対応、専門家連携、再発防止まで支援します。
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