「先月、給与計算を間違えて10万円多く振り込んでしまった。本人に話したら『もう使ってしまった』と言われ、返してもらえそうにない——」。こんな状況に直面したとき、会社はどう動けばいいのか。給与の過払いは、人事担当者や経営者が思っている以上に法的な落とし穴が多く、「とりあえず翌月の給与から引いておこう」という対応が逆に労働基準法違反になるケースもあります。この記事では、給与誤振込の返還請求に必要な法的根拠から、返還拒否された場合の実務手順まで、専任人事がいない中小企業でも実践できるかたちで整理します。
会社には給与過払い分を返してもらう権利がある
結論からお伝えすると、誤って払いすぎた給与は「不当利得」として民法上の返還請求権が認められており、会社は法的に回収できます。
不当利得返還請求権とは
民法703条・704条に定める「不当利得返還請求権」が、給与過払い回収の最大の法的根拠です。過払い分は「法律上の原因なく取得した利益」に該当するため、社員が「給与としてもらったから返す義務はない」と主張しても、法的にはその主張は通りません。社員の「もらってよい理由」は「正当な労働の対価分」だけであり、超過した部分には正当な根拠がありません。
善意・悪意で返還義務の範囲が変わる
ただし、返還義務の範囲は社員が過払いを知っていたかどうかによって変わります。知らずに受け取った(善意の受益者)場合、民法703条により「現に利益を受けている限度」での返還義務にとどまります。一方、過払いと知りながら受け取った(悪意の受益者)場合は、民法704条により受けた全額に加え利息まで付けて返還する義務を負います。
実務上の注意点として、「もう全額使ってしまった」と言われると善意受益者として返還額を減らすよう主張されるリスクがあります。もっとも、交渉で分割返済に合意するケースが大半であり、裁判になっても「使ってしまったから一切返さなくていい」とはなりません。
消滅時効は「知った時から5年」
2020年4月以降の民法改正により、不当利得返還請求権の消滅時効は「権利を行使できることを知った時から5年、または権利を行使できる時から10年」(民法166条1項)です。発覚が遅れた場合でも、過払いに気づいた時点から5年以内に請求すれば時効にはかかりません。ただし2020年3月以前に発生した過払いには旧民法の10年が適用される場合があるため、発生時期の確認が重要です。
翌月給与から勝手に引くと労働基準法違反になる
「過払いなんだから翌月給与から引けばいい」という判断は、労働基準法24条(賃金全額払いの原則)に違反する可能性があり、絶対に避けなければなりません。
賃金全額払いの原則とは
労働基準法24条1項は、賃金を「通貨で、直接、全額を、毎月1回以上、一定期日に」支払うことを義務づけています。会社が一方的に「過払いがあったから」と判断して翌月の給与を減額することは、この全額払い原則に反します。労働基準監督署から是正勧告を受けた事例も存在します。返還請求の権利があるとしても、給与控除という手段を違法なかたちで行えば、会社側の信頼が大きく傷つきます。
給与控除が認められる例外的な条件
例外として控除が認められるのは、次の条件を満たす場合に限られます。
- 社員本人の書面による同意がある場合(口頭の合意では不十分)
- 労使協定を締結している場合(ただし解釈は限定的)
- 調整的相殺として認められる場合:最高裁昭和44年12月18日判決(福島県教組事件)では、過払いの直後の賃金期に行われ、額が多額でなく、かつ予告がある場合に限って適法とされた
特に中小企業では「社員が同意してくれているだろう」と思い込んで書面を取らないケースが散見されます。後から「同意した覚えはない」と言われると争いになるため、必ず書面(合意書)で残してください。
就業規則に規定がない場合のリスク
就業規則に「過払い賃金が生じた場合は翌月以降の給与から控除することができる」という規定がない企業は、そもそも控除の根拠が存在しません。規定があったとしても、社員の書面同意は別途必要です。就業規則が整備されていない段階で口頭だけで控除を始めると、トラブルが一気に複雑化します。
返還拒否された場合の実務対応フロー
社員が返還を拒否した場合でも、段階的な手順を踏むことで法的回収の道は開かれています。感情的に対応せず、証拠と書面を積み重ねることが重要です。
話し合いから内容証明までの流れ
まず最初に、過払いの事実を社内で文書化します。「いつ、いくら、なぜ過払いが発生したか」を記録として残し、次に本人へ書面で通知します。口頭での話し合いだけでは「言った・言わない」の水掛け論になりかねないため、書面で過払い額と返還期日を明示してください。
話し合いが決裂した場合は、内容証明郵便による催告を送ります。内容証明郵便は送付した事実と内容を郵便局が証明するため、後の訴訟手続きで証拠として機能します。また、内容証明による催告には消滅時効の完成猶予(6か月間)の効果もあります。
法的手続きの選択肢
| 手続き | 対象金額の目安 | 特徴 |
|---|---|---|
| 少額訴訟 | 60万円以下 | 簡易裁判所で原則1回の期日で判決。費用も比較的安い |
| 支払督促 | 金額制限なし | 相手が異議を申し立てなければ強制執行が可能 |
| 民事調停 | 金額制限なし | 裁判所が仲介する話し合い。合意すれば調停調書が強制執行の根拠になる |
| 通常訴訟 | 60万円超 | 確実な回収を目指す場合。判決確定後に強制執行が可能 |
勝訴または支払督促の確定後は、給与・預金口座の差押えという強制執行の手段が使えます。ただし強制執行は手続きが複雑なため、弁護士への相談を強く推奨します。
社員が退職してしまったケース
返還交渉中に社員が退職した場合、回収難易度は上がりますが請求権は消えません。退職金がある場合は、就業規則または退職金規程に「過払い賃金等がある場合は退職金から控除できる」旨の規定があれば相殺が有効となり得ます。規定がない場合は社員の書面同意が必要です。退職後でも内容証明を自宅宛てに送付し、応じなければ法的手続きに進むことができます。
分割返済合意書を交わすときの実務ポイント
社員が返還自体には応じるものの一括返済が困難な場合、分割返済の合意書を取り交わすことが現実的な解決策です。合意書の内容が不十分だと後から争いになるため、記載事項を丁寧に確認してください。
合意書に必ず盛り込む項目
合意書には次の内容を明記します。過払いが発生した期間と金額、返還総額、返済方法(一括か分割か)、分割の場合は各回の返済額と期日、振込先口座、給与からの控除を行う場合はその旨と控除額・控除時期、そして支払いが滞った場合の対応(期限の利益喪失条項)です。特に期限の利益喪失条項がないと、分割途中で支払いが止まっても残額の一括請求ができなくなるため注意が必要です。
給与控除方式を選ぶ場合の注意点
社員の書面同意を取った上で翌月以降の給与から控除する方式を採用する場合、1回あたりの控除額が過大にならないように配慮することも実務上のポイントです。生活費を著しく圧迫するような多額の控除は、後から「同意は強制された」と主張される余地を生みます。無理のない返済スケジュールを組むことが、最終的な回収成功率を高めます。
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再発を防ぐ社内整備のポイント
給与過払いは一度起きると回収に多大な時間とコストがかかります。再発防止のために、給与計算のチェック体制と就業規則の整備を同時に進めることが重要です。
給与計算フローの見直し
給与計算のミスは、担当者が1人で完結する体制で起きやすい傾向があります。計算後に別の担当者または経営者が金額を突合する「ダブルチェック」の仕組みを設けるだけで、過払いの発生率は大きく下がります。給与計算ソフトを使用している場合も、前月比較レポートを毎月確認する習慣をつけることをお勧めします。
就業規則への過払い返還規定の追加
就業規則に「誤って過払いが生じた場合、会社は従業員と協議の上、返還方法を定め、従業員の書面による同意を得た上で翌月以降の給与から控除することができる」という旨の規定を追加しておくと、問題発生時の対応根拠が明確になります。従業員数10人以上の企業は就業規則の作成と労働基準監督署への届出が法律上の義務であり、規定の整備は会社を守る基盤でもあります。
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まとめ
給与の誤振込・過払いが起きても、会社には民法上の不当利得返還請求権(民法703条・704条)があり、法的に回収する権利があります。ただし、翌月の給与から一方的に天引きすることは労働基準法24条(全額払い原則)違反になるリスクがあるため、必ず社員の書面同意を取ることが前提です。返還を拒否された場合は、事実の文書化→書面による通知→内容証明郵便による催告→少額訴訟・支払督促などの法的手続きという段階を踏んで対応します。また、退職金との相殺や退職後の回収には就業規則の規定の有無が大きく影響するため、問題が起きてから慌てて対応するのではなく、事前の制度整備が最大の防衛策です。
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