「固定残業代を設けたのは5年前。当時は基本給が低かったから問題なかったけれど、みんな昇格してきて……今の金額で大丈夫なのかな」。そう感じながらも、具体的な確認方法がわからず手が止まっている経営者・人事担当者は少なくありません。固定残業代と等級制度のズレは、放置すると未払い残業代の請求や労基署対応という深刻なリスクに直結します。この記事では、ズレが生じる仕組みを整理したうえで、賃金規程を安全に修正するための実務的なアプローチを解説します。
等級が上がると固定残業代が「割れる」理由
等級制度と固定残業代の整合性が崩れる根本原因は、基本給の上昇に対して固定残業代の金額が据え置きになることです。これを放置すると、法律が要求する割増賃金額を実際の支払いが下回る状態が生まれます。
割増賃金の計算と固定残業代の関係
労働基準法第37条および同施行規則第19条に基づき、時間外労働の割増賃金は次の式で算出します。
時間外単価 = 月例賃金の計算基礎額 ÷ 月平均所定労働時間 × 1.25
たとえば月平均所定労働時間が174時間の会社で、ある社員の基本給が月20万円から月28万円に昇格したとします。時間外単価は約1,437円から約2,011円に上がります。ところが固定残業代が「みなし30時間・月3万円」のまま変わっていなければ、30時間分の割増賃金として必要な額(2,011円×30時間=約60,330円)に対して3万円は明らかに不足します。この差額は未払い残業代として請求対象になりえます。
同一等級内の「レンジ上限」で確認する
等級制度では同じ等級内でも基本給に幅(レンジ)があるため、レンジ下限では問題なくてもレンジ上限では不足が生じるケースがあります。確認すべきはレンジの平均ではなく、必ず上限の給与額で計算することです。また、計算基礎に含める賃金の範囲にも注意が必要です。家族手当(扶養家族数に連動するもの)・住宅手当(実費支給)・通勤手当(実費相当)は除外できますが、役職手当や定額支給の通勤手当は計算基礎に含める必要があります(労基法施行規則第21条)。固定残業代そのものは計算基礎から除外できません。
問題が表面化するタイミング
このズレが顕在化するのは多くの場合、退職者からの未払い残業代請求や、労働基準監督署の調査が入ったときです。退職後2年(2020年4月以降の賃金請求権は3年)にさかのぼって請求されるため、長期間放置していると対応コストが一気に膨らみます。気づいた段階で早めに手を打つことが、最もコストの低いリスク対処です。
固定残業代が「有効」と認められる4つの要件
固定残業代は、4つの法的要件をすべて満たしてはじめて有効と認められます。1つでも欠けると、固定残業代の全額が通常賃金とみなされ、改めて残業代全額を支払う義務が生じる可能性があります。
最高裁判例が示す基本ルール
最高裁平成29年7月7日判決(医療法人社団康心会事件)および最高裁平成24年3月8日判決(テックジャパン事件)などの判例群は、固定残業代の有効性を判断するうえでの実務上の基準を示しています。これらに基づき、下表の4要件を整理しました。
| 要件 | 具体的な内容 |
|---|---|
| 明確区分性 | 基本給・諸手当と固定残業代が賃金明細・規程上で明確に分離されていること |
| 時間数の明示 | 何時間分の残業に相当するかが規程・労働契約書に明記されていること |
| 金額の適切性 | みなし時間数に対応する割増賃金額を下回っていないこと(実態との乖離がないこと) |
| 超過分の追払い義務 | 固定残業時間を超えた実残業がある場合に差額を支払う旨が明記されていること |
「書いてあればいい」は誤解
「就業規則に固定残業代と書いてある」だけでは要件を満たしません。特に中小企業では、時間数の記載が抜けていたり、超過分の追払い規定が存在しなかったりするケースが散見されます。まず自社の賃金規程・就業規則・労働契約書の3点セットを照合し、上記4要件が全文書で一貫して満たされているかを確認してください。
【中小企業の人事担当者へ】 現状確認の際に「本当にこれで大丈夫?」と不安になったら、その時点で専門家に相談するのが得策です。問題が大きくなる前の段階なら、対応も限定的で済みます。
賃金規程を修正する4つのステップ
整合性の修正は、現状把握→設計変更→手続き→運用の順で進めます。いきなり規程を書き直すのではなく、まず数字の検証から始めることが安全な修正の鍵です。
現状の数字を等級ごとに洗い出す
まず最初に、等級ごとに「基本給レンジ上限」「計算基礎に含まれる手当の合計」「月平均所定労働時間」「現行固定残業代の金額・みなし時間数」を一覧表に整理します。次に、各等級の時間外単価(計算基礎額÷月平均所定労働時間×1.25)を算出し、みなし時間数を掛けた「必要な固定残業代額」と現行金額を比較します。不足が生じている等級・社員を特定するのがこのステップのゴールです。
等級連動型の固定残業代テーブルを設計する
次に、等級ごとに固定残業代を設定し直します。重要なのは「等級内レンジ上限」でも要件を満たす金額を設定することです。固定残業代の金額を上げる方向の改定は社員にとって有利なため、不利益変更には原則該当しません。一方、固定残業代を下げたり基本給構成比を変えたりする場合は、次のステップで不利益変更の手続きが必要になります。
就業規則・賃金規程・労働契約書を同時に改定する
賃金規程だけを直しても、就業規則本体や労働契約書の記載と齟齬があると有効要件(明確区分性・時間数の明示)を満たせません。3つの文書を必ず同時に改定し、記載内容を一致させてください。就業規則の改定は労働組合または労働者の過半数代表者への意見聴取と、労働基準監督署への届出が必要です(労働基準法第89条・第90条)。改定後は社員への周知も義務づけられています。
不利益変更にならないための対応
是正によって一部社員の固定残業代が実質的に減少する場合、労働契約法第10条の「不利益変更」に該当しうるため、適切な手続きを踏まないと後日紛争リスクが生じます。ただし、対応策は複数あり、状況に応じて選択できます。
不利益変更が発生するケースとそうでないケース
固定残業代の金額を引き上げる改定や、みなし時間数を増やして金額も比例して増やす改定は、社員に有利な変更となるため不利益変更には該当しません。問題になるのは、固定残業代の金額を減らす、またはみなし時間数を大幅に減らして実質的な手取りが下がるケースです。また、「基本給に固定残業代を組み込んでいた(いわゆる込み込み型)ため、基本給を分解する際に基本給部分が下がる」ケースも不利益変更として扱われます。
経過措置と個別合意による対処
やむを得ず不利益変更となる場合、労働契約法第10条は「変更の必要性」「変更内容の相当性」「代償措置の有無」「社員への説明・交渉の経緯」などを総合的に考慮して合理性を判断します。実務的な対処として有効なのは、一定期間の経過措置(例:2年間は現行支給額を保証する調整手当を設ける)を設けながら個別の書面合意を取得する方法です。経過措置期間中に昇給や手当の組み替えで実質的な不利益を軽減できれば、社員の理解も得やすくなります。
従業員規模・状況別の判断ポイント
- 労働組合がある場合:組合との団体交渉が必要。個別合意だけでは不十分なケースがある。
- 労働組合がなく過半数代表者がいる場合:代表者への意見聴取(賛同が必要とされるわけではないが、丁寧な説明が後日の紛争防止につながる)。
- 就業規則が未整備の場合:固定残業代の有効要件を満たす就業規則・賃金規程を新規作成するところから着手。改定ではなく新設扱いになるため、手続きが変わる。
- すでに退職者からの請求が届いている場合:規程改定と並行して社労士・弁護士への相談が先決。自社対応のみで進めると交渉が不利になるリスクがある。
制度と規程を「別々に育てない」仕組みを作る
今回のようなズレが生まれる最大の原因は、等級制度と賃金規程が別々のタイミング・別々の担当者によって設計・改定されてきたことです。一度整合性を取り戻しても、仕組みがなければ再びズレが生じます。
昇格審査に「賃金整合チェック」を組み込む
昇格を決定するタイミングで、新しい基本給レンジにおける固定残業代の充足確認を必ずセットにするルールを作ります。チェックシートを1枚用意し、「等級・基本給上限・計算基礎額・必要固定残業代額・現行固定残業代額・差異」の6項目を確認する運用にするだけで、問題の早期発見が可能になります。
規程の定期メンテナンスをスケジュール化する
最低でも年1回(給与改定のタイミングが望ましい)、賃金規程と等級制度の整合性を確認する機会を設けてください。確認を依頼する社労士や外部専門家に対しても、「等級制度とセットで見てほしい」と明確に伝えることが重要です。人事制度と賃金規程を別々の専門家が担当している場合は、定期的に情報を共有する場を作ることで、制度間のズレを未然に防げます。
【人事業務を1人で抱える方へ】 制度設計と規程管理を両立させるのは、専門知識がないと負担が大きいものです。定期的な外部チェックを入れることで、気づきにくいズレを事前に防ぐことができます。
まとめ
固定残業代と等級制度のズレは、昇格によって基本給が上がるたびに静かに広がっていきます。問題が顕在化するのは退職者からの請求や労基署の調査が入ったときであり、そのタイミングでは対応コストが大きく膨らみます。現状の数字を等級ごとに洗い出し、有効要件を満たす形で固定残業代テーブルを設計し直し、就業規則・賃金規程・労働契約書を同時に改定する——この流れで、多くの中小企業のズレは是正できます。不利益変更が生じる場合も、経過措置と個別合意を組み合わせることで、社員の理解を得ながら対応することが可能です。「うちの規程、大丈夫かな」と少しでも感じたなら、複雑な判断を人事だけで進めるのではなく、専門家と一緒に確認する方が結果的に安心です。ウェルセンス株式会社では、人事労務の仕組みづくりや規程整備について、中小企業の実態に合わせたサポートをご提供しています。規程の適切性について一度診てほしい、改定の進め方についてアドバイスが欲しいというご相談をお待ちしています。
よくある質問
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