「本人が復職を希望しているのに、怖い相手が同じ職場にいる。うちは異動させられる部署がない」——この状況に直面したとき、「自分たちには打てる手がない」と感じてしまう経営者・人事担当者は少なくありません。しかし、異動できないことと、配慮できないことはまったく別の話です。安全配慮義務は「結果を保証する義務」ではなく、「合理的に可能な範囲で配慮する義務」です。この記事では、異動が現実的でない小規模企業でも実践できる5つの具体的な配慮策と、法的な責任の範囲を整理します。
「特定の人が怖い」を放置すると何が起きるか
従業員から「あの人が怖い」という声が上がったとき、それを個人の感情の問題として様子を見てしまうのが最も危険な対応です。会社が何も手を打たなかった事実が、後に安全配慮義務違反の根拠となり得ます。
安全配慮義務とは何を求めているか
労働契約法第5条は、使用者が「労働者の生命・身体等の安全を確保しつつ労働できるよう必要な配慮をする義務」を負うと定めています。重要なのは、この義務が「結果義務」ではなく「配慮義務」である点です。つまり、異動が物理的に不可能な規模の会社であっても、「合理的に可能な配慮をした事実」があれば義務を果たしたと評価されます。逆に、「うちは小さいから何もできない」と判断を止めたまま放置すれば、それ自体が義務違反と判断される可能性があります。
ハラスメントが背景にある場合は別の法律も動く
「怖い」の背景に上司や同僚によるパワーハラスメントが認められる場合、労働施策総合推進法(パワハラ防止法)第30条の2に基づく事業主の措置義務が発生します。この義務は中小企業への猶予期間が2022年4月に終了しており、従業員数にかかわらずすべての事業主が対象です。「うちは小規模だから関係ない」という認識はすでに通用しません。
「何もしなかった」が最大のリスクである理由
よく誤解されるのが、「主治医が復職OKを出したのだから、後は本人の問題」という考え方です。主治医の判断はあくまで医療的な観点からのものです。職場環境の安全性を確保する責任は会社にあります。厚生労働省が公表する「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」でも、復職の可否判断において職場環境の整備を会社側の対応として明示しています。特定の人物との接触リスクも、この「職場環境」の一要素として捉えられます。
「怖い」の正体を見極めることが出発点
適切な配慮策を選ぶには、まず「怖い」の性質を正確に把握することが不可欠です。原因によって、対応の主体も内容も大きく変わります。
「怖い」には3つの類型がある
復職後に「特定の人が怖い」という訴えは、大きく次の3つに分類できます。
| 類型 | 主な原因 | 対応の主体 |
|---|---|---|
| A:相手方の問題行動が起因 | ハラスメント・暴言・威圧的な態度など | 会社が加害者への指導・就業制限等を実施 |
| B:本人の病状が起因 | メンタル疾患の症状としての対人過敏・恐怖 | 主治医・産業医が症状評価、段階的復職で対応 |
| C:AとBの混在 | ハラスメントが引き金となり症状が悪化 | 産業医・専門機関の関与が不可欠 |
この切り分けをしないまま「とりあえず復職させる」「しばらく様子を見る」という対応では、どちらの問題も解決しません。
切り分けに必要な情報の集め方
類型を判断するには、本人からのヒアリングだけでは不十分です。主治医の診断書・意見書に「対人恐怖・対人過敏の症状」が記載されているかを確認します。また、「怖い」と感じる相手との間に具体的なトラブルや言動があったかどうかを、本人だけでなく周囲の同僚にも(プライバシーに配慮しながら)確認することが重要です。産業医がいる場合は、面談を通じてこの切り分けを医学的観点から補完してもらうことができます。
産業医がいない場合の対応
常時50人未満の事業場は産業医の選任義務がありません。しかし、判断の難しいケースを経営者・兼務人事が単独で抱え込むことには限界があります。地域産業保健センター(通称:地さんぽ)では、産業医選任義務のない小規模事業場向けに、産業保健師・産業医への無料相談を提供しています。まずはこうした公的リソースを活用することも現実的な選択肢です。
異動できなくてもできる5つの配慮策
物理的な異動が難しい小規模企業でも、接触を最小化し復職者の安心を確保するための手段は複数あります。自社の状況に合わせて組み合わせて活用してください。
物理的な距離をつくる工夫
フロアが1つしかなくても、座席の配置変更やパーティションの設置によって、視線や声が直接届かない環境を整えることは多くの場合可能です。また、出退勤時間を特定の人物とずらすシフト調整も有効です。朝の出勤時間を30分後ろにずらすだけで、通勤経路・ロッカー利用・朝礼など接触頻度の高い場面を回避できるケースがあります。
業務上の指示系統を変える
「怖い」と感じている相手が直属の上司である場合、その人物を指示・評価のラインから外すことが有効です。別の担当者や経営者が直接指示を出す形にすることで、日常的な接触を大幅に減らせます。これは「部署異動」ではなく「指示系統の一時的な変更」であり、小規模企業でも実施しやすい措置です。
業務内容・担当範囲の一時的な調整
特定の会議・プロジェクト・業務フローにおいて接触が避けられない場合、復職初期の一定期間はその業務から外す調整が考えられます。「段階的復職」として、まず接触が少ない業務から始めて徐々に範囲を広げるプロセスを設計することが、厚生労働省の「職場復帰支援の手引き」の考え方とも合致しています。
対象者(怖いと言われた側)への対応
「怖い」と言われた相手への対応も必要ですが、これは慎重さが求められます。その人物がハラスメント行為者である場合は、事実確認のうえで指導・注意・場合によっては就業制限といった措置が必要です。一方、相手に特段の問題行動がなく、復職者の症状に伴う対人過敏が主因の場合は、相手に詳細な事情を開示することがプライバシー上の問題になり得ます。「職場の配慮として一時的な役割変更がある」という事実のみを伝える程度にとどめ、個人情報の扱いには細心の注意を払う必要があります。
記録を残すことが義務履行の証明になる
どのような配慮を、いつ、どのような理由で実施したかを文書として残すことは、安全配慮義務を果たした証拠になります。面談記録・シフト変更の決定経緯・指示系統変更の経緯メモなど、対応の軌跡をメールや社内文書で残す習慣をつけてください。これは「訴訟対策」のためだけでなく、対応の抜け漏れを防ぐ実務上の意味もあります。
復職判断のプロセスで会社が果たすべき役割
復職の判断は主治医・産業医・本人・会社の4者が関与します。会社の役割は「最終的な復職可否の判断者」であり、医師の意見は参考情報であって会社を拘束するものではありません。
主治医の診断書だけで復職を決めてはいけない理由
主治医は患者(=復職者本人)の治療を担う立場です。「復職可能」という診断書は、その人が医療的に就労できる状態であることを示すものですが、「その特定の職場環境で安全に働けるか」を保証するものではありません。特定の人物への恐怖が残っている状態での復職可否は、職場環境の情報を持つ会社と主治医・産業医が情報共有したうえで判断することが必要です。
産業医面談をどう活用するか
産業医がいる場合(常時50人以上の事業場では選任義務があります)、復職前の産業医面談で「職場環境の状況」と「本人の症状・恐怖の性質」を照合してもらうことが最も確実な判断ルートです。産業医は会社側の視点と医療的視点の双方から就業可否を意見できる立場であり、主治医とは異なる役割を担います。産業医の意見書をもとに、会社が復職時期や配慮内容を最終決定するという流れが、法的にも実務的にも安定した対応です。
復職を「止め続けること」のリスク
環境が整うまで復職を認めないことは、適切な安全配慮の一環として正当化される場合があります。しかし、整備の見通しや期間を明示しないまま復職を無期限に保留し続けることは、別の法的問題(不当な就労機会の剥奪)につながる可能性があります。配慮策の実施スケジュールを本人に説明し、復職に向けたロードマップを共有することが重要です。
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就業規則・産業医の有無による対応の分岐
自社の規模・体制によって、使える手段と優先すべき対応が異なります。自分の状況に当てはめて確認してください。
常時10人未満・就業規則なしの場合
就業規則の作成義務は常時10人以上の事業場に課されます(労働基準法第89条)。就業規則がない場合、復職手続きや休職期間の定めが明確でないことが多く、対応方針が担当者の裁量に委ねられがちです。この場合でも、労働契約の内容・個別の同意・面談記録によって対応の合理性を示すことは可能です。まず対応の内容と経緯を書面で残すことを優先してください。
常時10〜49人・就業規則あり・産業医なしの場合
最も多い「小規模企業の典型パターン」です。就業規則に休職・復職の規定があれば、それに沿ったプロセスを踏むことが基本です。産業医がいない場合、主治医の意見書と会社の実情を踏まえて経営者・人事が判断することになりますが、判断が難しいケースでは前述の地域産業保健センターや、メンタルヘルス復職支援の実務に精通した専門家に相談することを強く勧めます。
常時50人以上・産業医選任義務がある場合
産業医が選任されている場合は、復職前面談・就業可否意見書の取得を必ず実施してください。産業医面談を経ずに復職を進めた場合、後に問題が生じたときに「適切な手続きを踏まなかった」と判断されるリスクがあります。また、産業医と主治医の意見が異なる場合は、産業医の意見を優先して会社が最終判断を行うことが一般的な実務上の整理です。
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まとめ
復職後に「特定の人が怖い」という訴えがあっても、異動できないことを理由に対応を止める必要はありません。まず「怖い」の性質(ハラスメントが原因か、本人の症状が原因か)を見極め、その上で出退勤時間の調整・座席変更・指示系統の変更・段階的な業務割り当て・対象者への適切な対応という5つの配慮策を組み合わせることが現実的な打ち手です。安全配慮義務は「異動させる義務」ではなく「合理的に配慮する義務」であることを理解した上で、対応の記録を残しながら手順を踏んでいくことが、会社を守り、復職者を守ることにつながります。
「自分のケースでは何から手をつければいいか」「産業医がいない状態でどこまで対応すればいいか」——そうした個別の判断に迷ったとき、ウェルセンス株式会社はメンタルヘルス対応・休職復職支援の専門家として、小規模企業の実情に合わせた相談に応じています。対応の進め方に不安がある場合は、まずは現状をお聞かせください。
よくある質問
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