「この人は絶対に採りたい。でも、提示できる給与の上限を超えている——」。採用活動をしていると、そんな局面が必ず一度は訪れます。制度を整備したばかりの会社ほど、最初のケースでこの壁にぶつかり、「ルールを破っていいのか」「既存社員にバレたらどうなるか」と判断を迷わせます。この記事では、給与レンジの例外オファーを制度的・法的に整理し、現場で使える対処法を解説します。
給与レンジの上限を超えるオファーは「制度的に」できるのか
結論から言えば、給与レンジの上限を超えるオファーは、賃金規程が上限を絶対禁止していない限り、個別合意として法的に有効です。ただし「やり方」によって、後々のリスクが大きく変わります。
就業規則・賃金規程の「最低基準効」とは
労働契約法第12条は、就業規則の基準を下回る労働契約を無効とし、就業規則の内容を自動的に適用する「最低基準効」を定めています。裏を返せば、就業規則・賃金規程を上回る条件で個別合意をすることは、法律上は妨げられていません。
重要なのは、自社の賃金規程の文言です。「各等級の給与は下表のレンジ内とする」と書かれている場合でも、それが「最低保証」の意味で書かれているのか、「絶対上限」として書かれているのかによって解釈が変わります。規程の文言が曖昧な場合は、社労士に確認することを強くお勧めします。
個別合意書で対応できるケースとできないケース
賃金規程を改訂せずに対処する最小限の方法が、労働契約書・個別合意書への明示です。「採用時の特別条件として、基本給○○円とする」と書面に残すことで、個別合意の記録を残せます。
ただし、この方法は属人的な運用になりやすく、「なぜあの人だけ?」という前例問題が起きやすい欠点があります。一回限りの対応としては機能しますが、継続的に使う手段としては設計が甘いと言えます。
賃金規程の変更が必要になるケース
例外オファーを「制度として恒久化」したい場合は、賃金規程を改訂する必要があります。労働基準法第89条・第90条に基づき、就業規則・賃金規程を変更する際は、労働者代表の意見聴取と労働基準監督署への届出が義務づけられています。手続きが必要になりますが、ルールを文書化しておくことで、次のケースでも一貫した判断ができるようになります。
例外オファーの対処法:4つのアプローチと選び方
例外オファーへの対処法は大きく4つあります。自社の規程の整備状況・採用の緊急度・今後の採用頻度によって、最適なアプローチは異なります。
4つのアプローチを比較する
| アプローチ | 規程改訂 | メリット | デメリット |
|---|---|---|---|
| 個別合意書で対応 | 不要 | 即対応できる | 前例管理が難しい |
| 採用時特別手当・市場対応給の新設 | 必要 | 基本給レンジを崩さずに済む | 手当廃止時に不利益変更問題が生じる |
| 上位グレードへの特別格付け | 条件付き不要 | 制度の整合性が保たれる | 評価・昇格基準との説明が必要 |
| 特例採用レンジとして規程に明文化 | 必要 | 恣意的運用を防げる・再現性がある | 手続きに時間がかかる |
今すぐ採用を決めなければならないときの現実解
採用の意思決定が急ぐ場合は、まず個別合意書での対応をとりながら、並行して賃金規程の改訂作業を進めるのが現実的です。「今回は個別対応・次回からは制度として運用」と段階を分けることで、採用機会を逃さずに、将来の整合性も担保できます。
「採用時特別手当」を使う場合の注意点
基本給のレンジ内に基本給を抑えつつ、「市場対応手当」「採用調整手当」などの名目で追加支給する方法はよく使われます。基本給のレンジ体系を崩さずに済む点は魅力ですが、この手当を後から廃止・減額しようとすると不利益変更となり、本人の同意なしには変更できません。「入社時だけの一時的な調整」のつもりが、永続的なコスト増になることがあるため、設計時に廃止条件を明示しておくことが重要です。
既存社員への影響と「賃金逆転」をどう扱うか
例外オファーで最も多くの経営者が恐れるのが、新入社員の給与が既存社員を上回る「賃金逆転現象」です。これは隠し通せるものではなく、起きることを前提に、あらかじめ説明方針を準備しておくことが重要です。
給与情報を「秘密にすれば問題ない」は通用しない
会社は従業員個人の給与情報を他の社員に開示する義務はなく、個人情報保護法上も慎重に扱うべき情報です。しかし、社員同士が自主的に給与情報を共有することを会社が禁止することは、実態上・法的解釈上も困難です。就業規則に「給与情報の口外を禁ずる」と明記しても、その有効性には限界があります。
つまり、「バレなければいい」という前提で運用を設計することは非常にリスクが高い。給与逆転が生じる可能性を織り込んで、既存社員への説明方針を準備しておくことが現実的な対処です。
既存社員にどこまで説明するか
新入社員の個別の給与額を開示する必要はありません。ただし、「採用市場の実態に応じて、採用時の給与を柔軟に設定する場合がある」という方針レベルの説明はしておくべきです。説明の要点は以下の3点です。
- 採用市場の競争環境により、入社時の給与設定に幅を持たせていること
- 既存社員の評価・昇給の仕組みは変わらないこと
- 長期勤続・貢献に対して報いる制度を継続・拡充していく方針であること
既存社員の不満の多くは「自分が不当に扱われている」という感覚から来ます。給与額そのものより、「自分の評価や将来がどうなるか」への不安に応える説明が効果的です。
賃金逆転を防ぐための処遇見直しも検討する
根本的な対処として、例外オファーをきっかけに既存社員の給与水準のレビューを行うことも検討に値します。長年の勤続でも給与が市場水準を下回っているケースは多く、採用強化の局面でこそ「既存社員への処遇改善」を合わせて進めることが、組織全体の安定につながります。
判断に迷う場面では、一人で抱え込まず相談を活用しましょう。給与レンジの例外判定は、自社の規程解釈次第で対応が変わるため、確実な実行には専門家の目が欠かせません。
採用例外枠を「再現性のある制度」として設計する
属人的な例外処理を繰り返さないために、採用例外枠を制度として明文化することが中長期的には最も安全な方法です。制度化の核心は「承認フロー」と「適用条件の明示」の2点です。
制度化に必要な3つの要素
採用例外枠を規程に落とし込む場合、最低限以下の3点を明文化します。
- 適用条件:どのような人材・ポジションに例外を認めるか(例:特定スキル保有者、マネージャー以上の採用など)
- 上限値:等級上限の何パーセントまで超えられるか(例:「当該等級上限の20%以内まで」など)
- 承認フロー:誰が承認するか(例:代表取締役または取締役会の承認を要する、稟議書を作成して保存するなど)
入社後の等級・昇給との連動設計
見落とされがちな問題が、入社後の評価・昇給との整合性です。例外給与で入社した社員が、翌年の人事評価でどの等級に位置づけられ、昇給基準はどう適用されるのかを事前に設計しておかなければ、1年後に新たな混乱が生じます。
基本的な考え方は、「採用時の特別措置を入社後の等級格付けに反映させ、以降の昇給は通常の評価制度に乗せる」ことです。例えば、採用時に上位グレードで格付けした場合は、そのグレードの期待役割を明確にし、次の評価サイクルで正式に査定する仕組みを用意します。「例外で入社したから評価が特別扱い」という状態を長引かせないことが重要です。
従業員規模別の現実的な対応方針
自社の規模や人事体制に応じて、対応の深度を調整することも大切です。社労士や外部専門家のサポートが得られる環境かどうかも判断基準になります。
- 20名以下・人事担当者が兼務:まず個別合意書での対応を優先し、採用が一段落したタイミングで社労士に規程整備を相談する
- 20〜50名・専任人事なし:採用例外枠の骨格を作り、稟議書フォーマットだけでも準備しておく。規程改訂は次の定期見直しタイミングに組み込む
- 50名以上・人事機能が整備されつつある:特例採用レンジを賃金規程に明文化し、承認フローを含めて制度として完成させる
人事の課題は会社の成長段階ごとに変わります。「今うちの場合は、どの対応が最適か」といった具体的な判断は、外部の専門家に相談することで、より確実で柔軟な対応が可能になります。
まとめ
給与レンジを超えた採用オファーは、賃金規程が上限を絶対禁止していない限り、個別合意として法的に有効です。ただし、属人的な対応を積み重ねると「前例のなし崩し」と「既存社員の不満」という二重のリスクを抱えます。対処の基本は、まず個別合意書で当面の採用を確保しながら、採用例外枠を制度として明文化することです。既存社員への影響は「給与額の秘密保持」ではなく「評価・昇給方針の透明性」で対処することが有効です。また、例外給与で入社した社員の入社後の等級・昇給設計まで含めて設計することが、長期的な制度の安定につながります。
「自社の賃金規程でこの対応は可能か」「既存社員への説明をどう組み立てるか」など、判断に迷う場面は多いはずです。ウェルセンス株式会社では、専任人事がいない中小企業の人事・労務の実務課題に並走しています。一人で抱え込まず、まずは現状をお聞かせください。
よくある質問
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