「毎月、給与日の前日は銀行へ走り、金種を揃えて封入——これを何年も続けている」という経営者や総務担当の方は少なくありません。現金手渡しは違法ではありませんが、手間・紛失リスク・担当者の負担など、見えにくいコストが積み重なっています。会社の成長に合わせて人数が増えると、この負担は急速に顕在化します。この記事では、法令上の要件を押さえながら、現金払いを口座振込へ移行するための実務手順を4つのステップで整理します。
現金手渡しを続けることの実務リスク
現金手渡しは労働基準法上、違法ではありません。しかし実務面では複数のリスクが存在し、企業規模が大きくなるほど負担が顕在化します。
経理・総務への現物管理コスト
給与日に向けて銀行で現金を引き出し、紙幣・硬貨の金種(きんしゅ:紙幣・硬貨の種類と枚数の組み合わせ)を揃え、社員ごとに封入する作業は、慣れていても相応の時間がかかります。封入ミスや釣り銭ミスが起きると、後からの確認・訂正に追加の工数が生まれます。従業員が20名を超えると、この作業が月1〜2日分の担当者稼働を食うケースもあります。
現金紛失・盗難リスク
現金を社内で保管・搬送する間は、紛失や盗難のリスクがゼロではありません。受渡し時に「もらっていない」「金額が違う」という社員とのトラブルが起きた場合、書面がなければ会社側の立証が困難になります。口座振込であれば振込明細が証跡として残るため、トラブル対応が格段に楽になります。
キャッシュレス化・働き方変化への対応遅れ
リモートワークの導入や、複数拠点への展開を検討する段階になると、現金手渡しは構造的に対応できなくなります。「担当者が会社に来なければ給与が受け取れない」という仕組みは、採用競争力にも影響します。今のうちに口座振込の仕組みを整えておくことが、中長期の組織拡大に備えることにもつながります。
口座振込には法的な要件がある
賃金を口座振込で支払うことは「労働者の同意」があれば認められていますが、単に同意を得るだけでは足りません。労働基準法施行規則第7条の2に基づき、法令で定められた手続きを正確に踏む必要があります。
労使協定の締結が必須
賃金は「通貨で直接支払う」ことが労働基準法第24条の原則です。口座振込はこの原則の例外として認められており、例外を使うためには会社と「労働者の過半数を代表する者」または「過半数で組織する労働組合」との間で、書面による労使協定を締結する必要があります。
重要なのは、この協定は労働基準監督署への届出が不要という点です(時間外労働に関する36協定とは異なります)。ただし、労働者代表の選出が適切でなければ協定自体が無効になりますので、管理監督者(役員・部長クラス)を代表に選ばないよう注意してください。
労働者個人の書面同意が必要
労使協定の締結に加え、個々の社員から書面(または電磁的方法)で「口座振込に同意する」旨の同意書を取得しなければなりません。就業規則に「賃金は口座振込とする」と定めるだけでは法的要件を満たしません。就業規則の規定+労使協定+個人同意書、この3点セットが必要です。
就業規則・賃金規程の改定も必要
現在の就業規則や賃金規程に「賃金は現金で支払う」と明記されている場合、または何も定めていない場合は、口座振込を認める規定への変更が必要です。常時10名以上の労働者を雇用する事業場は、就業規則の変更・労働基準監督署への届出義務(労働基準法第89条・第90条)があります。10名未満の事業場に届出義務はありませんが、内部規定を整備しておくことを強くお勧めします。
切り替えに必要な4つの実務ステップ
法令要件を踏まえた移行手順は、大きく4つの段階で進めます。順番を守ることが、後のトラブル防止につながります。
就業規則・賃金規程の改定
まず最初に、就業規則・賃金規程を「口座振込での支払いを行う」旨に改定します。変更内容を社員に周知したうえで、10名以上の事業場は労働基準監督署へ届出を行います。この段階では、振込手数料の負担ルール(後述)も明記しておくと後の混乱を防げます。
労使協定の締結
次に、適切な手続きで選出された労働者代表との間で、賃金の口座振込に関する労使協定を書面で締結します。協定書には「振込先は労働者が指定する金融機関の口座とする」「給与支払日に引き出せる状態にする」などの内容を盛り込みます。厚生労働省から標準様式が公開されていますが、自社で作成した書式でも要件を満たせば有効です。
個人同意書の取得と口座情報の収集
社員一人ひとりから、口座振込への同意書と振込先口座情報(金融機関名・支店名・口座種別・口座番号・名義)を書面で取得します。同意は任意であり、同意しない社員には引き続き現金払いをする義務があります(詳細は次セクションで説明します)。電子的に収集する場合は、取得記録が残る方法を選んでください。
給与システムへの登録と試行運用
最後に、収集した口座情報を給与システムや会計ソフトに登録します。初回の振込前に少額の試験振込を行い、口座情報の誤りがないか確認するとトラブルを防げます。切り替え初月は、振込完了後に給与明細の配布と合わせて「振込が完了しているか確認してください」と社員に周知する運用を行うと安心です。
| ステップ | 作業内容 | 注意点 |
|---|---|---|
| 就業規則・賃金規程の改定 | 口座振込規定の追加・届出 | 10名以上は監督署への届出が必要 |
| 労使協定の締結 | 労働者代表との書面協定 | 管理監督者は代表になれない/届出不要 |
| 個人同意書・口座情報の取得 | 全社員から書面で収集 | 同意は強制不可・拒否者は現金払い継続 |
| システム登録・試行運用 | 口座登録・試験振込・周知 | 初回は振込確認の周知を行う |
同意しない社員・口座を持たない社員への対応
全員が同意するとは限りません。同意を拒否した社員、または銀行口座を持っていない社員には、引き続き現金払いを行う義務があります。
同意は任意——強制はできない
口座振込への切り替えは「労働者の同意」が法的要件であるため、同意しない社員に対して強制することはできません。「就業規則を改定したから全員振込」「同意しない社員は不利益扱い」とすると、労働基準法違反になりえます。少数でも現金払いを続ける運用が発生することを前提に、経理フローを設計してください。
口座を持っていない社員への対応
外国籍の社員やパート・アルバイトの中には、銀行口座を保有していない方もいます。この場合も現金払いを継続するか、口座開設のサポートを任意で提案するかを会社として検討します。外国籍労働者の口座開設には、在留カードや就労資格証明書の提示が求められる金融機関が多く、会社側が銀行への説明をサポートすることで開設につながるケースもあります。ただし強制はできません。
振込手数料の負担ルールを明確にする
振込手数料について法令上の明確な定めはありませんが、実務上は「会社負担」とするケースが大半です。社員の手取りから手数料を差し引くと「全額払いの原則」違反となる可能性があるため、手数料は会社が負担し、その旨を賃金規程に明記することを推奨します。
2023年以降のデジタル払いについても知っておく
2023年4月から、賃金をPayPayなどの資金移動業者の口座に振り込む「デジタル払い」が解禁されました。中小企業での活用はまだ限定的ですが、将来の選択肢として概要を把握しておくと有益です。
デジタル払いの基本的な仕組み
デジタル払いは、厚生労働大臣が指定した資金移動業者の口座(電子マネーウォレット等)への賃金支払いを認める制度です。銀行口座とは別の選択肢として社員が希望する場合に利用できます。口座振込と同様、労使協定と個人同意が必要です。
中小企業が導入を検討する際の注意点
デジタル払いには、1口座あたりの保有上限額(100万円以下)の設定や、指定業者による破綻時保証制度の整備など、銀行振込にはない要件があります。現時点で指定を受けている業者は限られており、導入コストや社員への説明負担も考慮が必要です。まずは銀行口座振込への移行を完了させてから、デジタル払いの検討に進むのが現実的なステップです。
まとめ
給与の現金手渡しから口座振込への切り替えには、就業規則・賃金規程の改定、労使協定の締結、個人同意書の取得、システム登録という4つの段階が必要です。「社員に口座番号を聞けばいい」という理解のまま進めると、法的要件を満たせずトラブルの原因になります。また、同意しない社員や口座を持たない社員への対応ルールを事前に決めておくことが、移行をスムーズに進める鍵です。
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