「とりあえず◯◯さんに、営業と経理を両方見てもらおう」——口頭のひと言から始まった兼務が、気づけば指示系統の混乱を生み、従業員のメンタル不調にまでつながっていた。中小企業の現場では、こうしたケースが珍しくありません。
兼務辞令を出すこと自体は問題ありません。問題は、誰がその従業員に指示を出してよいのかが明確になっていない点です。指揮命令系統の曖昧さは、板挟みによるストレス、残業代の計算ミス、そしてハラスメント問題の温床にまで発展します。
この記事では、兼務辞令で指揮命令系統を正しく整理する方法を、法的な要件・実務的な落とし穴・ハラスメントリスクの観点から、専任人事のいない経営者・兼務担当者にわかりやすく解説します。
兼務で起きる「指示の競合」という問題
複数の上司から矛盾した指示が届く状態が続くと、従業員は「どちらを断れば評価が下がるか」を常に計算しながら働くことになります。これは単なる業務上の不便ではなく、慢性的な心理的負荷としてメンタル不調の一因になります。
なぜ「板挟み」が生まれるのか
A部門とB部門から同時に業務を命じられた従業員が、どちらの優先順位が高いかを自分で判断しなければならない状況を想像してください。「A部門長の締め切りを優先したらB部門長に叱られた」という状況が繰り返されると、従業員は常に緊張状態に置かれます。この構造は、辞令に指揮命令権者が明示されていないことから生まれます。
管理職側が抱える「どこまで指示できるか」の迷い
問題は従業員側だけではありません。副担当の部門長も「自分はこの人に残業を命じてよいのか」「有給休暇の承認は自分がするのか、主管部門長がするのか」を把握できていないケースが多くあります。結果として、労働時間管理・休暇承認が二重になり、処理が破綻することがあります。
口頭の「とりあえず兼務」が生み出す空白地帯
辞令を文書で発行していたとしても、主管部門と副担当部門の区別が書かれていなければ「誰も最終責任を持たない空白地帯」が生まれます。ハラスメント相談が来たときに責任の所在が特定できず、調査が機能しないという事態が実際に起きています。
兼務辞令の法的な要件と就業規則の整備
兼務命令は、就業規則に根拠規定がなければ一方的に命じることができない場合があります。まず法的な土台を確認しましょう。
兼務命令に必要な就業規則の根拠
職務内容・勤務場所・指揮命令関係の変更は、労働契約法第8条(合意原則)の観点から、使用者が一方的に命じるには就業規則上の根拠規定が必要です。具体的には「会社は業務上の必要がある場合、従業員に兼務を命じることができる」といった条文が就業規則に存在しているかを確認してください。この規定がない場合、従業員の個別同意を得ることが必要になる可能性があります。
また、就業規則に兼務命令規定を追加する際には、指揮命令の優先順位規定もあわせて設けることが重要です。「副担当部門からの業務指示は主管部門長の承認を得た上で行う」などの一文があるだけで、現場の混乱を大幅に減らせます。
指揮命令権は一元化が原則
労働基準法は「使用者」が労働者を指揮監督することを前提としており、複数の指揮命令者が並立することは法令上想定されていません。実務上の整理としては、主管部門の部門長を主たる指揮命令権者とし、副担当部門からの指示は主管部門長の同意のもとで行うという構造が一般的です。
就業規則がない・古い場合の対応
常時10人以上の従業員を使用する事業場では就業規則の作成と届出が義務です(労働基準法第89条)。10人未満であっても就業規則があることが望ましく、兼務命令規定がなければこの機会に追加を検討してください。社会保険労務士への相談や、厚生労働省のモデル就業規則を参考に条文を整備することができます。
兼務辞令に明記すべき6つの項目
兼務辞令を正しく機能させるには、辞令に記載すべき情報を漏れなく盛り込むことが必要です。以下の6項目がそろって初めて、指揮命令系統が明確になります。
| 記載項目 | 記載例・ポイント |
|---|---|
| 主管部門・副担当部門の区別 | 「主管:営業部/兼務:経理部」と明示する |
| 主たる指揮命令権者 | 「指揮命令権者:営業部長 ◯◯」と氏名・役職を明記 |
| 副担当部門からの業務指示のルール | 「経理部からの業務指示は営業部長への事前連絡を要する」 |
| 労働時間・残業命令の承認権者 | 「時間外労働の命令・承認は営業部長が行う」 |
| 有給休暇の承認権者 | 「年次有給休暇の承認は営業部長が行う」 |
| 人事評価の担当者 | 「評価は主管(営業部長)70%・副担当(経理部長)30%で実施」 |
これらを辞令の別紙や覚書として添付することで、後日「知らなかった」「聞いていない」というトラブルを防ぐことができます。従業員本人に内容を説明し、確認のサインをもらっておくことも重要です。
指揮命令の曖昧さがハラスメントリスクを高めるメカニズム
厚生労働省のパワーハラスメントの定義(労働施策総合推進法第30条の2)では、「優越的な関係を背景にした」行為がパワハラの要件の一つとされています。指揮命令権が不明確な状態は、この「優越的な関係」を不透明にし、ハラスメントの認定と対応を著しく困難にします。
「誰の指示か」が曖昧だと責任の所在が消える
指揮命令権者が明確でないと、ハラスメント被害の申告を受けた際に「◯◯部長に言われたから」「△△課長の指示で」という言い訳が連鎖し、最終的な責任者が特定できなくなります。被害者からすると「誰に訴えても動いてもらえない」という状況が生まれやすく、泣き寝入りにつながる構造です。
複数の上司が存在すること自体が心理的負荷になる
「どちらの上司にも逆らえない」という状態は、ハラスメント行為がなくても従業員に慢性的なストレスをかけます。これは「職場における心理的負荷評価表」(厚生労働省)でも、業務上の強度ある心理的負荷として評価される可能性があります。指揮命令系統の整理は、ハラスメント対策と同時にメンタルヘルス対策でもあります。
自社のハラスメント窓口が機能するための前提条件
相談窓口があっても、「誰が加害者か」「その人物に指示権限があったか」が不明では調査が進みません。ハラスメント調査は指揮命令系統の記録(辞令・就業規則・業務指示の記録)をベースに行われます。指揮命令を文書で整理しておくことが、調査の実効性を高める前提条件になります。
見落とされがちな残業代・労働時間管理の落とし穴
兼務の場合、残業代や労働時間の管理がどちらの部門の責任かが不明確になりがちです。しかしこの問題は、法的リスクとして経営者に直接跳ね返ってきます。
「合算」で考えなければならない法定労働時間
「A部門で週20時間、B部門で週20時間、合計40時間だから残業なし」という処理は正しい考え方です。ただし問題は、この合算管理がどちらの部門でも行われていないケースです。A部門長は「自分の部門での稼働は20時間」とだけ把握し、B部門の稼働を把握していない——この状態では、実態として法定労働時間(週40時間、労働基準法第32条)を超えていても誰も気づきません。割増賃金(同法第37条)の支払い漏れは、未払い残業代として後に請求されるリスクがあります。
労働時間管理は「主管部門長が一元管理」が実務上の正解
実務的な解決策として、兼務の従業員の労働時間は主管部門長が一元的に把握・管理し、副担当部門での稼働時間も主管部門長に報告される仕組みを作ることが重要です。タイムカード・勤怠管理システムの設定も、部門を横断して1人の従業員として一元管理できるように設定してください。
自社の状況で確認すべきポイント
- 現在、兼務の従業員の労働時間を一元管理している担当者が明確か
- 勤怠管理ツール・システムが部門別に分かれており、合算が漏れる設定になっていないか
- 副担当部門での残業命令に、主管部門長の承認が入る仕組みがあるか
従業員数が20名前後であれば、表計算ソフトによる手動管理でも対応できますが、兼務者が複数いる場合はクラウド型勤怠管理ツールの導入を検討する価値があります。
兼務辞令の内容が現状に合致しているか、法的リスクがないか判断が難しい場合は、専門家への相談も検討の価値があります。
まとめ
兼務辞令は「出すこと」が目的ではなく、「指揮命令系統を明確にすること」が目的です。辞令に主管部門・指揮命令権者・承認権者・評価担当を明記し、就業規則に兼務命令規定と指揮命令の優先順位規定を整備する。この二つがそろって初めて、兼務は安全に機能します。指揮命令の曖昧さはメンタル不調・ハラスメント・残業代未払いという三つのリスクを同時に高めるため、放置は禁物です。
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よくある質問
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