「今年は昇給なしで、と面談で伝えました。でも書面は特に…」——後日、その従業員から「そんな説明は受けていない」と言われたら、あなたはどう対応しますか?
昇給見送りの通知を口頭だけで済ませている中小企業は少なくありません。忙しさ、気まずさ、そして「書面にするとかえってまずいのでは」という漠然とした不安が重なり、結果として「伝えたつもり」で終わってしまうのです。しかし、書面がない状態でトラブルになったとき、会社側が圧倒的に不利になります。この記事では、昇給見送りの通知を書面化する理由から、実際の文例・様式のポイント、保管ルールまで、専任人事がいない企業でも今日から実践できる内容で解説します。
口頭通知だけでは会社が守れない理由
昇給見送りを口頭のみで伝えた場合、「言った・言わない」の水掛け論が生じたとき、会社側には立証手段がありません。書面化はリスク管理の基本です。
「聞いていない」は会社の想像より多く起きる
評価面談の場で口頭だけで昇給見送りを伝えた場合、従業員が後日「そういう意味だとは受け取らなかった」「昇給なしとは聞いていない」と主張するケースがあります。本人が意図的に嘘をついている場合もありますが、多くは認知のずれです。ショックを受けた状態では話の内容が頭に入っていないこともありますし、曖昧な表現が双方で違う意味に解釈されることもあります。書面がなければ、会社側は「伝えた」と言うしかなく、証拠として示せるものがありません。
外部紛争になったときに書面がないと致命的
不満を持った従業員が労働基準監督署に申告したり、個人加盟できる労働組合(いわゆるユニオン)に相談したり、労働審判を申し立てたりするケースは、中小企業でも珍しくなくなっています。こうした外部紛争では、会社側が処遇決定の根拠と手続きを説明する責任を負います。評価の根拠・通知の事実・本人への説明内容を書面で示せなければ、「不当な扱いをした」という印象を払拭するのが難しくなります。
労働契約法・労働基準法が求める透明性
労働契約法第3条・第4条は、使用者が労働者に対して労働条件・待遇の内容を説明する努力義務を定めています。また、労働基準法第89条は、常時10人以上の労働者を使用する企業に対して、賃金の決定・計算・支払の方法を就業規則に必須記載事項として義務付けています。昇給の有無や要件がどう定められているかを確認し、その規定に沿った手続きを記録として残すことが、法令の趣旨に沿った運用です。
「書面にすると言質を取られる」は逆効果な誤解
「書面に残すとその内容が証拠になって不利になる」と考える経営者は多いですが、実際は逆です。書面がない状態の方が、会社にとってリスクが高くなります。
口頭の方が「自由に解釈される」
書面がない場合、従業員は面談での会話を自分に都合よく解釈・記憶することができます。一方、会社側は「言った内容」を客観的に証明する手段がありません。書面であれば、「この内容を説明した」という事実が固定されます。書きすぎることへの不安がある場合は、記載する情報を必要最小限に絞れば済む話であり、「書かない」という選択は問題の先送りにしかなりません。
書面は会社と従業員の双方を守る
昇給見送りの通知書は、会社を守るためだけのものではありません。従業員にとっても、「なぜ今年は見送りなのか」「どうすれば来年は昇給につながるのか」を確認できる材料になります。説明が明文化されることで、従業員が「感情的な判断だ」「えこひいきだ」と感じるリスクも下がります。書面化は信頼関係の構築にも貢献します。
就業規則の昇給条項を必ず確認する
昇給見送りが法的に問題になるかどうかは、就業規則の記載内容によって大きく変わります。まず自社の規定を確認することが、すべての起点です。
「毎年昇給する」と書いてある場合は要注意
就業規則に「毎年4月に昇給を行う」「勤続年数に応じて昇給する」といった確約的な表現がある場合、業績や評価を理由に昇給を見送ることが賃金請求権の問題に発展するリスクがあります。こうした規定がある場合は、昇給見送りの根拠と手続きを特に丁寧に記録しておく必要があります。
裁量的表現になっているかを確認する
「業績・評価に基づき昇給することがある」「会社の業績および個人の評価を勘案して昇給を決定する」といった裁量的表現であれば、見送りの理由が評価基準に照らして合理的であれば問題になりにくい構造です。自社の就業規則がどちらの表現になっているかを確認し、確約的表現になっている場合は専門家に相談しながら見直しを検討してください。
パートタイム・有期雇用労働者への対応
パートタイム・有期雇用労働法(いわゆるパート有期法)により、2021年4月からは中小企業も、パートタイマーや有期雇用労働者に対して正社員との不合理な待遇差を禁止され、評価・昇給基準の説明義務が強化されています。正社員と異なる基準で昇給を見送る場合は、その理由を説明できるよう準備しておく必要があります。
昇給見送り通知書に盛り込むべき内容
通知書には、評価対象期間・評価結果・処遇決定の内容・見送りの理由・受領確認の5要素を最低限含めることが必要です。書きすぎず、かつ根拠が伝わる構成が基本です。
通知書の必須要素と記載のコツ
| 記載項目 | 記載のポイント |
|---|---|
| 評価対象期間 | 「○年○月〜○年○月」と明示する |
| 評価結果の概要 | 評価ランク・水準など(「B評価」など社内基準に基づく表記) |
| 処遇決定の内容 | 「今回の昇給額は0円(現行給与を据え置き)」と明確に記載 |
| 見送りの主な理由 | 評価基準に照らした簡潔な記述(「目標達成率が基準値を下回ったため」等) |
| 今後への期待・改善点 | 任意だが、紛争抑止と動機づけに有効 |
| 本人の受領確認欄 | 署名・捺印欄を設け、受け取った事実を記録する |
面談と書面のセット運用が基本
書面を郵便箱に入れるだけ、メールで送るだけという方法は避けてください。評価面談の場で口頭で説明し、その場または面談後速やかに書面を交付して受領確認をもらうという流れが標準的な運用です。「面談で口頭説明 → 書面を交付して受領確認」のセットにすることで、説明義務と記録の両方を同時に満たすことができます。
昇給見送りの通知書作成に不安がある、あるいは就業規則の整備と並行して対応したい場合は、人事の専門家に相談することで、トラブルリスクを事前に回避できます。
本人が署名を拒否した場合の対処法
「内容に納得していないので署名しない」という従業員も一定数います。この場合、署名欄に「受領のみ確認」と明示し、交付日・交付者・立会者の氏名を記録として残す運用が現実的です。署名がないからといって通知書の効力がゼロになるわけではなく、「交付した事実」を複数の記録で証明できる状態にしておくことが重要です。
評価記録の保管ルールを整備する
通知書を作成しても、後から見つからなければ意味がありません。保管場所・期間・担当者を社内で明文化しておくことが、実務の仕上げです。
保管期間の目安は5年間
労働基準法第109条は、労働者名簿・賃金台帳・雇入れ・解雇・賃金その他労働関係に関する重要な書類について5年間の保存義務を定めています(2023年4月以降、当面は3年間の経過措置あり)。評価関連書類がこの「労働関係に関する重要な書類」に該当すると解釈される余地があることを踏まえ、評価通知書・面談記録についても5年間を保管期間の目安とすることを推奨します。
保管場所と管理担当者を決める
専任人事がいない企業では、書類の保管先が担当者ごとにバラバラになりがちです。紙の場合は施錠できるキャビネットに個人別ファイルで保管する、電子の場合はアクセス制限をかけたフォルダに統一する、といったルールを会社として決めておきましょう。管理担当者(経営者・総務兼任担当者など)も明確にしておくことで、担当者が変わっても継続的な管理が可能になります。
評価基準自体の明文化も同時に進める
通知書が「評価基準に基づく」と記載していても、評価基準自体が社内で明文化されていなければ根拠として弱くなります。昇給を判断する基準(目標達成率・行動評価・職務遂行能力など)を社内文書として整理し、従業員が事前に確認できる状態にしておくことが、後々のトラブル防止に最も効果的です。評価基準の整備は一度に完璧にしようとせず、まず現在使っている基準を文書に落とし込むところから始めることをお勧めします。
まとめ
昇給見送りの通知を口頭だけで済ませることは、会社にとって大きなリスクです。書面化には「言質を取られる」という誤解がありますが、実際には書面がない状態の方が、トラブル発生時に会社側が圧倒的に不利になります。就業規則の昇給条項を確認し、評価対象期間・評価結果・見送り理由・受領確認を含む通知書を面談とセットで運用する。そして、その書類を5年間保管できる体制を整える。これが、専任人事がいない中小企業でも実践できる最低限の備えです。
人事対応は「一人で判断する」ほど後々の紛争リスクが高まります。就業規則の整備、評価基準の明文化、通知書の運用ルール——これらを専門家と一緒に構築することで、経営者・人事担当者の負担も大きく軽減されます。ウェルセンス株式会社では、中小企業の人事制度整備から個別の対応相談まで、実務的なサポートを行っています。お気軽にご相談ください。
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