「昨日、残業しました」——月曜の朝にそう申告してくる社員に、あなたはどう対応していますか?事後に報告されても業務の必要性を確認しようがなく、かといって「払わない」とも言えず、結果として残業代を承認するしかない。こうした後付け申請が常態化している場合、時間外労働の事前申請制を就業規則に整備することで、業務管理と36協定の遵守を両立させることができます。この記事では、事前申請制を実効性のあるものとして就業規則に落とし込む具体的な手順と、運用で躓かないためのポイントを実務目線で解説します。
「後付け残業申請」を法的に止められるか?
結論から言えば、就業規則に事前申請制を明記するだけでは、後付け申請を法的にゼロにすることはできません。ただし、適切な制度設計と運用の組み合わせによって、リスクを大きく減らすことは可能です。
事前申請制は「賃金カットの免罪符」にならない
最も重要な前提として押さえておきたいのが、事前申請がなくても残業代の支払い義務が生じるケースがある、という点です。労働基準法第37条に基づく割増賃金の支払い義務は、「申請の有無」ではなく「使用者が労働を認識できたかどうか」で判断されます。
1999年の三菱重工長崎造船所事件(最高裁判所1999年3月11日判決)においても、使用者が「黙示の指示」をしていたり、労働の事実を「認識しながら放置」していた場合には、労働時間として認定されることが示されています。管理職がオフィスにいながら部下の残業を見ていた、業務上の指示をメッセージで送っていた——こうした状況は、事前申請なしでも残業代支払い義務が発生するリスクがあります。
事前申請制が「有効に機能する」条件
事前申請制が法的な根拠として機能するためには、次の三つの条件が揃っている必要があります。まず、就業規則への明記によって会社の意思が明確に示されていること。次に、管理職が未申請の時間外労働を「認識した場合に即座に中止を指示できる体制」が整っていること。そして、PCログや入退室記録など客観的な労働時間の記録と申請記録を突き合わせる仕組みがあることです。
逆に言えば、就業規則に条文を追加しただけで「あとは社員任せ」という状態では、後付け残業申請のリスクはほとんど変わりません。制度・フロー・管理ツールを三位一体で整備することが実効性の鍵です。
就業規則に何をどう書くか
事前申請制を就業規則に整備するうえでのポイントは、「申請→承認→実施→記録」という一連のフローを条文として明記し、ルール違反の懲戒根拠まで盛り込むことです。
既存条文との違いを確認する
多くの中小企業の就業規則には「時間外労働は会社の命令または許可による」という一文があります。しかしこの表現だけでは、申請方法・承認者・記録の保存方法が明確でないため、実務上のトラブルを防ぐ機能を果たしません。事前申請制を実効的なものにするには、以下の要素を条文または付属の運用規程として書き加える必要があります。
- 時間外労働を行う前に申請書を提出すること
- 直属の管理職(または指定の承認者)の事前承認を得ること
- 承認を得ずに行った時間外労働は業務命令違反となること
- 違反行為が繰り返された場合は就業規則の懲戒規定を適用すること
- 申請・承認記録は所定の方法で保存すること
条文のイメージ
以下は実務でよく使われる条文の構成例です。そのまま使えるわけではありませんが、自社の規則に落とし込む際の参考にしてください。
| 条文項目 | 記載内容のポイント |
|---|---|
| 事前申請の義務 | 「時間外・休日労働を行う場合は、原則として当日の業務開始前までに所定の申請書を提出し、直属の上長の承認を得なければならない」 |
| 緊急時の例外規定 | 「緊急やむを得ない事情により事前申請が困難な場合は、業務終了後速やかに申請し、翌営業日までに承認を受けること」 |
| 未申請残業の取扱い | 「会社の承認なく行った時間外労働は、就業規則違反として懲戒の対象となる場合がある」 |
| 記録の保存 | 「申請書および承認記録は人事が保管し、法令で定める期間これを保存する」 |
就業規則変更の手続きを忘れずに
就業規則に事前申請制を追加・変更する際は、労働基準法第89条および第90条に基づく手続きが必要です。常時10名以上の労働者を使用する事業場では就業規則の作成と届出が義務付けられており、変更の際には労働者代表への意見聴取と所轄労働基準監督署への届出が必要になります。従業員規模が10名未満であっても、変更内容を全従業員に周知する義務があります。
承認フローの設計と管理職の役割
就業規則への明記と並行して整備しなければならないのが、管理職が実際に機能する承認フローです。フローが複雑すぎても形骸化し、曖昧すぎても「なんとなく承認」が続きます。
基本フローの設計
承認フローの基本構成は次のとおりです。まず社員が業務開始前に「時間外労働申請書」を提出します。申請書には、業務内容・想定時間数・理由を必ず記載させます。次に直属の管理職が承認または否認を判断し、その結果を記録に残します。承認された場合のみ時間外労働を実施し、終了後に実績時間を記録します。月次で人事または経営者が集計・確認し、36協定の上限時間と突き合わせます。
このフローで特に重要なのは「否認にも理由を記録する」点です。「今日中に対応しなければ翌日以降の業務に重大な支障が生じるか」「他の手段(翌日対応・業務の見直し)で代替できないか」を判断基準として管理職向けマニュアルに明記しておくと、恣意的な運用を防げます。
プレイングマネージャーが多い場合の対策
中小企業では管理職自身が現場業務を抱えており、部下の承認に時間を割けないケースが多く見られます。この場合、承認の権限を「直属上長」に限定せず、上長不在時は次の承認者(経営者・人事担当)に自動的に引き継ぐルートを規則に明記しておくことが有効です。また、申請から承認までの時間上限(例:申請後2時間以内に承認または否認を行う)を設けると、「承認漏れ」の状態が続くリスクを減らせます。
記録の保存方法を統一する
現状で承認のやり取りが紙・チャット・口頭と混在している場合は、まず記録媒体を一本化することが優先事項です。労働基準法第109条により、賃金台帳や労働者名簿などの重要書類は3年間(将来的に5年間へ延長予定)の保存義務があり、申請・承認記録もこれに準じた扱いが実務上推奨されています。
ツールとしては、Excelやスプレッドシートで管理する方法でも問題ありませんが、タイムスタンプが残る形式であることが重要です。将来的に労働基準監督署の調査や労使トラブルが発生した際、「承認した事実・日時・内容」が客観的に証明できる状態にしておいてください。
制度の整備と運用の両立が難しい場合は、人事の専門知識がなくても相談できる外部サポートを活用することで、導入の手戻りを減らせます。
後付け申請や未申請残業が発生した場合の対応
制度を整備しても、しばらくは「昨日残業しました」という申告がなくなるわけではありません。移行期の対応方針を事前に決めておくことが重要です。
移行期には「警告→記録→段階的適用」で対処する
制度導入直後に未申請残業を即座に懲戒処分の対象とすることは現実的ではなく、むしろ社員との信頼関係を損なうリスクがあります。導入から一定期間(例:3か月)は周知・教育期間と位置付け、未申請残業が発生した場合は「記録を残したうえで指導」にとどめることが実務上の一般的な対応です。繰り返し違反が続く場合に初めて懲戒規定を適用するという段階的な運用を就業規則の運用規程や社内通達として明示しておくと、後々のトラブルを防げます。
未申請残業の賃金はどう扱うか
未申請の残業であっても、管理職がその事実を認識していたと判断されれば賃金の支払い義務が生じます。「未申請だから払わない」という対応は法的リスクが高いため、現実的な方針としては「当月内に確認・記録を行い、賃金は支払いつつ、規則違反として指導する」という形が安全です。重要なのは、賃金の支払いと規則違反の指導を切り離して考えることです。
客観的記録との突き合わせを常に行う
労働安全衛生法第66条の8の3(2019年施行)により、使用者はすべての労働者について客観的な方法で労働時間を把握する義務を負っています。PCのログオン・オフ記録、入退室システムの記録などと申請記録を月次で突き合わせる運用を設けることで、未申請残業の早期発見と是正が可能になります。この突き合わせ作業こそが、事前申請制を「絵に描いた餅」にしないための最重要ステップです。
従業員規模・現状に応じた整備の優先順位
事前申請制の整備にかけられるリソースは会社の規模や現状によって異なります。自社の状況に照らして、まず着手すべき項目を判断してください。
就業規則が未整備または形骸化している場合
従業員が10名未満で就業規則の作成義務がない企業でも、労働契約書や雇用条件通知書に時間外労働の手続きを明記することは可能です。就業規則がある場合でも、事前申請・承認に関する条文がないなら、まず条文の追加と所轄の労働基準監督署への届出を優先してください。社会保険労務士に相談することで、現状の規則の抜け漏れチェックと条文案の作成をまとめて対応できます。
制度はあるが運用が機能していない場合
条文はあるが現場が守っていないというケースでは、管理職向けの研修と承認フローの見直しが優先課題です。「なぜ事前申請が必要か」「未申請残業を放置した場合に管理職自身が問われるリスクがあること」を具体的に伝える場を設けることが、形骸化した制度を機能させる第一歩になります。
36協定の上限管理にも課題がある場合
時間外労働の申請・承認データは、36協定で定めた月間・年間の上限時間を管理するためのデータとしても機能します。特に月45時間・年360時間の一般条項上限(特別条項がある場合は月100時間未満・年720時間以内等)に近づいている社員がいる場合、申請段階で上限超過を防ぐアラートを組み込む設計が必要です。36協定違反は会社および管理職個人への刑事罰(労働基準法第119条)につながるため、申請制の整備と並行して協定の内容を確認してください。
まとめ
時間外労働の事前申請制は、就業規則への条文追加・承認フローの設計・客観的記録との突き合わせの三つを組み合わせて初めて機能します。事前申請がなければ賃金を払わなくていいという誤解は法的リスクを生むため、「制度と運用の両輪」を意識することが重要です。また、就業規則の変更には労働者代表への意見聴取と労働基準監督署への届出という手続きも必要になります。
「後付け申請が常態化している」「就業規則を見直したいがどう進めていいかわからない」といった課題について、人事専任者がいない中小企業の現場事情を踏まえたアドバイスが必要でしたら、ウェルセンス株式会社にご相談ください。整備の優先順位から運用定着までを一緒に考えます。
よくある質問
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