「役職を外したのに、後から『不当だ』と言われた」「就業規則に降格の規定を書いていなかったかもしれない」——管理職の降格をめぐるトラブルは、規模の小さな会社ほど深刻になりがちです。専任の人事担当者がいない環境では、「経営判断として役職を変えた」という認識のまま手続きを進めてしまい、気づいたときには根拠規定も面談記録も残っていない、という状況に陥ることがあります。この記事では、降格の根拠規定がない場合のリスクと、異議を申し立てられたときに取るべき対応を、実務的な視点で解説します。
「降格」と「降職」はまったく別物である
降格トラブルで最初に確認すべきことは、実際に行った処理が「降格」なのか「降職」なのかという区別です。この二つは法的な性質が異なり、必要な手続きも変わってきます。
降職——役職だけを変える人事異動
「部長から課長へ」のように肩書きを変えるだけで、基本給や賃金等級(給与のランク分けの体系)は変わらないケースを「降職」と呼びます。これは原則として使用者(会社)の人事権の範囲内とされており、就業規則に「会社は業務上の必要により、配置転換・職位の変更を命じることができる」という程度の根拠規定があれば、本人の個別同意なしに実施できる場合があります。
降格——賃金体系そのものが下がる変更
一方、職能資格(社員の能力や習熟度を格付けする社内制度)や賃金等級を引き下げ、基本給が実際に下がるケースは「降格」です。これは賃金という労働条件の不利益変更にあたるため、労働契約法第8条・第9条の定めにより、原則として労働者本人の個別同意が必要とされています。同意なく賃金を引き下げた場合、差額の支払いを求められるリスクが生じます。
懲戒処分としての降格——さらに厳格な要件が必要
服務規律違反や非違行為(不正行為・ルール違反など)に対する制裁として降格を行う場合は、労働契約法第15条により、就業規則に懲戒事由と手続きが明記されていることが有効要件です。この根拠がなければ、懲戒処分自体が無効になります。「問題行動を起こしたから役職を外した」という対応でも、それが賃金減額を伴い制裁的な意図があれば、懲戒降格として扱われる可能性があります。
| 類型 | 賃金への影響 | 必要な根拠・手続き |
|---|---|---|
| 降職(役職のみ変更) | 原則なし | 就業規則の人事権条項+書面通知 |
| 降格(賃金等級の引き下げ) | あり(基本給が下がる) | 就業規則の根拠規定+本人の個別同意 |
| 懲戒処分としての降格 | あり | 就業規則への懲戒事由・手続きの明記+弁明機会の付与 |
就業規則に根拠規定がない降格はどのくらい危険か
就業規則に降格の根拠規定がない場合、裁判所や労働審判(労使トラブルを短期解決するための法的手続き)の場では、人事権の濫用として降格命令が無効と判断されるリスクが高まります。
労働基準法が求める「絶対的記載事項」
従業員10名以上の事業場には、就業規則の作成と労働基準監督署への届出が義務付けられています(労働基準法第89条)。同条は「昇給・降給に関する事項」を絶対的記載事項——必ず書かなければならない項目——として定めています。つまり、降格に伴って賃金が変わる可能性がある場合、その仕組みを就業規則に書いていないこと自体が法令違反になり得ます。
「書いていないから無効」になる具体的な場面
就業規則に根拠がなくても、すべての降格が直ちに無効になるわけではありません。ただし、本人が「不当だ」と主張して労働審判や訴訟に持ち込んだ場合、会社側は降格の根拠を立証しなければなりません。「役職は会社が決めるもの」という認識だけでは、業務上の必要性・合理的理由・適正な手続きの三点を裁判所に示すことができず、不利な状況に追い込まれます。特に賃金が下がっている場合は、差額の未払い賃金として請求されるリスクがあります。
「判断に自信がない」「後から問題にならないか心配」という状況では、早めに専門家に相談することで、手戻りコストを大幅に削減できます。
人事権濫用法理——基準があっても無効になるケース
仮に就業規則に根拠規定があったとしても、裁判所は次のいずれかに該当する場合に降格を無効とする傾向があります。業務上の必要性が認められない場合、報復・嫌がらせなど不当な動機・目的がある場合、労働者が通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を与える場合——の三点です。「基準の明文化なし」と「合理的理由の説明なし」が重なると、この三点のうち複数に同時に抵触することになり、リスクは一層高まります。
手続き的瑕疵として問題になるポイント
降格の実体的な理由が正当であっても、手続きに問題があれば無効・違法と判断されることがあります。手続き的瑕疵とは、実施の過程における不備を指します。
書面による通知と弁明機会の欠如
降格を口頭だけで伝え、理由や根拠を書面で通知していない場合は、後から「そんな説明は受けていない」と言われたときに反論が困難になります。特に懲戒降格では、本人に弁明の機会を与えること(事前に申し開きをする場を設けること)が実務上の必須要件とされており、この機会を設けていない場合は手続き的瑕疵として降格処分が無効になるリスクがあります。
就業規則の周知不足
就業規則に規定があっても、労働者に周知されていなければ効力を持ちません(労働契約法第7条)。就業規則を事務所の鍵のかかるキャビネットにしまいっぱなし、あるいは社長室にだけ置いてある、という状況では「周知されていた」とは認められない可能性があります。就業規則は常時労働者が見られる場所への掲示、各人への配布、またはイントラネットへの掲載など、実際に閲覧できる状態にしておく必要があります。
労働条件通知書の未更新
降格に伴って賃金が変わる場合、変更後の労働条件を労働条件通知書(または雇用契約書)に反映し、本人に交付しなければなりません。変更後の書面を交わさずに賃金だけ変えていた場合、変更に対する同意があったことを証明することが難しくなります。
異議を申し立てられたら、今すぐ取るべき対応
「不当降格だ」「賃金を返せ」という申し立てを受けた、あるいは弁護士名義の内容証明が届いた場合、まず状況を正確に把握し、対応の優先順位を整理することが重要です。感情的な反論や即座の拒絶は事態を悪化させます。
事実関係と証拠を整理する
まず確認すべきは、降格を実施した時点での記録です。就業規則の内容と周知状況、本人への説明の場を設けた日時・参加者・内容(面談記録)、書面で通知を行ったかどうか、賃金変更について同意書やサインを取得したかどうか——これらを列挙し、何があって何がないかを把握します。記録がない部分が「会社の弱点」になります。
現時点でできる証拠保全と態勢整備
記録が不十分でも、事後的に取れる対応はあります。降格の経緯を知る関係者(当時の上司・同席した人物など)からヒアリングし、記憶を文書化しておくことは有効です。また、労働審判や訴訟を見据えるなら、社会保険労務士や弁護士への相談を早期に行い、今後の対応方針を専門家と決めることが大切です。自己判断での回答・交渉は、後の手続きで不利な証拠になりかねません。
再発防止に向けた就業規則・人事制度の整備
今回のトラブルが収束した後、あるいは並行して、就業規則の降格条項を整備することが急務です。具体的には、降格の事由(能力不足・役職に必要な要件を満たさない場合など)、降格に伴う賃金の取り扱い、手続き(面談・書面通知・弁明機会の付与)を就業規則に明記します。社員数が10名未満でも、後のトラブル予防のため書面化しておくことを強くおすすめします。
20~50名規模の会社が特に注意すべきこと
20~50名規模の成長企業では、制度の整備が組織の成長に追いつかないまま運用が進んでいるケースが多く、降格トラブルが起きやすい構造的な背景があります。
評価基準の不在が「恣意的」と見られる
人事評価制度が整備されていない場合、降格の理由が「上司の印象・感覚」に基づいていると受け取られます。「成果が出ていなかったから」という説明だけでは、客観的な評価記録・業績データ・指導履歴がなければ裁判所や労働審判の場で認められません。評価制度が完全でなくても、少なくとも定期的な面談記録・目標と結果の記録を残しておくことが重要です。
降格後も同じ職場で働き続ける問題
20~50名規模では、降格した管理職が元の部下と同じフロアで働き続けるケースがほとんどです。この状況が長引くと、降格した本人のモチベーション低下だけでなく、周囲の社員の士気・組織全体の雰囲気にも影響します。降格を実施する際は、業務上の役割の変化や本人のキャリアについても丁寧に話し合い、フォローアップの面談を継続することが、二次的なトラブルを防ぐうえで欠かせません。
「経営判断だから」では通用しない場面が増えている
創業初期は「役職は社長が決めるもの」という感覚で運用できていたかもしれませんが、社員数が増え、給与水準も上がってくると、当事者にとっての降格の影響は甚大になります。弁護士や労働組合(合同労組)の知識が社員側にも広まっている現在、「口頭で伝えた」「本人も受け入れていた」だけでは法的な問題が生じやすくなっています。
まとめ
降格の根拠規定がない状態で異議を申し立てられた場合、会社側は人事権の正当な行使であることを自ら立証しなければなりません。就業規則への根拠記載、本人への書面通知、弁明機会の付与、賃金変更への個別同意——これらのうち一つでも欠けていれば、手続き的瑕疵として降格命令が無効になるリスクが生じます。特に20~50名規模の成長企業では、制度整備が後回しになりがちですが、降格・降職を適切に運用するための就業規則の見直しは、トラブルが起きた後よりも、起きる前に着手するほうがコストも心理的負担もはるかに小さくなります。
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