「入社書類は一通り揃えているつもりだったのに、給与の銀行振込に関する同意書が見当たらない——」。前任の担当者から引き継いだ後、そんな事実に気づいて焦った経験はないでしょうか。実は、銀行振込で給与を支払うこと自体は一般的ですが、従業員一人ひとりから書面で同意を取ることは労働基準法施行規則に定められた要件です。「就業規則に書いてあるから大丈夫」と思っていたとしたら、それは誤解かもしれません。この記事では、同意書が必要な理由、未取得のままにしておくリスク、そして今すぐ整備するための3ステップを実務に沿って解説します。
銀行振込に同意書が必要な理由
給与の銀行振込は、労働基準法が定める「通貨払い原則」の例外にあたるため、法令に定める要件を満たさなければ違法状態になります。
賃金の通貨払い原則とは
労働基準法第24条は、賃金の支払いについて「通貨で直接・全額・毎月1回以上・一定期日に支払う」という5つの原則を定めています。この「通貨払い」とは、もともと現金を意味します。銀行振込は現金ではないため、原則から外れた支払い方法として扱われます。
銀行振込を合法にする根拠
労働基準法施行規則第7条の2は、一定の要件を満たした場合に限り、銀行口座への振込を認めています。その要件として定められているのが「労働者本人の同意」です。加えて、振込先は労働者が指定した口座であること、支払日当日に引き出せる状態にあることも求められます。つまり、会社側の都合や慣習だけで振込を続けることは、法令上の根拠を欠いた状態になるのです。
就業規則への記載だけでは不十分な理由
「就業規則の給与規程に”銀行口座に振り込む”と書いてある」という企業は少なくありません。しかし施行規則が求める「労働者の同意」は、就業規則への包括的な同意とは別個に必要とされています。労働基準監督署の実務においても、入社時書類への署名や個別の同意書が整備されているかを確認されます。就業規則の記載はあくまで会社側の方針を示すものであり、個々の従業員の同意を代替するものではありません。
同意書を取っていない場合のリスク
同意書が未取得の状態は形式上、労働基準法違反(通貨払い原則違反)に該当しうるため、是正勧告や労使トラブルのリスクを抱えることになります。
労働基準監督署の調査・是正勧告
労働基準監督署が定期調査や申告調査で会社を訪れた際、給与支払いに関する書類を確認することがあります。同意書が存在しない場合、是正勧告の対象となる可能性があります。是正勧告そのものは行政指導の一種ですが、対応を怠ると是正指示・検察への送検へとエスカレートするリスクもゼロではありません。
退職後の従業員からのトラブル
従業員が退職後に「本来は現金払いを求める権利があった」と主張するケースが実務上まれに発生しています。同意書がなければ、会社側が適法に振込を行っていたことを証明しにくくなります。「長期間異議なく受け取っていた」という事実は黙示の同意として考慮される余地がありますが、明文の法的要件を満たすものではないため、書面による整備に代わるものにはなりません。
デジタル払い導入を検討している場合のリスク
2023年4月の労働基準法施行規則改正により、PayPayなど厚生労働大臣が指定した資金移動業者の口座への給与デジタル払いが解禁されました。このデジタル払いの同意書は、銀行振込の同意書とは別個に取得が必要です。銀行振込の同意書すら未整備のまま、デジタル払いの検討だけを進めても、法的な基盤が整わないことになります。
今からでも整備できる——同意書取得の3ステップ
同意書の未取得に今から気づいて整備することは遅くありません。現時点から有効な同意書を取得すれば、将来のリスクを大幅に低減できます。
現状の書類を棚卸しする
まず最初に、全従業員の入社書類を確認し、給与振込に関する同意の記録があるかを一覧化します。労働契約書・入社誓約書・雇用通知書のいずれかに「給与は指定口座へ振り込む」という条項と本人の署名があれば、それが同意の根拠になる場合があります。一覧を作成することで、誰の同意が取れていて、誰の同意が欠けているかが明確になります。
同意書のフォーマットを用意する
次に、同意書のひな形を整備します。最低限、以下の項目を盛り込みましょう。
| 項目 | 記載内容の例 |
|---|---|
| 同意の対象 | 給与・賞与等の賃金を銀行口座振込で受け取ることへの同意 |
| 振込先口座 | 金融機関名・支店名・口座種別・口座番号・口座名義 |
| 同意日・署名 | 年月日・従業員氏名(自署または記名押印) |
| 変更・撤回の手続き | 口座変更時は〇日前までに所定の手続きを行う旨 |
厚生労働省や都道府県労働局のウェブサイトで参考書式が公開されていることもありますが、自社の状況に合わせて内容を調整することが重要です。
従業員への説明と署名回収
既存の従業員に対しては、「法令上の要件を満たすために改めて書面を整備する」という趣旨を率直に説明し、署名を依頼します。強制的に従わせることはできませんが、拒否した場合は理論上、現金払いに切り替える必要が生じます。実務上、丁寧に趣旨を説明すれば拒否されるケースは少ないものの、万が一拒否された場合は労務の専門家に相談することをおすすめします。新入社員については、入社時の書類セットに同意書を組み込むことで、以後の整備漏れを防ぐことができます。
企業の状況別・対応優先度の考え方
同意書整備の緊急度や方法は、会社の規模・現在の書類整備状況・今後の予定によって変わります。自社の状況に当てはめて優先度を判断してください。
書類が全く整備されていない場合
前任者から引き継いだままで入社書類が散逸している、あるいは労働契約書自体を発行していないという企業は、まず労働契約書と給与振込同意書を一体化した入社書類セットを整備することが先決です。既存の全従業員に対して同意書を取得し直すと同時に、就業規則の給与支払い条項も確認・更新します。
就業規則はあるが個別同意書がない場合
就業規則に振込払いの規定がある場合は、個別の同意書を追加取得するだけで整備が完了します。全員分を一度に回収するのが難しければ、在籍期間の長い従業員から順に、または次回の給与明細配布時にあわせて取得するなど、現実的なスケジュールで進める方法もあります。
デジタル払い導入を検討中の場合
銀行振込の同意書を整備した後、デジタル払いへの移行を希望する従業員がいる場合は、別途デジタル払い用の同意書が必要です。デジタル払いでは厚生労働大臣が指定した資金移動業者に限定される、1アカウントあたりの残高上限が100万円であるなど銀行振込より厳格な要件があります。導入前に要件を正確に把握した上で、同意書・社内規程を整備してください。
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整備後に確認しておきたいポイント
同意書を取得したら完了ではなく、実効性のある管理体制を維持することが重要です。
同意書の保管と更新ルールを決める
取得した同意書は、労働関係書類として適切に保管します。労働基準法上、賃金台帳の保存期間は5年(経過措置として当面は3年)とされているため、それに準じた管理が求められます。また、従業員が口座を変更した場合は新たな同意書(または変更届)を取得するルールを社内で明確にしておきましょう。
入社書類チェックリストに組み込む
今後入社する従業員については、給与振込同意書を入社書類チェックリストに必須項目として追加します。「書類を渡したつもりが未回収だった」というミスを防ぐために、担当者が変わっても迷わない仕組みをつくることが大切です。20〜50名規模の企業では専任人事がいないケースが多く、担当者交代のたびに引き継ぎ漏れが起きやすい点に注意が必要です。
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まとめ
給与の銀行振込に同意書が必要なことは、意外に知られていない法令上の要件です。「就業規則に書いてある」「ずっとこのやり方でやってきた」という慣習は、法的な根拠にはなりません。ただし、気づいた時点で整備すれば遅くはなく、今から同意書を取得することで将来のリスクを確実に減らせます。現状の書類を棚卸しし、フォーマットを整備し、従業員に説明して署名を回収する——この3つを順番に進めることが、最も現実的な対処法です。
「どこから手をつければいいかわからない」「同意書のほかにも書類の整備漏れがあるかもしれない」という場合は、人事労務の専門家に相談することで、自社の状況に合った整備の優先順位を整理できます。ウェルセンス株式会社では、専任人事のいない中小企業の人事労務課題をサポートしています。お気軽にご相談ください。
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