「うちの社員が営業中に追突されました。相手の保険会社から連絡が来ているのですが、労災も申請した方がいいんでしょうか?」——中小企業の経営者や兼務人事担当者から、こういった問い合わせが後を絶ちません。業務中の交通事故は、労災保険と相手方保険の両方が絡む複雑な案件です。「二重取りになるのでは」「どちらを先にすべきか」「会社は何をすれば良いのか」。判断材料がないまま対応が後手に回ると、従業員への補償に空白が生じたり、会社が法的手続きを怠ったとして信頼を損なったりするリスクがあります。この記事では、第三者行為災害の仕組みから会社がすべき手続きの順番まで、実務担当者が迷わず動けるよう整理して解説します。
労災と相手方保険、両方から受け取れるのか
結論から言えば、業務中の交通事故では労災保険と相手方保険の両方を請求できます。ただし同じ損害について二重に受け取ることはできず、法律に基づいた「調整の仕組み」が働きます。
「第三者行為災害」という考え方
業務中・通勤中の災害のうち、労働者本人でも事業主でもない第三者(加害者)の行為によって生じた災害を「第三者行為災害」と呼びます。交通事故による被害がその典型例です。この場合、被災した従業員には「労災保険による補償を受ける権利」と「加害者に対して損害賠償を請求する権利」の両方が発生します。
二つの権利が同時に存在することは法律上認められており、会社が「相手の保険で対応するから労災は使わなくていい」と判断するのは誤りです。むしろ労災を使わないことで従業員が受け取れるはずの給付を逃すことになります。
二重取り禁止と調整の仕組み
同一の損害について二重に補填されることを防ぐため、労働者災害補償保険法第12条の4に基づき、以下の調整が行われます。
- 相手方保険を先に受け取った場合:同じ損害項目について、労災保険の給付額がその受取額の範囲で停止(控除)される
- 労災を先に受け取った場合:労災保険の保険者(国)が、被災労働者の損害賠償請求権を代位取得し、加害者側に求償する
どちらを先にしても被災者の受取総額は理論上変わりません。ただし後述するように、「調整対象外の給付」が存在するため、労災を使う方が最終的に有利になるケースが多くあります。
労災を使うと確実に上乗せされる給付がある
調整の仕組みの中で重要なのが「特別支給金」の存在です。休業特別支給金(給付基礎日額の20%相当)や傷病特別支給金は、「社会復帰促進等事業」からの支給に位置づけられており、損害賠償との調整対象外となっています。つまり相手方保険から休業損害を受け取っても、休業特別支給金は別途受け取れます。
| 給付の種類 | 調整対象か |
|---|---|
| 休業補償給付(給付基礎日額の60%) | 調整対象 |
| 療養補償給付 | 調整対象 |
| 障害補償給付 | 調整対象 |
| 休業特別支給金(給付基礎日額の20%) | 調整対象外(確実に受け取れる上乗せ分) |
| 傷病特別支給金 | 調整対象外 |
「相手の保険で全部カバーされるから労災不要」と判断すると、この特別支給金を従業員が受け取れなくなります。これが労災申請を行う最大の実務メリットです。
会社がやるべき手続きの流れ
事故発生後に会社がまず最初にやるべきことは、従業員の状況確認と労働基準監督署への届出準備です。次に労災申請書類の作成補助、そして相手方保険会社との情報共有という流れになります。
事故直後から3日以内にやること
まず最初に、事故発生の事実と従業員の負傷状況を確認します。業務中の事故であれば労働基準監督署への報告義務(労働安全衛生法第100条に基づく労働者死傷病報告)が生じる場合があります。休業4日以上の場合は「労働者死傷病報告書」の提出が必要です。
次に、警察への届出が従業員(または救急対応者)によって行われているか確認してください。後に「交通事故証明書」を取得するためには、警察への届出が前提となります。交通事故証明書は自動車安全運転センターから発行されるもので、労災申請時に必要な書類の一つです。
第三者行為災害届の提出準備
労災保険を請求する際、単に療養補償給付請求書や休業補償給付請求書を提出するだけでは不十分です。第三者行為災害の場合は、あわせて「第三者行為災害届」を管轄の労働基準監督署に提出する義務があります(労働者災害補償保険法施行規則第22条)。
この届出は被災した従業員本人が提出主体ですが、会社が書類作成を補助することが実務上の慣行です。提出が必要な書類は以下のとおりです。
- 第三者行為災害届
- 交通事故証明書(自動車安全運転センター発行)
- 念書(示談・損害賠償請求状況の報告誓約書)
- 誓約書(相手方保険の使用状況報告誓約書)
これらを労災請求書と同時か、それより前に提出することが求められています。書類が揃わないと労災給付の審査が止まることがあるため、早めに労働基準監督署に相談しながら準備を進めてください。
相手方保険会社への連絡と情報共有
相手方の保険会社からすでに連絡が来ている場合、会社は従業員の代理で交渉を行う立場にはありません。ただし、従業員が労災申請を進めていることを相手方保険会社に伝えておくことは重要です。労災と相手方保険の調整は保険者間で行われますが、被災者側が両方の申請状況を適切に報告しないと手続きが混乱することがあります。
また、相手方保険会社は「早期に示談を結びたい」と打診してくることがあります。このタイミングで安易に示談に応じることは非常に危険です。この点については次のセクションで詳しく解説します。
示談のタイミングで取り返しのつかないミスが起きる
業務中の交通事故対応で最も注意が必要なのが示談のタイミングです。早期示談は従業員の将来的な補償を大幅に制限するリスクがあります。
示談後に労災給付が制限される仕組み
示談(和解)とは、加害者と被災者が損害の全部または一部について合意することです。もし示談書の内容が「今後いかなる請求もしない」「損害の全額を填補する」という趣旨で成立した場合、労働基準監督署はその後の労災給付の支払いを制限する根拠として扱う可能性があります。
特に問題になるのは、後遺障害が残る可能性がある場合です。事故直後は軽傷に見えても、数ヶ月後に後遺障害等級が認定されるケースがあります。早期示談でその後の損害賠償請求権を放棄してしまうと、本来受け取れるはずの障害補償給付や逸失利益の補填が困難になります。
示談前に必ずやること
従業員が相手方保険会社から示談の打診を受けた場合、会社として以下を伝えることが重要です。まず最初に、労災申請の手続きを完了させること。次に、症状が固定するまで(医師から「これ以上治療しても改善しない」と判断されるまで)示談に応じないこと。そして示談前に必ず管轄の労働基準監督署に相談することです。
会社が従業員に「早く示談してください」と促すことは、従業員の権利を侵害する行為にもなりかねません。焦らず慎重に対応することが会社・従業員双方にとって最善です。
休業期間中の給与・補償の整理
従業員が療養のために休業する期間中、給与の支払いと各種補償の関係を整理しておかないと、会社が過剰に支払ったり、逆に従業員の生活が不安定になったりします。
労災の休業補償給付と給与支払いの関係
業務中の事故による休業については、労働基準法第76条に基づき、会社は平均賃金の60%の休業補償義務を負います。ただし、労災保険から休業補償給付(給付基礎日額の60%)と休業特別支給金(20%)が支給される場合、会社の補償義務はこれによって充足されるとされています。
つまり会社が給与を全額支払い続けながら労災も受給させる必要はありません。一般的な実務では、待期期間(事故から3日間)は会社が平均賃金の60%を支払い、4日目以降は労災給付に切り替えるという流れになります。就業規則に有給の傷病休暇規定がある場合はその定めによりますが、過剰支払いが発生すると後の調整が複雑になるため、事前に社労士などに確認することをお勧めします。
通常の傷病休職との違い
就業規則に傷病休職の規定がある場合、業務中の交通事故による休業にそのまま適用できるかを確認してください。業務災害(労災)の場合、療養期間中の解雇は労働基準法第19条により原則として禁止されています。通常の傷病休職規定にある「休職期間満了による自然退職」の条項を業務災害に適用してしまうと、法的トラブルに発展するリスクがあります。
休職・復職の取り扱いについては、業務災害に対応した別の規定があるか確認し、なければ個別に対応方針を検討することが必要です。
復職時に確認すべきこと
長期の休業後に復職する場合、通常の傷病休職と同様に主治医の診断書や、産業医がいる場合は産業医意見書を取得することが望ましいです。交通事故では身体的な後遺症だけでなく、PTSDや事故後うつなど精神的な影響が遅れて現れることもあります。産業医がいない規模の会社であっても、復職前に主治医からの情報収集と職場環境の調整(業務量・業務内容の配慮)は欠かせません。
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「相手の保険があるから労災不要」という誤解が危険な理由
中小企業の現場で最も多い誤解が、「相手方保険で全額カバーされるから労災は使わない」という判断です。これは従業員にとって明確に不利な対応です。
なぜこの誤解が生まれるのか
相手方の任意保険会社は示談交渉の窓口となり、治療費の立替や休業損害の支払いを比較的スムーズに行います。そのため、「全部相手の保険で対応してもらっている」という状況になりやすく、労災申請の手間を省こうとする判断が生まれます。
しかし先に述べたとおり、労災の休業特別支給金や傷病特別支給金は損害賠償との調整対象外です。相手方保険だけで対応すると、従業員はこれらの給付を受け取る機会を失います。また、相手方保険会社の対応が遅れた場合や、過失割合で争いが生じた場合に、従業員の生活補償に空白が生じるリスクもあります。
会社として従業員に伝えるべきこと
会社が従業員に対して「相手の保険で対応して」と伝えるのではなく、「労災申請の手続きをサポートします」という姿勢を示すことが、従業員との信頼関係を守る上で重要です。会社が労災申請に関与することは義務でありサポートでもあります。放置すれば「なぜ会社は動かないのか」という不満が後から表面化します。
労災申請のサポートとして会社がすべきことは、労災申請書(様式第5号・第8号など)への事業主証明の記入、第三者行為災害届の作成補助、そして必要に応じて社労士や専門家への橋渡しです。
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まとめ
業務中の交通事故では、労災保険と相手方保険の両方を請求することが法的に認められており、同じ損害への二重受取を防ぐ調整の仕組みが設けられています。特に労災の休業特別支給金・傷病特別支給金は損害賠償との調整対象外であり、労災を申請することで従業員が確実に受け取れる上乗せ分となります。会社がすべき手続きとして、事故直後の状況確認・労働者死傷病報告書の提出、第三者行為災害届の作成補助、示談前の注意喚起、労災申請書への事業主証明が挙げられます。「相手の保険があるから労災不要」という判断は従業員の不利益につながる誤解であり、会社として積極的に労災申請をサポートする姿勢が求められます。また、長期休業となった場合の復職対応では、業務災害特有の解雇制限ルールや精神的後遺症への配慮も必要です。
業務中の事故対応は、通常の人事労務業務とは異なる専門的な判断が多く求められます。判断に自信がない場合や、対応方針で迷った際は、社労士などの専門家に相談することをお勧めします。ウェルセンス株式会社では、こうした突発的な労務課題に対して、専任人事のいない中小企業の経営者・担当者が迷わず動けるよう伴走サポートを行っています。「今すぐ専門家が必要というわけではないが、一度整理したい」「こんなケースの場合の対応を教えてほしい」という段階からでも、お気軽にご相談ください。
よくある質問
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