「労基署から連絡が来た」——その一報を受けた瞬間、頭が真っ白になった経営者・人事担当者の方は少なくありません。しかも相手が退職した元社員で、「会社のせいでメンタル不調になった」という内容であれば、なおさら動揺するのは当然です。しかし、初動の対応を間違えると、後の対応がどれだけ正しくても挽回が難しくなる場合があります。この記事では、労基署への申告を受けた直後にやるべき5つの対応を、法的根拠と実務の両面から整理します。パニックになる前に、まずここを読んでください。
「申告=会社が負け」は誤解——申告の仕組みを正しく理解する
労基署への申告は「調査の端緒」にすぎず、申告された時点で会社の非が確定するわけではありません。この前提を理解しているかどうかで、初動対応の質が大きく変わります。
労基署申告は労働者の権利であり、会社への有罪判決ではない
労働基準法第104条は、事業場に法律違反がある場合に労働者が労基署へ申告できる権利を明文で保障しています。重要なのは、この権利は退職後の元労働者にも認められているという点です。つまり、退職から数ヶ月・数年が経過してからでも申告は可能であり、「もう退職しているから関係ない」とはなりません。
申告を受けた労基署は、必要に応じて「申告監督」と呼ばれる調査を実施します。会社への来署要請や、場合によっては臨検(立入調査)に発展することもあります。ただし、申告の内容は申告者保護の観点から、会社に必ずしも開示されるわけではありません。
調査の結果、申告が認められないケースも多い
申告を受けて労基署が調査した結果、申告内容が認定されないケース、あるいは是正指導のみで終わるケースは珍しくありません。申告されたこと自体が「会社が悪い」という証明にはならないのです。
にもかかわらず、申告直後に「とにかく謝れば収まる」と判断して元社員に個別連絡したり、過剰な謝罪文を送ったりする会社があります。これは誠意ある対応のように見えて、後の民事訴訟や交渉の場で不利な証拠として利用されるリスクがあります。「誠実に対応する」ことと「法的に不利な言動をしない」ことは、両立できます。
労基署調査と民事責任は別ルート
労基署は「労災に該当するか」を調査する機関であり、民事上の損害賠償責任を直接問う立場にはありません。元社員が損害賠償を求める場合は、民事訴訟という別のルートをたどります。この2つを混同すると、対応の方向性が狂います。労基署対応に注力しながら、民事リスクについては弁護士と別途検討する、という二軸の整理が必要です。
事実確認と時系列整理を最優先で行う
申告を受けたら、まず自社の内部で「何があったか」を時系列で整理することが最優先です。記憶が鮮明なうちに書面化しておくことが、その後のすべての対応の基盤になります。
対象期間・対象者・出来事を特定する
申告の内容は開示されないことが多いため、「誰が・いつ・何を申告したか」が不明なまま対応を迫られるケースがあります。そこでまず行うべきは、退職した元社員の在職期間中に起きた出来事を時系列で整理することです。具体的には、以下の情報を確認します。
- 在職期間・所属部署・直属の上長
- 業務内容・残業時間の推移
- メンタル不調が顕在化した時期と経緯
- 休職・復職・退職にいたるまでの経緯
- 上長・人事からの面談の有無とその内容
担当者・上長からのヒアリングを書面で記録する
当時の担当上長や人事担当者から話を聞く際は、口頭で終わらせず、必ずメモや記録を残してください。「あのとき自分はこう対応した」という記憶は時間とともに変容します。ヒアリングの日時・参加者・発言の概要を記録しておくことが、後の対応の精度を大きく左右します。
なお、複数の担当者から別々に話を聞くと、証言が食い違う場合があります。そのような場合は、「どちらが正しいか」を内部で確定させようとせず、食い違いの事実ごと記録にとどめておくことが重要です。
資料の保全を今すぐ始める
申告を受けた直後から、関連資料が散逸・削除されないよう保全措置をとることが不可欠です。これは証拠隠滅ではなく、適正な対応のために必要な行為です。
保全すべき資料の優先順位
何を保全すればよいか迷う方は、以下の表を参考に優先度の高いものから着手してください。
| 優先度 | 資料の種類 | 確認ポイント |
|---|---|---|
| 高 | 勤怠記録・残業時間データ | 在職期間全体の実労働時間が確認できるか |
| 高 | 休職・復職関連書類 | 診断書・休職命令書・復職判定記録 |
| 高 | 面談記録・相談記録 | 上長・人事・産業医との面談の日時と内容 |
| 中 | 業務指示メール・チャット履歴 | 業務量・指示内容・口調のわかるやり取り |
| 中 | 就業規則・ハラスメント対応規程 | 当時施行していたバージョンを特定する |
| 参考 | 退職時の書類(退職届・退職理由) | 退職理由の記載内容と実態との整合性 |
「資料整理=証拠隠滅」という誤解を解く
「今から書類を整理すると証拠隠滅と思われるのでは」という不安を抱える方がいますが、証拠隠滅とは既存の証拠を改ざん・廃棄・隠匿する行為を指します。散らばっている資料を集めて整理・保管することは、証拠隠滅にはあたりません。むしろ、調査に誠実に協力するための準備として必要な行為です。
ただし、絶対に行ってはいけないのは、不都合な記録の削除・書き換え・日付の変更です。これは刑事上の問題にも発展しかねず、対応を著しく悪化させます。
メンタル不調の「業務起因性」をどう判断するか
「会社のせいでメンタル不調になった」という主張に対して、会社側が最初に確認すべきは、厚生労働省が定める労災認定基準との照合です。感情的な反論より、基準に基づく客観的な検討が重要です。
労災認定基準の骨格を理解する
厚生労働省は「心理的負荷による精神障害の労災認定基準」(令和5年9月改正)において、業務上の出来事と心理的負荷の強度を類型化しています。この基準では、「強」「中」「弱」という3段階で心理的負荷の程度を評価し、一定以上の負荷があったと認められた場合に業務起因性が認定される仕組みです。
例えば、月80時間を超える時間外労働、上司からの継続的な叱責、業務量の急激な増加、ハラスメントの存在などは「強」に分類される出来事です。会社として、このような状況がなかったか、あったとすれば会社としてどんな措置を講じていたかを確認することが、自己評価の第一歩になります。
会社が問われる法的責任の3つの側面
元社員のメンタル不調に関して会社が問われうる責任は、大きく3つあります。
一つ目は労働者災害補償保険法に基づく労災補償責任です。業務起因性の認定が争点となります。
二つ目は労働契約法第5条に定める安全配慮義務違反です。予見可能性と結果回避措置の有無が争点になります。
三つ目はハラスメント関連法令です。相談窓口の整備や対応記録の有無が争点になります。
専任の産業医や相談窓口がない20〜50名規模の企業では、「整備が不十分だった」という事実自体が争点になりやすい傾向があります。ただし、整備が不十分であることと、今回の申告内容に因果関係があることは別問題です。この点の切り分けは、専門家と一緒に行うことをおすすめします。
退職理由とメンタル不調の因果関係への対応
「会社のせいで退職に追い込まれた」という主張に対して、会社が取れる対応は感情的な反論ではなく、事実の記録で反証することです。退職届の記載内容、退職前後の面談記録、退職理由の確認書などが重要な資料になります。これらが残っていない場合、会社側の説明能力が著しく低下します。「今からでは遅い」と思わず、残っているものから整理を始めてください。
弁護士・社労士への相談タイミングと役割の使い分け
労基署から連絡が来た時点で、少なくとも弁護士への相談は開始すべきです。「もう少し様子を見てから」という判断が、後の対応を難しくするケースが目立ちます。
弁護士に相談すべきタイミング
最も重要な原則は、「労基署から呼び出し状・連絡を受けた時点で弁護士に相談する」ことです。内容が判明してから、調査が進んでからでは、初動で行った言動が既成事実となってしまいます。労働問題に精通した弁護士であれば、労基署調査への対応方針・元社員との交渉方針・民事リスクの評価を一括して助言してもらえます。顧問弁護士がいない場合は、労働事件を専門とする弁護士を探すことをおすすめします。
社労士との役割の使い分け
社会保険労務士(社労士)は、労務管理の実務・書類の整備・就業規則の確認など、「会社の労務管理体制をどう整えるか」という観点で頼れる専門家です。一方、法的な交渉や訴訟対応は弁護士の領域です。顧問社労士がいる会社では「社労士に全部聞く」スタイルが多いですが、法的紛争になりうる局面では弁護士の関与が必要です。
産業医については、在職中の社員のメンタルヘルス管理・復職判断の場面で機能します。今回の申告対応では直接の役割は限定的ですが、今後の再発防止体制を整える段階で連携が必要になります。50人未満の事業場では産業医の選任義務はありませんが、嘱託産業医を活用している会社は、当時の産業医との連携状況を確認しておくことが有益です。
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対外窓口を一本化し、二次被害を防ぐ
申告対応において、情報の出口を一本化することは必須の管理事項です。複数の担当者が元社員・代理人・労基署と個別にやり取りすることは、情報の錯綜と対応の矛盾を招き、会社側を不利にします。
対応担当者を一人に絞る
社内で対応窓口となる担当者を一人決め、元社員・その代理人(弁護士)・労基署とのすべてのやり取りをその担当者に集約してください。担当者が直接対応に不安を感じる場合は、弁護士が窓口を代理することも可能です。特に元社員から直接の連絡が来た場合は、軽率に応答せず、担当者経由・弁護士経由での対応に統一することが重要です。
社内への情報共有は最小限に留める
申告の事実が社内に広まると、在職中の社員が不安を感じたり、元社員と親しかった社員が情報を漏らしたりするリスクがあります。知る必要がある関係者(直属の上長・人事責任者・経営者)に限定して共有し、「この件について外部・社内他部門への発言は控えるよう」周知することをおすすめします。
SNS拡散への不安がある場合は、弁護士と相談の上で対応方針を決めてください。会社として公式にコメントするタイミングと内容を事前に決めておくことが、二次被害を防ぐ上で有効です。
🔗 複雑な労災認定判断は人事だけでは限界があります。精神科医による第三者意見を取り入れることで、より堅牢な対応が可能になります。 →
まとめ
労基署への申告を受けたとき、最初にすべきことは「事実確認と時系列整理」「資料の保全」「弁護士への相談」「担当者・上長からの書面ヒアリング」「対応窓口の一本化」の5つです。申告は調査の端緒であり、即座に会社の非が確定するわけではありません。しかし、初動の対応を誤ると、後から挽回することが難しくなります。
特に専任人事がいない中小企業では、「誰に・何を・いつ相談すべきか」の判断自体が難しい状況があるかと思います。ウェルセンス株式会社では、メンタル不調・休職・労務トラブルを専門とするコンサルタントが、こうした突発的な対応フローの整理から再発防止体制の構築まで、中小企業の実態に合わせた形でサポートしています。「何から手をつければいいかわからない」という段階でも、まずはお気軽にご相談ください。
よくある質問
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