「採用が決まったら健康診断を受けてもらおうと思っているけれど、入社前?入社後?どっちが正しいんだろう」——実は、この疑問を抱えたまま対応を後回しにしている企業は少なくありません。採用のたびに担当者が迷い、費用負担の説明もあいまいなまま、就業規則にも記載がない。そんな状態では、万が一のトラブル時に会社を守ることができません。この記事では、雇入れ時健康診断の実施タイミング・費用負担・規程整備について、法的根拠をもとに実務の判断軸を整理します。
雇入れ時健康診断とは何か、まず基本を押さえる
雇入れ時健康診断とは、労働安全衛生法第66条第1項および労働安全衛生規則第43条に基づき、事業者が「常時使用する労働者を雇い入れるとき」に実施を義務づけられた健康診断です。任意の福利厚生ではなく、法律上の義務である点が重要です。
根拠となる法令
労働安全衛生規則第43条は、雇入れ時に実施すべき検査項目として11項目を定めています。既往歴・業務歴の調査、自覚症状・他覚症状の有無、身長・体重・視力・聴力の検査、胸部X線検査、血圧測定、尿検査(糖・蛋白)、貧血検査、肝機能検査、血糖検査、血中脂質検査、心電図検査です。年に一度実施する定期健康診断(同規則第44条)とは別物であり、入社のタイミングで必ず行う必要があります。
「常時使用する労働者」の範囲
対象は正社員だけではありません。パートタイム・有期雇用労働者も、以下の条件を両方満たす場合は義務の対象です。一つ目は「契約期間が1年以上、または更新により1年以上になる見込みがあること」、二つ目は「1週間の所定労働時間が正社員の4分の3以上であること」です。この基準を満たすパート社員を雇い入れた際にも、雇入れ時健康診断を実施しなければなりません。アルバイトだからと一律に除外せず、契約内容を確認する習慣をつけることが大切です。
実施タイミング、「入社前」と「入社後」どちらが正解か
法令上の義務は「入社時(雇用契約の開始時点)」が原則です。内定後・入社前の実施は法律上の義務ではなく、あくまで任意の実務慣行にすぎません。ただし、入社直後(概ね入社日から数週間以内)に実施することで義務を満たすことができます。
「入社前受診」が広まった背景と法的位置づけ
多くの企業が内定後・入社前に健康診断を受けてもらっているのは、「入社してから手続きが煩雑になる前に済ませたい」という実務上の都合によるものです。この慣行自体は違法ではありませんが、注意が必要なのは「その受診を雇入れ時健康診断として扱う場合、費用負担の義務が会社に生じる」という点です。入社前受診を採用プロセスの一部として位置づけるのか、法定の雇入れ時健康診断として扱うのかを、あらかじめ明確にしておく必要があります。
入社後に実施する場合の現実的な運用
入社日以降に実施する場合、「入社後できるだけ早い時期(1ヶ月以内を目安)」に医療機関の予約を入れ、受診を完了させる流れを社内ルール化しておくことが重要です。採用者が複数名いる場合は、入社月にまとめて健診機関に予約を取ることで、管理コストも抑えられます。「入社から半年後にやっと受診した」というような事態は、義務の履行が遅滞したと見なされるリスクがあるため避けましょう。
費用は会社が負担するのか、本人が負担するのか
雇入れ時健康診断の費用は、原則として会社(事業者)が負担します。これは法律上の義務として事業者に課せられた健診であるためです。昭和47年9月18日付の厚生労働省通達(基発第602号)においても、健康診断の費用は事業者が負担すべきとの趣旨が示されています。
「採用前だから自己負担でよい」は誤り
「まだ社員じゃないから、候補者に費用を出してもらえばいい」と考える経営者は珍しくありません。しかし、その受診を後に雇入れ時健康診断として扱うのであれば、費用負担義務は会社に帰属します。候補者・内定者の段階で自費で受診させ、採用後に領収書を提出してもらって会社が実費精算する、という運用方法をとっている企業もありますが、その場合も会社負担の原則は変わりません。費用を候補者に転嫁したままにしておくことは、後々トラブルの原因になります。
費用相場と会社の対応方法
雇入れ時健康診断の費用は医療機関によって異なりますが、規則第43条の11項目を網羅した場合、一般的には数千円から1万円台半ば程度が目安です。法定項目を指定して企業契約を結んでいる健診機関を利用すると、費用管理がしやすくなります。就業規則や社内規程に「健診費用は会社が負担する」と明記しておくことで、社員や候補者から「なぜ会社が出すのか」と問われた際にも根拠を示せます。
健康診断の結果を採用選考や内定取消に使えるか
健康診断の結果を採用の可否や内定取消の判断材料にすることは、原則として認められていません。この点を誤解したまま運用している企業は少なくなく、法的リスクが生じます。
採用選考での使用が原則不適切な理由
厚生労働省が示す「公正な採用選考の基本」では、応募者の健康状態を採用基準にすることは原則として不適切とされています。持病がある、再検査が必要という理由だけで採用を見送ることは、合理的な理由のない差別的扱いとなる可能性があります。「健康診断の結果を見てから採用を決めたい」という意図で入社前受診を設けることは、法的観点から見て問題をはらんでいます。
内定取消が認められる条件
内定取消が法的に認められるのは、「採用内定当時知ることができず、また知ることが期待できないような事実が判明した場合」に限られます(最高裁・大日本印刷事件、1979年)。健康上の理由が内定取消の根拠となりうるのは、その業務を遂行するうえで不可欠な身体的要件(例:一定の視力が求められる特定業務、危険物を扱う業務など)を満たしていない場合に限られ、その判断も慎重に行う必要があります。安易な内定取消は解雇と同等の法的評価を受けるリスクがあります。
再検査が必要な結果が出たときの対応
健診結果で再検査が必要とされた場合、会社がとるべき対応は「安全配慮義務の観点から適切な措置を検討すること」です。安全配慮義務とは、労働契約法第5条に基づき、使用者が労働者の生命・健康を守るために必要な配慮を行う義務を指します。具体的には、業務内容や配置の調整、産業医(50名以上の事業場では選任義務あり)や主治医への相談などが考えられます。再検査の結果を理由に一方的に採用を取り消すのではなく、本人とのコミュニケーションを通じて対応を検討することが重要です。
再検査や健康上の懸念が生じた場合の対応方法について、判断に迷われましたら、医学的知見と法的知識の両面からサポートできる専門家への相談がおすすめです。
就業規則・社内規程への記載と整備のポイント
雇入れ時健康診断に関する実施ルールを就業規則や社内規程に明記しておくことは、トラブル防止と円滑な運用のために不可欠です。記載がなければ、受診拒否や費用トラブルが起きた際に会社側に根拠がなくなります。
就業規則に盛り込むべき項目
就業規則には、少なくとも以下の内容を盛り込んでおくことを推奨します。
| 記載項目 | 記載内容の例 |
|---|---|
| 実施対象 | 雇い入れた常時使用する労働者(パート・有期を含む条件を明示) |
| 実施時期 | 入社日から〇週間以内に会社が指定する医療機関で受診する |
| 費用負担 | 法定健診費用は会社が負担する |
| 結果の取扱い | 健診結果は健康管理の目的のみに使用し、適正に管理する |
| 受診義務 | 労働者は会社の指示に従い健康診断を受診しなければならない |
前職の健診結果で代替できるか
入社者から「前の会社の健診結果を提出します」と言われるケースがあります。労働安全衛生規則第43条ただし書きにより、医師による健康診断を受けてから3ヶ月以内の者については、その結果を証明する書面を提出させることで雇入れ時健康診断の一部または全部を省略することができます。ただし「3ヶ月以内」という条件が重要で、それを超えていれば改めて実施が必要です。また、省略できるのは同等の検査項目が含まれている場合に限られます。規程にこの取り扱いを明記しておくと、現場での判断がスムーズになります。
規程整備後の運用ルール化
規程を整備するだけでなく、採用担当者が毎回迷わないよう「採用フロー」の中に健診手配のステップを組み込むことが重要です。内定通知と同時に健診案内を送る、入社1ヶ月前までに医療機関の予約を確認する、といったチェックポイントを採用チェックリストに入れるだけで、対応のばらつきは大幅に減らせます。専任人事がいない企業ほど、仕組み化によって属人的な判断を減らすことが運用の安定につながります。
まとめ
雇入れ時健康診断は、労働安全衛生法に基づく事業者の法的義務です。実施タイミングは「入社時(入社直後)」が原則であり、費用は会社負担が求められます。内定前・入社前の受診は任意の慣行にすぎず、その結果を採用選考の基準にすることは原則として認められていません。また、健診対象はパートタイム・有期雇用にも及ぶことを忘れずに確認することが必要です。
これらの対応を適切に行うには、就業規則や社内規程への明記と、採用フローへの組み込みが欠かせません。人事労務は経営に直結する重要な領域だからこそ、一人で抱えず外部の専門知識を活用することが、トラブル防止につながります。ウェルセンス株式会社では、専任人事のいない中小企業の経営者・担当者の方からのご相談を受け付けています。「現在の対応が法的に正しいか確認したい」「規程を整備したい」「再検査や採用後の対応で迷っている」といったご相談はお気軽にください。
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