「休職中のはずなのに、SNSで海外の物件を調べているのを見てしまった」——ある日突然、そんな情報が経営者の耳に入ることがあります。驚きと困惑が入り混じる中、「これは問題なのか」「どう動けばいいのか」「メンタル不調者に強く言っても大丈夫なのか」と、判断に迷うのは当然のことです。この記事では、休職中の社員が海外移住準備をしていた場合に、会社がとるべき対応を、法的根拠と実務の落とし穴も含めて整理します。
「療養専念義務違反」になるかどうかの判断軸
海外移住の準備行為が療養専念義務違反にあたるかどうかは、行為の内容・段階・休職の原因疾患との関係性によって異なります。一律に「違反だ」と断定することも、「問題ない」と見過ごすことも、どちらもリスクがあります。
療養専念義務の法的根拠
「療養専念義務」を直接定める法律は存在しません。ただし、労働契約法第3条5項が定める誠実義務(労使が互いに誠実に行動すべき義務)と、民法第1条3項の信義誠実の原則が理論的根拠となります。裁判例においても、休職中の療養専念義務は「就業規則に明記がなくても労働契約上当然に存在し得る」とした判断が示されています。つまり、就業規則に条文がないからといって、義務そのものが存在しないわけではありません。
違反かどうかを判断する4つの視点
休職中の社員の行為が療養専念義務違反かどうかを評価する際には、以下の4点を確認します。
- その行為が療養を妨げているか(回復を遅らせるリスクがあるか)
- 休職の原因疾患との関係性(精神疾患の場合、環境変化やストレスがどう影響するか)
- 会社への届出・許可の有無(就業規則に届出規定があるか)
- 行為の内容・頻度・規模(「情報収集段階」か「生活基盤の実質的な移転」か)
たとえば、「海外移住についてインターネットで情報を調べた」という段階と、「住民票を抜いて現地に渡航済み」という段階では、評価の重みがまったく異なります。「準備」という言葉でひとくくりにせず、具体的な行為の内容を確認することが最初のステップです。
精神疾患による休職者への対応で躊躇しがちな理由
メンタルヘルス不調による休職者の場合、「刺激を与えてはいけない」という意識が先行し、問題行為があっても動けない状態に陥りがちです。しかし、対応しないこと自体が放置のリスクを高めます。問題への対処と、本人への配慮は両立できます。連絡方法を書面やメールに限定する、産業医や主治医の意見を確認しながら進めるなど、配慮の形を工夫することが重要です。
専任人事がいない中では、対応判断に不安を感じるのは自然なことです。医学的・法的視点からの相談があれば、より自信を持って対応できます。
発覚の経緯と証拠の扱い方
対応の第一歩は事実確認です。ただし、発覚の経緯によって、情報の扱い方に注意が必要です。感情的に動く前に、何がどこまで確認できているかを整理しましょう。
発覚の主な経路と注意点
休職中の社員の海外移住準備が発覚する経路は、大きく3つに分かれます。SNS投稿の確認、他の社員からの報告、本人の言動・連絡内容です。いずれの場合も、「発覚した情報」をそのまま証拠として使えるとは限りません。たとえばSNS投稿は公開設定であれば閲覧自体に問題はありませんが、それだけで処分の根拠とするには不十分です。他の社員からの伝聞情報も、事実確認なしに使うと「根拠のない決めつけ」として後日問題になります。
事実確認のための記録整理
まず「いつ・どこで・誰が・何を確認したか」を書面で記録します。SNSのスクリーンショット、報告を受けた日時と内容、本人から受け取ったメールや連絡の記録などを時系列で整理しておきます。この記録は、後で本人と対話する際の根拠になるだけでなく、万一労務トラブルに発展した場合の会社の対応履歴としても機能します。感情的に動いてしまう前に、まず「手元にある情報を整理する」という作業を必ず踏んでください。
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会社がとるべき4つの対応手順
休職中の社員が海外移住準備をしていると発覚した場合、会社がとるべき対応は「確認→対話→判断→措置」という流れで進めます。いきなり処分に動くことは法的リスクが高く、手順を踏んでいない対応は後で無効と判断される可能性があります。
事実確認と状況の把握
まず最初に、把握している情報をもとに「行為の内容・段階」を確認します。前述の4つの判断視点(療養への影響・疾患との関係・届出の有無・行為の規模)に照らし、どのレベルの問題行為かを社内で評価します。この段階では本人に直接接触せず、社内情報の整理と、社労士・弁護士への初期相談を並行して行うことを推奨します。
本人との対話(事実確認面談)
次に、本人に対して「確認したい点がある」と伝え、書面または面談による事実確認を行います。この際、「問い詰める」のではなく「確認する」スタンスが重要です。精神疾患による休職者の場合は、主治医の意見を踏まえた上で接触のタイミングや方法を判断します。面談の場合は同席者を置き、記録を残します。本人の説明内容(なぜ海外移住準備をしているか、療養との関係をどう考えているか)によって、その後の対応方針が変わります。
対応内容の判断と措置の実行
事実確認と本人の説明を踏まえた上で、対応の内容を判断します。行為の重大性・悪質性・会社への影響・本人の認識・事前の指導の有無を総合的に評価し、注意指導・休職取消・懲戒処分・休職期間満了による雇用終了のどの対応が相当かを決定します。重要なのは、処分を実行する前に「なぜその処分が相当か」の理由を文書化しておくことです。労働契約法第15条は懲戒処分に「客観的に合理的な理由」と「社会通念上の相当性」を求めており、経緯の記録はこれを担保するために不可欠です。
| 行為の段階 | 評価の目安 | 対応の方向性 |
|---|---|---|
| 情報収集・検討段階 | 療養への直接影響が低い | 注意・指導と記録 |
| 物件見学・ビザ申請 | 生活基盤移転の具体的行動 | 事実確認面談→指導→届出義務の確認 |
| 住民票抹消・現地渡航 | 療養専念義務違反の可能性が高い | 休職取消・懲戒処分・期間満了を含む判断 |
就業規則に療養専念義務の規定がない場合の対処法
就業規則に療養専念義務の規定がなくても、対応できないわけではありません。ただし規定がない場合は、指導・注意の段階での対話と記録の積み重ねが特に重要になります。
規定がなくても対応できる理由
前述のとおり、療養専念義務は労働契約上の誠実義務として、就業規則に明記がなくても存在し得ます。したがって、「規定がないから注意もできない」という考え方は誤りです。ただし、規定がない状態での懲戒処分は、処分の根拠を巡って紛争になるリスクが高まります。まず注意・指導を丁寧に行い、記録を残していくことが、その後の対応の基盤になります。
今から整備すべき規定の内容
現在進行中の事案への対応と並行して、就業規則の整備を進めることができます。療養専念義務に関連して整備すべき主な項目は以下のとおりです。
- 休職中の療養専念義務の明示
- 居所変更・海外渡航の届出義務
- 定期的な状況報告(連絡・診断書提出)の義務
- 義務違反の場合の休職取消・復職拒否・懲戒処分への言及
- 休職期間満了による自然退職規定との接続
既存の休職者への適用については、規定を整備した時点で本人に周知することで、今後の義務として機能させることができます。ただし、遡及して過去の行為を新規定で処分することは原則として認められません。
従業員規模・体制別の対応ポイント
産業医が選任されている(従業員50名以上)会社の場合は、対話の前に産業医の意見を確認するプロセスを組み込むことが望ましいです。産業医がいない(50名未満)会社の場合は、社外の産業保健スタッフ(地域の産業保健センター等)や社労士への相談を早期に行い、医学的・法的両面の視点を確保することが重要です。専任人事がいない体制では、「誰がこの対応の担当窓口になるか」を最初に決めておくだけで、対応の質が大きく変わります。
やってはいけない対応と法的リスク
感情的に動いた結果、会社側が労務トラブルを抱えるケースは少なくありません。療養専念義務違反への対応で特に注意すべき禁止事項を確認しておきましょう。
発覚直後の即解雇・即処分
「海外移住の準備をしているなんて許せない」という感情から、事実確認や指導のプロセスを飛ばして解雇や懲戒処分に踏み切ることは、法的に無効と判断されるリスクが高いです。労働契約法第15条が定めるとおり、懲戒処分は客観的に合理的な理由と社会通念上の相当性を要します。軽微な違反への即解雇は、不当解雇として訴訟に発展した際に会社が敗訴するケースが多くあります。処分は「最後の手段」であり、指導・記録の積み重ねの上にあるものです。
証拠のない状態での断定・通告
「SNSで見た」「他の社員から聞いた」という情報だけを根拠に、「海外移住の準備をしているのはわかっている」と本人に通告することは避けてください。事実確認の機会を与えず、一方的に断定する対応は、後で事実と異なった場合に会社の信頼性を損なうだけでなく、名誉棄損リスクも生じます。情報は確認の糸口であり、処分の根拠ではない、という原則を守ってください。
対応を放置する「何もしない」リスク
反対に、問題行為を把握しながら何も対応しないことも問題です。後日、同種の問題が繰り返されたり、他の社員への示しがつかなくなったりするだけでなく、「会社は黙認していた」という事実が社内に定着してしまいます。「規定がないから動けない」「精神疾患だから刺激できない」という思い込みは、対応の先延ばしを正当化するものではありません。できる範囲から、記録と対話を始めることが大切です。
まとめ
休職中の社員が海外移住準備をしていると発覚した場合、会社がとるべき対応は「事実確認の整理→本人との対話→対応内容の判断→措置の実行」という流れが基本です。療養専念義務は就業規則に規定がなくても労働契約上の義務として機能し得ますが、規定がない場合は指導と記録の積み重ねが特に重要になります。行為の段階(情報収集か、住民票抹消・渡航済みか)によって対応の重さを見極め、感情的に動かず、プロセスを踏むことが会社を守ることにつながります。また、就業規則の整備は現在の事案への対応と並行して進めることができます。
判断に迷うときは専門家に頼る。人事判断を一人で抱えず、相談できる環境づくりが企業リスクを減らします。
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