「産業医面談を設定したのはいいけれど、何を事前に伝えていいか分からなくて…結局、何も情報がない状態で面談が始まってしまいました」。こうした声を、人事兼務の担当者からよく耳にします。メンタル不調の社員に関する情報を産業医に渡すことは、プライバシーの侵害にならないか、個人情報保護法に抵触しないか——不安が先立つあまり、必要な情報共有ができず、面談が機能しないケースは少なくありません。本記事では、法的根拠から実務的な情報の範囲・手続きまでを整理し、人事担当者が自信を持って産業医と連携できるよう解説します。
産業医への事前情報提供は「義務」である
結論から述べます。産業医への情報提供は「してもよいか」という任意の話ではなく、法律上、事業者に課された義務です。この前提を押さえることで、過度な躊躇が解消されます。
法的根拠:労働安全衛生法と2019年改正
労働安全衛生法第13条は産業医の職務を定め、同法第66条の4では事業者が健康診断の結果に基づく産業医の意見を聴かなければならないと規定しています。さらに2019年の法改正(労働安全衛生規則第14条の2)では、事業者が産業医に対して「労働者の労働時間に関する情報その他の産業医が労働者の健康管理等を適切に行うために必要な情報」を提供しなければならないことが明文化されました。
つまり、少なくとも時間外労働の状況や勤怠情報については、事業者が産業医に提供する義務があります。「情報を渡してよいか」と迷う前に、「渡さなければならない情報がある」という理解が出発点です。
個人情報保護法との関係:本人同意は必須ではない
健康情報は個人情報保護法上の「要配慮個人情報」に該当し、通常よりも厳格な取り扱いが求められます。ただし、同法第20条第2項は、法令に基づく場合については本人の同意なく取り扱える旨を定めています。労働安全衛生法に基づく産業医への情報提供は、この例外規定に該当します。
もっとも、「法的に可能」であることと「職場の信頼関係を守る」ことは別の話です。後述するように、本人への説明や同意確認のプロセスを踏むことが、実務上は重要です。
厚生労働省ガイドラインが示す考え方
厚生労働省は2019年に「労働者の心身の状態に関する情報の適正な取扱いのために事業者が講ずべき措置に関する指針」を策定しています。この指針は、健康情報の取り扱い目的を明確にすること、取扱者を限定すること、情報の範囲を就業上の措置に必要な範囲に絞ることを求めています。産業医に情報を提供する際も、「この情報を渡す目的は就業上の配慮判断のためだ」という軸を持っておくことが、実務上のブレを防ぎます。
何を・どこまで渡してよいか:情報の種類と範囲
提供可能な情報は「就業上の措置を判断するために産業医が必要とする客観的な情報」です。感情的な評価や憶測は含めず、事実と観察に絞ることが基本原則です。
積極的に提供すべき情報
以下の情報は、産業医が健康管理上の判断を行うために不可欠です。事業者として積極的に提供することが求められます。
- 直近の欠勤・遅刻・早退の日数と頻度
- 時間外労働時間(直近1〜3か月分)
- 業務パフォーマンスの客観的な変化(ミスの増加、納期対応の変化など)
- 職場環境・業務負荷の状況(繁忙期、人員変更、配置転換の有無など)
事実ベースで提供できる情報:上司の観察報告
「最近、元気がない」「ミスが増えた」「同僚への態度が変わった」といった上司からの口頭報告は、産業医にとって有用な情報です。ただし、提供する際は「上司の主観的な評価」と「客観的な事実」を区別して伝えることが重要です。「上司が心配している」という感情的な表現より、「直近1か月で報告漏れが4件あった」「週2回程度、昼休みに自席を離れない状態が続いている」のように事実を具体的に記載するほうが産業医の判断に役立ちます。
慎重に扱うべき情報:本人が打ち明けた内容
本人が人事担当者に「実は家庭の問題があって…」「以前うつ病の治療をしていたことがある」などと打ち明けた場合、その内容をそのまま産業医に渡すことは慎重に判断してください。こうした情報は本人が特定の相手に限定して開示したものです。産業医に伝える場合は、「本人からこのような話があったが、産業医への情報提供について本人に確認してよいか」と本人に一声かけることが、信頼関係の維持と実務の両立につながります。
| 情報の種類 | 具体例 | 提供の目安 |
|---|---|---|
| 勤怠情報 | 欠勤日数、遅刻・早退の頻度、時間外労働時間 | 積極的に提供する |
| 業務上の客観的観察 | パフォーマンスの変化、上司の事実ベースの報告 | 事実として整理して提供する |
| 職場環境・ストレス要因 | 業務負荷、人間関係の変化、配置転換の有無 | 就業配慮の判断材料として提供する |
| 本人が自ら開示した内容 | 家庭の事情、既往歴、精神科受診の事実など | 原則、本人に確認してから提供する |
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本人の同意は必要か:「同意」と「説明」の考え方
法的には、労働安全衛生法に基づく産業医への情報提供に本人の同意は必須ではありません。ただし、実務上は「説明と納得」のプロセスを踏むことが、後のトラブル防止と職場の信頼維持に不可欠です。
「同意」より「説明」を重視する
「同意を取るかどうか」という二項対立で考えるより、「面談の目的と情報提供の事実を本人に説明する」という視点が実務的です。面談設定の際に「産業医の先生に、最近の勤怠状況や業務の状況をお伝えした上で面談していただく予定です」と本人に説明することで、本人は「何を渡されたか分からない」という不安から解放され、面談への協力姿勢も引き出しやすくなります。
同意取得が特に有効なケース
本人が人事に個人的な事情(家庭問題、既往の疾患歴など)を打ち明けていた場合は、その内容を産業医に提供することについて、本人の明示的な同意を得ることを推奨します。また、社員との信頼関係が壊れやすい状況(ハラスメント被害を訴えている場合など)では、情報の共有範囲について事前に本人と合意しておくことが、後のトラブルを防ぎます。
就業規則・社内規程への記載が理想的
産業医への情報提供は、就業規則や健康管理に関する社内規程に明記しておくことが最善です。「産業医面談にあたって会社が必要な情報を提供すること」をあらかじめ規程として定めておけば、個別の同意取得に依存せず、組織として一貫した対応ができます。20〜50名規模の企業では、こうした規程整備が追いついていないケースも多いため、必要に応じて専門家に相談しながら整備を進めることをお勧めします。
産業医への情報提供のルール化に悩まれているなら、実務的なアドバイスが得られます。相談だけでも構いませんので、一度専門家に聞いてみてはいかがでしょうか。
どうやって渡すか:実務的な情報提供の手順
情報提供の方法は、口頭より書面が原則です。産業医が面談前に情報を整理し、面談の質を高めるためにも、事前に書面で共有することが実務の基本です。
情報提供シートを用意する
産業医に事前共有する情報は「産業医情報提供シート」のような書面にまとめます。記載すべき項目は、対象者の所属・役職・年齢、直近の勤怠状況(欠勤・遅刻・早退・時間外労働)、業務状況の変化、職場環境の背景情報、面談に期待すること(就業継続可否の意見、配慮事項の確認など)です。書式は産業医と相談して決めると、情報の過不足を防げます。
渡すタイミングと手段
面談の2〜3日前に書面(または安全なファイル共有)で提供するのが一般的です。FAX・メール・郵送のいずれを使う場合も、健康情報を含む書類であることを踏まえ、誤送信・誤配信が起きにくい手段を選んでください。産業医が企業と顧問契約を結んでいる場合は、情報の授受方法について事前に取り決めておくとスムーズです。
誰が渡すか:取扱者の限定
厚生労働省の指針は、健康情報の取扱者を必要な範囲に限定することを求めています。産業医への情報提供は、人事担当者(または健康管理担当者)が窓口となり、上司が直接産業医に連絡するような形は避けてください。また、提供した情報は記録として残しておき、誰が・いつ・何を・誰に渡したかを管理できる状態にしておくことが重要です。
面談後の情報管理:産業医から受け取った情報の扱い方
産業医面談後に受け取る意見書や所見は、就業上の措置に必要な範囲でのみ活用し、社内での共有範囲を限定することが原則です。
産業医意見は「就業措置の根拠」として使う
産業医面談後、産業医から「就業上の措置に関する意見書」を受け取ることがあります。この意見書に記載された内容(例:残業制限、業務軽減、休職の必要性など)は、経営者・人事担当者が就業上の措置を決定するための根拠として活用します。意見書の内容は、措置の決定に必要な最小限の関係者(経営者・人事・場合によっては直属上司)のみで共有し、関係のない社員に開示しないことが原則です。
「上司に何を伝えるか」を事前に整理する
産業医の意見を受けて就業配慮を行う場合、直属の上司への情報共有が必要になります。このとき、「産業医がこう判断した」という事実の枠を超えて、受診歴・診断名・詳細な症状などを上司に伝えることは避けるべきです。上司には「医師の意見として業務負荷を軽減することが望ましい」という結論のみ伝え、詳細な健康情報は人事担当者が管理する範囲に留めるのが適切です。
まとめ
産業医面談前の情報提供は「してよいか」ではなく、法的に求められている実務です。労働安全衛生法の改正により、勤怠情報や労働時間に関する情報は事業者が産業医に提供する義務があります。個人情報保護法との関係では、法令に基づく提供として本人同意は必須ではありませんが、本人への事前説明と職場の信頼維持の観点から、「何を渡すか説明する」プロセスを踏むことが実務上の正解です。提供する情報は「就業上の措置判断に必要な客観的事実」に絞り、書面で整理して面談2〜3日前に渡すことが基本形です。面談後の産業医意見書は、必要な関係者のみで共有し、詳細な健康情報が不必要に広がらないよう管理することも重要なセットで考えてください。
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