「4月入社の社員は4月、7月入社の社員は7月が昇給月……気づいたら昇給対応が毎月どこかで発生している」。成長期の会社でよくある状況です。社員が10名を超えたあたりから、入社時期の分散によって昇給管理が複雑になり、見落としや不公平感が生まれやすくなります。昇給時期を年1回に統一することは難しく聞こえますが、正しい手順を踏めば法的リスクを抑えながら実現できます。この記事では、就業規則の変更から社員説明まで、実務担当者がそのまま使える流れを解説します。
昇給時期がバラバラになる本当の理由
昇給時期がバラバラになる最大の原因は、「入社した月を昇給月にする」という慣習が積み重なることです。最初は管理しやすく見えますが、社員が増えるほど個別管理のコストが跳ね上がります。
入社月基準が生む管理コスト
社員が5名以下のころは「○月入社の△さんは□月が昇給月」という個別管理でも回ります。しかし20名を超えると、毎月いずれかの社員の昇給対応が発生し、給与計算・雇用契約書の更新・上長との評価面談が常に並走する状態になります。対応漏れが起きれば社員からの信頼を損ない、発覚した場合の修正作業も大きな手間です。
予算管理との致命的なズレ
経営者にとってより深刻なのが、人件費の予算管理です。期初に「今期の人件費総額はいくらか」を確定させようとしても、昇給月が分散していると月別の人件費が読めません。資金繰りの安定化や銀行への計画提出を考えたとき、昇給サイクルの統一は「人事の整理」である以前に「経営管理の基盤整備」でもあります。
就業規則の記載と実態のズレ
「昇給は年1回4月に行う」と就業規則に書きながら、実運用は入社月ベースになっているケースがあります。この状態は、就業規則の記載が形骸化しているだけでなく、社員から「規則通りに4月に上げてほしい」と主張される余地を生みます。逆に就業規則に昇給の規定がそもそもない会社も多く、どちらも早期の整備が必要です。
統一前に必ず確認すべき法的チェックポイント
昇給時期の統一は、やり方を誤ると「不利益変更」として労働トラブルの原因になります。着手前に3つの法的観点を確認してください。
不利益変更とは何か
労働契約法第9条は、使用者が労働者の同意なく労働条件を不利益に変更することを原則禁止しています。昇給時期の「後ろ倒し」、つまり従来より昇給が遅くなる変更は不利益変更に該当しうるため、社員個別の同意取得か、就業規則変更による合理的な変更手続き(労働契約法第10条)が必要です。一方、昇給時期の「前倒し」は原則として不利益変更にはなりません。後述する移行設計でも、この原則が基本方針になります。
就業規則の変更手続き
就業規則を変更する際は、労働基準法第90条に基づき労働者代表の意見聴取が必要です。これは「同意を得る」ことではなく「意見を聴く」ことであり、反対意見があっても手続き上は有効です。ただし変更後の就業規則は労働基準法第106条により全社員への周知が義務づけられます。周知方法は、書面での配布・社内イントラへの掲載・見やすい場所への掲示などが認められています。
雇用契約書の記載内容の確認
重要な落とし穴として、就業規則を変更しても「個別の雇用契約書に昇給月が明記されている場合」は個別契約が優先されることがあります(労働契約法第7条・第12条)。全社員の雇用契約書・労働条件通知書を確認し、昇給月や昇給条件の記載がある社員については、就業規則変更とは別に個別同意書の取得を検討してください。この確認作業を省くと、後から「契約書と違う」というトラブルに発展するリスクがあります。
移行設計の基本方針と具体的な手順
昇給時期の統一を進める際は、「前倒し統一」を原則とし、移行年度の人件費を事前にシミュレーションしてから実施時期を決定することが重要です。
前倒し統一を原則とする理由
仮に統一月を「毎年4月」に設定した場合、10月入社で翌年10月が昇給予定だった社員は、前倒しで翌年4月に昇給できます。これは不利益がないどころか社員にとって有利な変更です。問題は、10月入社で直前の10月に昇給したばかりの社員です。次の昇給まで18か月ほど空くため、不満が出やすくなります。こうしたケースには移行年度だけ「中間調整一時金」を支給する会社もあります。いずれにせよ、誰かが一方的に損をする設計は避けることが原則です。
移行前に行う人件費シミュレーション
前倒し統一では、一部の社員が移行年度に短いサイクルで2回昇給することになります。この「移行年度の人件費増加」を事前に計算せずに進めると、年度途中で予算を超過するリスクがあります。全社員の現在の昇給月・直近昇給日・予定昇給額を一覧にまとめ、統一後の昇給スケジュールに当てはめてシミュレーションしてから移行時期を確定してください。
人件費試算や個別契約書の確認など、判断ポイントが多い場合は早期に専門家に相談することで、設計ミスや手戻りを防げます。
移行の実務ステップ
おおむね以下の流れで進めると、来期からの運用開始が現実的になります。まず全社員の雇用契約書と現在の昇給月を棚卸しし、前倒し統一した場合の昇給スケジュールと人件費を試算します。次に就業規則の昇給条項を改定し、労働者代表の意見聴取と労働基準監督署への届出を済ませます。その後、社員への説明会を実施し、個別合意書が必要な社員には署名を取得します。最後に改定後の就業規則を周知して運用開始という流れです。
| フェーズ | 主な作業内容 | 目安期間 |
|---|---|---|
| 現状把握 | 全社員の昇給月・契約書記載内容の棚卸し | 1〜2週間 |
| 設計・試算 | 統一月の決定・移行年度の人件費シミュレーション | 2〜3週間 |
| 就業規則変更 | 条項改定・労働者代表意見聴取・労基署届出 | 2〜4週間 |
| 社員説明・同意取得 | 説明会の実施・個別合意書の署名(必要な社員のみ) | 2〜3週間 |
| 周知・運用開始 | 改定就業規則の配布・周知・新スケジュール運用 | 1週間 |
社員への説明で押さえるべきポイント
統一移行で社員の不満を抑えるには、「何が変わるか」よりも「なぜ変えるのか」と「誰も損をしない設計になっているか」を明確に伝えることが核心です。
説明すべき3つの内容
社員説明では次の3点を軸にまとめると伝わりやすくなります。ひとつ目は変更の理由で、「会社の成長に伴い人事制度を整備する」「予算管理の透明性を高める」といった経営的な文脈を添えると納得感が高まります。ふたつ目は個人への影響で、「あなたの次の昇給は○月になります」と個別に示すことが重要です。全体説明だけでは「自分はどうなるの?」という不安が残ります。みっつ目は懸念への回答として、昇給が遅れる社員がいる場合はその対処方針(中間調整の有無など)を正直に説明します。
昇給が遅れる社員への個別対応
前倒し統一を徹底しても、直前に昇給したばかりで次の昇給まで間が空く社員が出るケースは避けられない場合があります。こうした社員に対しては、個別面談の場で「移行経緯の説明」と「今後の評価・昇給方針」を丁寧に伝えることが離職防止につながります。中間調整一時金の支給は全社員への公平性の観点から線引きが難しい面もあるため、支給する場合は支給基準を明確にした上で実施してください。
説明のタイミングと形式
説明は就業規則変更の届出前に行うと、社員に「決まってから知らされた」という印象を与えます。就業規則の変更案を作成した段階で説明会を実施し、意見を受け付けるプロセスを設けると、社員の当事者意識が高まります。規模が小さい会社では全体説明後に個別質問の機会を設けるだけで、不満の多くが事前に解消されます。
会社規模・状況別の判断ポイント
統一移行の進め方は、就業規則の整備状況・社員数・雇用契約書の記載内容によって変わります。自社の状況を確認してから設計に入ることで、無駄な手戻りを防げます。
就業規則の整備状況による分岐
常時10名以上の労働者を使用する事業場では、就業規則の作成と労働基準監督署への届出が義務です(労働基準法第89条)。就業規則がすでにある会社は昇給条項の改定手続きを進めます。就業規則がない会社は、昇給規定を含む就業規則を新たに整備することが先決です。なお、就業規則がない場合でも雇用契約書に昇給月が書かれていれば個別契約として保護されるため、その扱いには注意が必要です。
社員数と合意取得の現実的な判断
- 10名未満:個別合意書の取得が現実的。全員との面談を通じて移行の説明と署名取得を行う。
- 10〜30名:就業規則変更手続きを軸にしつつ、雇用契約書に昇給月が明記されている社員には個別合意書を取得する。
- 30名以上:就業規則変更と周知を適切に実施することで対応できるケースが多いが、契約書記載の確認と必要に応じた個別合意は省略しない。
社労士との連携を推奨するケース
以下に該当する場合は、就業規則の変更前に社労士へ相談することを強くおすすめします。雇用契約書に昇給月が個別に明記されている社員が複数いる場合、過去に労使トラブルがあった場合、または変更後の就業規則が複数の事業場に適用される場合です。「相談のしかたがわからない」という方は、現状の困りごとと「昇給時期を統一したい」という目的を伝えるだけで、実務的なアドバイスを得られます。費用が不安な場合は初回相談の料金を事前に確認しておくと安心です。
昇給時期統一は経営基盤を整備する重要な施策ですが、人事だけで完結させようとするとミスや漏れが生じやすい。判断に迷う場面では遠慮なく外部の専門家と連携することが結果的に時間と労力を最短化します。
まとめ
昇給時期の統一は、人事管理の効率化だけでなく、経営の予算管理を安定させるための重要な整備です。進める際は「前倒し統一を原則にして不利益変更を避ける」「移行年度の人件費を事前にシミュレーションする」「就業規則変更と個別雇用契約書の両方を確認する」という3点が基本になります。一人で全手順を進めるのが難しいと感じた段階で、専門家に相談することが結果的に最も早い解決策になります。ウェルセンス株式会社では、専任人事のいない中小企業の人事制度整備・給与体系の見直しに関する相談を受け付けています。「何から始めればいいかわからない」という段階でも、お気軽にご相談ください。
よくある質問
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