「先月、古参の社員を取締役に昇格させたのですが、雇用保険や社会保険の手続きはどうすればいいんでしょう?」——人事担当を兼務している経営者から、こうした相談をよく受けます。役員就任は「おめでとう」で終わりがちですが、保険手続きを誤ると、後日ハローワークや年金事務所から指摘を受け、保険料の追徴や給付の無効化というリスクに発展することがあります。兼務役員の労働者性の判断は、雇用保険・労災保険・社会保険で判断ロジックが異なるため、一括りに「役員だから外れる」と処理してはいけません。この記事では、判断基準と各保険の手続きを整理します。
「兼務役員」とは何か——役員と労働者の二面性
兼務役員とは、会社法上の役員(取締役など)でありながら、同時に雇用契約に基づく労働者としての側面も持つ人物を指します。中小企業では「役員報酬を受け取りながら現場作業も担う」というケースが珍しくなく、この二面性が保険手続きを複雑にしています。
役員と労働者の違い
役員は株主から委任を受けて会社を経営する立場であり、会社との関係は「委任契約」です。一方、労働者は使用者の指揮命令のもとで働き、賃金を受け取る立場で、会社との関係は「雇用契約」になります。労働基準法第9条は労働者を「使用される者で賃金を支払われる者」と定義しており、この定義に当てはまるかどうかが保険適用の分岐点になります。
中小企業でよくある「実態は社員と同じ」ケース
たとえば、製造業の現場リーダーを取締役に昇格させた場合、登記上は役員でも、毎日ラインに入って上長の指示を受けて作業を続けているケースがあります。このような場合、「名目は役員・実態は労働者」という二面性が生じ、保険の扱いが曖昧になりがちです。重要なのは登記の名称ではなく、業務の実態です。
代表取締役は例外なく労働者性なし
なお、代表取締役については、いかなる実態があっても雇用保険の被保険者にはなれません。これは例外のないルールです。また、業務執行権を持つ役員も同様に雇用保険の対象外となります。この点は後述する判断基準の前提として押さえておいてください。
労働者性を判断する4つの基準
兼務役員が「労働者」として認められるかどうかは、指揮命令関係の実態・報酬の性格・業務の拘束性などを総合的に考慮して判断されます。厚生労働省の昭和60年労働基準局長通達(「労働基準法の『労働者』の判断基準について」)が実務上の指針として参照されており、以下の4点が核心的な判断軸です。
指揮命令関係の有無
上位者から具体的な業務指示を受けているか、出退勤の管理を受けているかが問われます。「部長や工場長から作業の指示を受けて動いている」という状態であれば、この基準を満たしやすくなります。逆に、自らの裁量で業務内容・時間・場所を決定している場合は、労働者性が認められにくくなります。
報酬の性格と区分
役員報酬(委任の対価)と賃金(労働の対価)が明確に分離されているかどうかが重要です。給与明細や役員報酬の支払い記録において、「役員報酬〇〇円・賃金〇〇円」と区分されていることが求められます。一本化して支払われている場合、雇用保険の継続申請が通らないケースがあります。
業務の拘束性・専属性
特定の事業所に専属的に勤務し、勤務時間・場所が定められているかどうかです。他の役員と異なり、就業規則の適用を受けて労働時間管理されている場合は、労働者性の根拠になります。
代表権・業務執行権の有無
代表取締役や業務執行権を持つ取締役は、会社を代表して経営判断を行う立場であり、指揮命令を受ける関係が成立しないため、労働者性は認められません。これは4つの基準の中でも、最初に確認すべき「足切り項目」です。役員登記の内容と定款・議事録で確認しましょう。
雇用保険——原則喪失、ただし継続できるケースがある
雇用保険は、役員就任と同時に原則として被保険者資格を喪失します。ただし、兼務役員として労働者性が認められる場合に限り、ハローワークへの届出によって資格を継続できます。
資格継続に必要な手続き
雇用保険の継続を希望する場合、役員就任後すみやかにハローワークへ「兼務役員雇用実態証明書」を提出します。この書類には、雇用契約書・賃金台帳・就業規則の適用状況・役員報酬と賃金の区分などを添付するのが一般的です。ハローワークの窓口によって求められる書類が若干異なることがあるため、事前に管轄のハローワークに確認することをお勧めします。
継続が認められる主な要件
| 要件 | 確認ポイント |
|---|---|
| 雇用関係が残存していること | 雇用契約書が存在し、労働時間・業務内容が明確か |
| 賃金と役員報酬が区分されていること | 給与明細・支払い記録で分離して記載されているか |
| 代表権・業務執行権がないこと | 登記事項・定款で確認 |
| 指揮命令関係が実態として存在すること | 上位者からの業務指示・勤怠管理の記録があるか |
手続きを失念した場合のリスク
役員就任後も雇用保険料の控除を続けたまま届出を怠っていた場合、退職時に「雇用保険が受給できない」という事態が発生することがあります。また、遡及して保険料の返金処理が必要になるケースもあります。就任のタイミングで必ず手続きを確認することが不可欠です。
労災保険——業務の実態で個別に判断される
労災保険についても役員は原則として対象外ですが、兼務役員が労働者として行っていた業務中に被災した場合は、業務の実態に基づいて個別に判断されます。
「労働者として行っていた業務」かどうかが分岐点
たとえば、製造ラインの作業中にケガをした場合と、役員会議への出席中にケガをした場合では、前者は労働者としての業務として労災認定される可能性があり、後者は役員としての行為とみなされる可能性が高くなります。同じ兼務役員であっても、「そのとき何をしていたか」が判断の軸になります。
特別加入制度という選択肢
役員として労災保険の対象にならない場合でも、労災保険法第33条以下に定める「中小事業主等の特別加入制度」を利用することで、任意に労災保険へ加入できます。特別加入は労働保険事務組合を通じて手続きを行います。現場作業を担う役員が在籍する場合は、この制度の活用を検討してください。
複数の保険対応が同時に必要になる場合、一つの窓口では判断が難しいことがあります。全体の状況を整理する際は、専門家への相談も検討してください。
健康保険・厚生年金——役員就任後も原則継続
社会保険(健康保険・厚生年金保険)は、雇用保険とは判断ロジックが異なります。法人の役員は「適用事業所に使用される者」(健康保険法第3条第1項・厚生年金保険法第9条)として、雇用関係の有無にかかわらず原則として被保険者になります。つまり、役員就任=社会保険喪失にはなりません。
報酬がある役員は継続が原則
役員報酬または賃金を受け取っている場合、社会保険の被保険者資格は継続されます。役員就任に伴って報酬額が変わる場合は、標準報酬月額の改定手続き(随時改定・月額変更届)が必要になることがあります。この手続きを怠ると、保険料の計算が実態と乖離することになるため注意が必要です。
無報酬役員・非常勤役員の扱い
役員報酬がゼロの無報酬役員は、社会保険の被保険者にはなれません。また、非常勤役員については、勤務実態・報酬の有無などを個別に確認したうえで、管轄の年金事務所に相談して判断を仰ぐことが求められます。「非常勤だから外れる」と単純に判断せず、必ず年金事務所に確認してください。
雇用保険との判断ロジックの違いを混同しない
よくある誤りが、「雇用保険で資格を喪失したから社会保険も喪失した」と思い込んで、社会保険の喪失手続きまで行ってしまうケースです。社会保険と雇用保険は根拠法令も窓口(年金事務所とハローワーク)も異なり、判断ロジックも別です。それぞれを独立して確認することが重要です。
🔗 複数の保険対応が同時に必要になる場合、一つの窓口では判断が難しいことがあります。全体の状況を整理する際は、専門家への相談も検討してください。 →
相談窓口と手続きのタイミングを把握する
兼務役員の労働者性判断は、保険の種類によって相談窓口が異なります。どこに何を確認すればよいかを把握しておくことで、手続きの遅延や誤りを防ぐことができます。
保険種別ごとの手続き先
- 雇用保険:管轄のハローワークへ「兼務役員雇用実態証明書」を提出。役員就任後すみやかに対応する。
- 労災保険(特別加入):労働保険事務組合経由で労働基準監督署へ。役員が現場作業を担う場合は就任前後に検討する。
- 健康保険・厚生年金:管轄の年金事務所へ。報酬額の変更がある場合は月額変更届の要否を確認する。
判断が機関によって異なる可能性がある
労働者性の最終判断は、事案によってハローワーク・年金事務所・労働基準監督署の判断が微妙に異なることがあります。「A窓口でOKと言われたのにB窓口ではNGと言われた」というケースが実務上ないわけではありません。そのため、複数の保険が絡む場合は、社会保険労務士などの専門家を介して一括して整理することが、手続きの齟齬を防ぐ有効な手段です。
自社の状況に応じた確認ポイント
まず、就任する役員が代表権・業務執行権を持つかどうかを登記事項・定款で確認します。次に、役員報酬と賃金が区分されているか給与規程・支払い記録を見直します。そのうえで、雇用契約書が存在するか・就業規則の適用対象になっているかを確認し、継続申請に必要な書類を整えてハローワークへ届け出るという流れで対応してください。
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まとめ
兼務役員の労働者性は、指揮命令関係・報酬の区分・業務の拘束性・代表権の有無という4つの基準を軸に総合判断されます。雇用保険は原則喪失ですが、要件を満たせばハローワークへの届出で継続できます。労災保険は業務の実態で個別判断され、特別加入制度の活用も選択肢です。社会保険は役員就任後も原則継続であり、雇用保険とは判断ロジックが異なります。それぞれの保険で窓口・根拠法令・判断基準が異なるため、「役員になったから全部外れる」という誤解が最大のリスクになります。
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