「様子がおかしいのはわかっている。でも、何と声をかければいいのかわからない」——多くの経営者・兼務人事担当者が感じているのは、まさにこの「言葉の詰まり」ではないでしょうか。受診を勧めたいが傷つけてしまいそうで怖い。何もしないほうが余計なトラブルを招かないのでは、とも思う。しかし実務の現場では、「何もしないこと」こそが会社にとって最大のリスクになりえます。この記事では、産業医がいない中小企業でも今日から使える受診勧奨の言葉と文例、NGワード、法的根拠、記録の残し方までを体系的に解説します。
「何もしない」が最大のリスクになる理由
メンタル不調の兆候を把握しながら放置した場合、会社は安全配慮義務違反として損害賠償責任を問われる可能性があります。「プライバシーだから触れない」という判断は、法的には義務不履行として不利に働く場合があります。
安全配慮義務の法的根拠
労働契約法第5条は、「使用者は、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」と定めています。これが安全配慮義務の明文根拠です。メンタルヘルスも「身体等の安全」に含まれると解釈されており、電通過労自殺事件(最高裁平成12年3月24日判決)をはじめとする裁判例が、使用者の予見可能性と結果回避義務を繰り返し認定してきました。つまり、「不調のサインを見ていたのに何もしなかった」という事実が、後の訴訟で会社側に不利な証拠となりえます。
「受診勧奨=病気の決めつけ」ではない
多くの管理職・人事担当者が誤解しているのが、「受診を勧めること=相手を精神疾患と決めつける行為」という思い込みです。実際には、「最近しんどそうに見えるので、一度専門家に相談してみませんか」という声かけは、風邪をひいた部下に「内科に行ってきたら?」と言うのと本質的に変わりません。厚生労働省も、受診勧奨を会社として適切な配慮の一環として推奨しています。不調を否定している社員にも、専門家への相談を選択肢として提示することは、会社の正当な義務的配慮の範囲内です。
動くタイミングを逃すと何が起きるか
受診勧奨が遅れると、症状が深刻化して長期休職に至るリスクが高まります。早期に専門家につなぐことができれば、短期の通院加療で復帰できるケースも少なくありません。会社の関与が早いほど、本人にとっても組織にとっても回復のコストが低くなります。「様子を見ましょう」の期間が長くなるほど、後から振り返ったときに「なぜ早く動かなかったのか」という問いに答えられなくなります。
受診勧奨の前に確認すること
誰が、何をもとに、誰に向けて受診を勧めるのかを事前に整理しておくことで、その後の対応が一貫します。産業医の有無・就業規則の規定・不調のサインの具体的な内容という三つの軸で確認してください。
産業医・就業規則の有無で変わる対応範囲
| 状況 | 受診勧奨の主体 | 受診命令の強制力 |
|---|---|---|
| 産業医あり・就業規則に受診命令規定あり | 産業医→人事→本人 | 強い(業務命令として運用可) |
| 産業医あり・就業規則に規定なし | 産業医→人事→本人 | 勧奨にとどまる |
| 産業医なし・就業規則に規定あり | 人事または上司 | 規定を根拠に命令可能な場合あり |
| 産業医なし・就業規則に規定なし | 人事または上司 | 安全配慮義務に基づく勧奨のみ |
就業規則に「業務上必要な場合、会社が指定する医師の受診を命じることができる」旨の条文があるかどうかを確認してください。この規定がないと、受診を「命令」として強制する法的根拠が弱くなります。ただし規定がなくても、安全配慮義務に基づく「勧奨」は当然に行えます。
不調のサインを具体的に把握する
受診勧奨の会話では、「なんとなく元気がなさそう」ではなく、具体的な行動変化を言語化しておくことが重要です。遅刻や欠勤の増加、ミスの頻発、表情の変化、以前と比べて口数が減った、などを上司が観察した内容を記録しておきましょう。会話の中で「最近こういうことが続いていますよね」と具体的な事実を示すことで、本人も「気づいてもらえた」と感じやすくなります。抽象的な声かけは、本人が「大丈夫です」と受け流しやすいため、具体的な観察事実を起点にすることが会話を成立させるコツです。
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管理職・人事担当者のための受診勧奨の伝え方と文例
受診勧奨の言葉は、「心配している」という事実と「あなたの判断を尊重する」という姿勢の二つを同時に伝えるのが基本形です。断定・決めつけ・比較を避け、相手が選択できる余地を残してください。
基本の声かけ文例(口頭)
以下は、上司または人事担当者が本人に直接話しかける際のセリフ例です。実際の会話では、個人面談の場を設けたうえで使用してください。
- 「最近、〇〇さんが少し疲れているように見えて、心配しています。もし体や気持ちに何か負担があるなら、一人で抱え込まずに、まず専門家に話を聞いてもらうのも一つの方法だと思っています。」
- 「無理に話してもらわなくても大丈夫です。ただ、最近こういう状況(具体的な事実)が続いていたので、会社として放っておくわけにはいかなくて。心療内科や相談窓口を使うことを、選択肢の一つとして考えてみてもらえませんか。」
- 「受診を強制したいわけではなく、あくまで〇〇さんの状態が心配だから伝えています。行くかどうかはご自身で決めてください。ただ、もし行ってみようと思ったときは、会社としても動きやすいように一緒に考えます。」
「こうした対応が本当に必要なのか、自社の状況に合っているのか判断に迷う」という場合は、産業医のいない中小企業こそ外部専門家への相談が役立ちます。
フォローアップのメール文例(記録用)
口頭で勧奨した後、内容をメールで補足することで記録が残ります。以下はそのひな形です。
- 件名:先日お話しした件について
- 本文:先日は時間を取ってくださりありがとうございました。今後の体調面が心配なため、もし可能であれば心療内科や相談窓口への受診をご検討いただけますと幸いです。受診に際して必要なことがあれば、遠慮なくご相談ください。引き続きサポートできることがあれば、対応いたします。
このメールは「受診しなければ不利益を与える」という内容を含まないよう注意してください。あくまで「心配している、サポートしたい」という意図が伝わる文体を保つことが重要です。
言ってはいけないNGワードとハラスメントの境界線
受診勧奨の場面で意図せず発してしまいやすい言葉が、相手を傷つけたり、ハラスメントとして問題になる場合があります。言ってはいけないのは、断定・比較・否定・脅迫の要素を含む表現です。
具体的なNGワードの例
- 「うつ病じゃないの?」「精神的に弱い人なんだね」(病名・性格の断定)
- 「気のせいでしょ」「甘えじゃないの?」(不調の否定)
- 「こんな状態じゃ仕事を続けてもらえない」「このままだとクビになるよ」(脅迫的表現)
- 「〇〇さんはもっとひどい状態でも頑張ってるよ」(比較)
- 「病院行かないなら自己責任だから」(責任転嫁)
どこからハラスメントになるか
パワーハラスメントの要件は、「優越的な関係を背景にした言動」「業務上の必要性・相当性を超えている」「就業環境を害する」の三つです(労働施策総合推進法第30条の2参照)。受診勧奨の文脈でこれに該当しやすいのは、受診しないことを理由とした降格・評価不利益の示唆や、「精神的に弱い」などの人格否定です。一方で、具体的な行動変化に基づいて「専門家への相談を勧める」という行為自体は、適切に行われる限りハラスメントにはなりません。言葉の選び方と、伝える意図の透明性が境界線を分けます。
本人が「大丈夫」と言い張る場合の対応
本人が不調を否定している場合でも、「大丈夫です」という言葉だけで判断してその場を終わらせてしまうのは得策ではありません。「そう言ってもらえると安心しますが、もし状況が変わったときはいつでも話してください」と伝えたうえで、会話の記録を残しておきましょう。面談の日時・伝えた内容・本人の反応を簡単にメモに残しておくことが、後の対応の証拠になります。一度で完結しようとせず、継続的に状態を確認する仕組みをつくることが重要です。
受診先の案内と社外専門家への橋渡し
産業医がいない中小企業でも、社外の専門リソースを活用することで受診への橋渡しは十分に行えます。本人が選べるよう複数の選択肢を提示し、会社が強制しない姿勢を示すことが信頼関係の維持につながります。
案内できる受診先の種類
- 心療内科・精神科:症状が継続している場合の第一選択。「精神科」に抵抗感がある本人には「心療内科」と伝えると受け入れやすい場合がある
- かかりつけ医:まず相談しやすい入口として案内できる。必要に応じて専門医に紹介状を書いてもらえる
- EAP(従業員支援プログラム):外部の相談窓口サービス。本人が会社を介さずに相談できるため、心理的ハードルが下がりやすい
- 都道府県の労働者健康安全機構・産業保健総合支援センター:産業医がいない企業でも無料で相談できる公的窓口
案内する際の注意点
受診先を提示する際は、「この病院に行きなさい」と特定の医療機関を指定するのではなく、「こういった選択肢があります」と複数を提示することが原則です。また、診断の結果や病名を会社に報告するよう求めることは、要配慮個人情報(個人情報保護法第2条第3項)に関わるため、本人の同意なく強要することはできません。「診断書があれば対応しやすい部分もありますが、必須ではありません」という伝え方が適切です。
記録の残し方と個人情報の取り扱い
受診勧奨を行った事実・内容・日時を記録に残しておくことは、会社が適切な対応をとった証拠として機能します。記録は詳細でなくてよく、「誰が・いつ・何を伝えたか」が後から確認できる形であれば十分です。
記録として残すべき内容
- 面談の日時と場所(個室での面談であることも記録)
- 出席者(上司・人事担当者・本人)
- 観察された不調のサイン(具体的な行動・言動)
- 伝えた内容の要旨(使った文言を正確に残す必要はないが、「受診を勧めた」「強制ではないと伝えた」などのポイント)
- 本人の反応(「了解した」「大丈夫と言っていた」など)
- 次回のフォロー予定
個人情報・家族への連絡に関するルール
受診の有無・診断内容・病名は、要配慮個人情報として本人の同意なく第三者に開示することはできません。上司への共有も「業務上の必要性」と「本人の同意」を根拠に行うのが原則です。家族への連絡については、本人が同意している場合や、本人が連絡できない状態(緊急性がある場合)を除き、原則として本人を通じて行います。「家族に言っておいてあげた」という善意の行動が、後にトラブルの原因になるケースがあるため注意が必要です。
まとめ
メンタル不調が疑われる社員への受診勧奨は、「触れないほうが安全」ではなく、「適切に関与することが会社の義務」です。労働契約法第5条に基づく安全配慮義務を根拠として、会社は不調のサインを見逃さず、具体的な行動変化を把握したうえで、断定・脅迫・比較を避けた言葉で受診の選択肢を提示することが求められます。産業医がいない場合も、産業保健総合支援センターやEAPなどの社外リソースを活用することで対応の幅は広がります。また、勧奨の事実は記録として残しておくことが、後の法的リスクを軽減する実務上の安全策です。
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