「復職した社員から『フレックスにしてほしい』と言われて、断れずに認めてしまった。でも、これって先例になるんじゃないか……」。そんな不安を抱えている人事担当の方は少なくありません。メンタル不調からの復職支援は、本人への配慮と組織全体のルールのバランスを取るのが難しく、「とりあえず様子を見ながら対応する」という対処が積み重なりがちです。この記事では、復職社員への個別対応が「先例」や「慣行」になるリスクと、それを防ぐための具体的な手順を実務目線でわかりやすく解説します。
「先例」と「慣行」はどう違うのか、なぜ怖いのか
個別対応が「先例化」するリスクは、対応の積み重ねによって「会社はこういう扱いをする」という合理的な期待が形成された時点で発生します。これを労働法の世界では「事実たる慣行」と呼び、場合によっては法的拘束力を持ちます。
「先例」が問題になる場面
たとえば、復職した社員Aさんに「しばらくの間、フレックスで対応します」と口頭で伝え、そのまま半年が経過したとします。その後、「通常勤務に戻ってください」と会社が求めると、Aさんから「労働条件の不利益変更だ」と主張されるリスクが生じます。また、別の社員Bさんが「なぜ自分には認めてもらえないのか」と公平性を問題にするケースも起こりえます。
「事実たる慣行」が成立する条件
慣行が法的な意味を持つには、一般的に「同一条件での対応が繰り返されており、労使双方がそれを当然のルールとして認識している状態」が必要とされています。つまり、一度の対応ですぐに慣行化するわけではありませんが、期間・目的・条件を明示しないまま漫然と続けると、その閾値に近づいていきます。口頭での約束だけで書面がない場合は特に注意が必要です。
「先例」と「慣行」の違いを整理する
| 概念 | 内容 | 法的リスクの程度 |
|---|---|---|
| 先例 | 過去に一度対応した事実が他の社員の要望根拠になる | 中程度(交渉・説明義務が発生) |
| 事実たる慣行 | 繰り返された対応が暗黙のルールとして定着した状態 | 高い(法的拘束力が発生しうる) |
合理的配慮としてのフレックス対応、どこまでが義務か
フレックスタイム制度の新設は合理的配慮の義務に含まれません。ただし、既存の運用の範囲内での時間的な調整(始業時刻の個別変更など)は、状況によって義務となる場合があります。
合理的配慮の義務が発生する条件
障害者雇用促進法第36条の3は、精神障害を含む障害のある労働者に対する合理的配慮の提供を事業主に義務づけています。対象となるのは、障害者手帳を持っている社員や、会社が障害の存在を認識できる状況にある社員です。うつ病で休職した社員が復職する場合、診断書などを通じて会社が状況を認識していれば、合理的配慮の義務が生じる可能性があります。
「義務の範囲」と「任意の配慮」の境界
合理的配慮はあくまで「事業主に過重な負担を課さない範囲」が前提です。たとえば「フレックス制度がない会社でフレックス制度を新設すること」は義務には含まれません。一方、「始業時刻を1時間ずらす」「週に一度の通院を有給で認める」といった現行の運用を柔軟に適用することは、義務となりうる配慮の範囲に入ります。重要なのは、社員の要望をそのまま受け入れることではなく、「代替案を含めた検討プロセスを経ること」と「その記録を残すこと」です。
断る場合も「プロセス」が法的に重要
「フレックスは難しい」と判断した場合も、単に断るだけでは不十分です。「なぜ対応できないか」「代わりにどんな配慮が可能か」を検討し、その結果を文書で残しておくことが、後のトラブル防止につながります。合理的配慮の義務は「結果の提供」ではなく「プロセスの実施」にあると理解しておきましょう。
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就業規則に書いていない個別対応は有効か、問題になるか
就業規則にない個別対応は、労働条件を上回る方向であれば有効です。ただし、書面化されていなければ後のトラブルの原因になります。
労働契約法が定める「個別合意」のルール
労働契約法第7条・第10条では、就業規則が集団的ルールの基準であり、個別の合意でその水準を上回ることは可能としています。一方、就業規則の水準を下回る個別合意は原則無効です(労働契約法第12条)。復職社員へのフレックス的な対応は、就業規則を上回る方向の個別合意にあたるため、合意自体は有効です。問題は、この合意が口頭だけで書面化されていない場合に起こります。
「口頭の約束」が後から問題になるケース
「しばらくの間だけ」という口頭のやりとりで始めた時差出勤が1年継続したとします。会社側は「仮の対応のつもりだった」と思っていても、社員側は「認められた労働条件」と認識しており、通常勤務への切り替えを求めると紛争に発展するケースがあります。後から「言った・言わない」の問題にならないよう、対応を始める段階で書面に落とすことが不可欠です。
就業規則がない・古い会社の場合の注意点
就業規則の作成義務は常時10人以上の労働者を使用する事業場に発生します(労働基準法第89条)。それ以下の規模でも、個別労働契約や社内通達で労働条件を文書化しておくことは実務上の必須事項です。就業規則がない状態で個別対応だけが積み重なると、会社全体のルールが曖昧になり、後の労務リスクが高まります。
先例化を防ぐための実務的な対応手順
先例化を防ぐには「期間・目的・条件を書面で明示すること」と「定期的な見直し条項を設けること」が核心です。口頭ではなく文書で合意し、終了の条件を最初から定めておくことが重要です。
復職支援措置の書面化に盛り込む項目
個別の復職支援措置を書面化する際は、以下の内容を盛り込むことで、後の紛争リスクを大幅に減らすことができます。
- 措置の内容(例:始業時刻を9時から10時に変更)
- 措置の目的(例:復職後の体調安定を支援するための時限的措置)
- 適用期間(例:復職日から3か月間)
- 見直しの条件・タイミング(例:3か月後に産業医の意見を踏まえて再協議)
- 本人・会社双方の署名欄
産業医・主治医の意見を「根拠」として活用する
個別対応の内容を医師の意見書・診断書に基づいて設定することは、非常に重要な実務上の工夫です。「会社が個人的に特別扱いした」ではなく、「医学的根拠のある配慮として実施した」という位置づけになるため、他の社員からの公平性への異議申し立てに対しても合理的な説明が可能になります。産業医がいない場合は、主治医の意見書を活用しましょう。
他の社員への説明と個人情報保護の両立
「あの人だけ特別扱いでは」という声が上がったとき、病名や診断内容を他の社員に明かすことは個人情報・プライバシーの問題があります。「健康上の理由による会社との個別合意に基づく対応です」という範囲での説明で足ります。重要なのは、「ルールの例外ではなく、制度の枠組みの中で行っている配慮だ」と説明できる根拠を会社側が整理しておくことです。
従業員規模・体制別の判断ポイント
合理的配慮の対応範囲や書面化の方法は、会社の規模・産業医の有無・就業規則の整備状況によって変わります。自社の状況に当てはめて判断できるよう、主なケースを整理します。
産業医がいない・就業規則が整備されていない場合
従業員50人未満の事業場は産業医の選任義務がありません。この場合、主治医の意見書が配慮の根拠として中心的な役割を果たします。就業規則が未整備であれば、少なくとも個別の労働条件通知書や覚書を作成し、双方で署名する運用を早急に整えることをお勧めします。書面がない状態での個別対応は、トラブルのリスクが最も高い状態です。
就業規則はあるが「復職規程」がない場合
就業規則本体はあっても、復職に関する手続きや配慮措置の規定がないケースは中小企業では珍しくありません。この場合、「復職支援に関する運用ガイドライン」などの社内文書を別途作成し、個別合意書と組み合わせて運用する方法が現実的です。会社のルールとして復職支援を位置づけることで、個別対応が「特例」ではなく「制度の運用」として説明できるようになります。
産業医がいる・就業規則が整備されている場合
産業医が選任されており、就業規則に復職規定がある場合は、個別対応の根拠として産業医の意見書を活用し、就業規則の復職規定に基づいて措置の内容を定めることができます。この場合でも、個別合意書の作成と定期的な見直し面談の実施は必須です。整備された環境であっても、口頭運用だけで進めると慣行化のリスクはなくなりません。
個別対応の書面化は、本当は「手間」ではなく「後のトラブル防止への投資」です。人事だけで抱え込まず、早めに専門家に相談することで、判断ミスを防ぎ、より安心した運用が実現できます。
まとめ
復職社員へのフレックス的な個別対応は、「期間・目的・条件を書面で明示し、見直し条項を設ける」ことで先例化・慣行化のリスクを大きく下げることができます。合理的配慮の義務はフレックス制度の新設までは求めておらず、代替案の検討とそのプロセスの記録が法的には重要です。就業規則外の個別対応は上回る方向であれば有効ですが、口頭のみでは後の紛争リスクが高まります。産業医・主治医の意見を根拠とし、書面で合意することが実務上の基本です。
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