「休んでいる社員がかわいそうだから、とりあえず給与を払い続けている」——その善意が、思わぬリスクを生んでいるかもしれません。傷病手当金と自社給与は「別々のお金だから問題ない」と思いがちですが、健康保険法の仕組み上、両方を同時に全額受け取ることは原則できません。二重払いの状態が続くと、社員が過払い受給として返還請求を受けるケースもあります。この記事では、仕組みの基本から就業規則への落とし込み方まで、専任人事がいない会社でも実践できる形で整理します。
傷病手当金と給与が「二重払い」になる仕組み
傷病手当金は、会社から給与が支払われている場合、その金額に応じて支給額が自動的に調整されます。「両方もらえる」状態は原則として起こらない設計になっています。
差額支給の原則とは
健康保険法第108条は、報酬が支払われる場合の傷病手当金の調整について定めています。具体的には、会社が支払った報酬の日額と傷病手当金の日額(標準報酬日額の3分の2)を比較し、報酬が上回れば傷病手当金は支給されず、報酬が下回れば差額のみが支給されます。たとえば傷病手当金の日額が6,000円で、会社が支払った報酬の日額が4,000円であれば、支給されるのは差額の2,000円だけです。
問題が起きる「申告漏れ」のパターン
調整の仕組みが機能するのは、傷病手当金の申請書にある「事業主記載欄」で、会社が給与支払いの有無と金額を正確に記載した場合に限られます。ここに「報酬支払いなし」と記載されていたり、給与を払っている事実を申告しなかったりすると、傷病手当金が全額支給されてしまいます。その結果、社員は本来受け取れない金額を受給した状態となり、協会けんぽや健康保険組合から返還請求を受けることになります。会社側も証明書類に誤りがあったとして調査対象になる可能性があります。
「善意の給与支払い」が不正受給リスクを高める逆説
中小企業では「休んでいる社員をサポートしたい」という気持ちから、就業規則上の定めがないまま給与を払い続けるケースが少なくありません。しかしその場合、申請書の記載が不正確になりやすく、社員が意図せず過払い受給の状態に陥ることがあります。会社が「知らなかった」では済まない場面もあるため、仕組みを理解したうえで運用を整えることが会社・社員の双方を守ることになります。
休職中の給与取り扱いパターンと選び方
休職中の給与をどう扱うかは、法律で一律に決まっているわけではありません。会社の規模や方針に応じて、無給・差額補填・一部支給のいずれかを選択し、就業規則に明記することが求められます。
主な給与取り扱いの選択肢
| パターン | 内容 | メリット・注意点 |
|---|---|---|
| 無給とする | 休職期間中は給与を一切支給しない | 管理がシンプル。傷病手当金との調整も不要。社員の生活不安に配慮した説明が必要 |
| 差額補填する | 傷病手当金との差額を会社が補填し、休職前の給与水準に近づける | 社員の安心感が高い。申請書の記載・金額計算が複雑になるため運用コストがかかる |
| 一部支給する | 基本給の一定割合(例:50%)を支給する | 傷病手当金との調整が発生する。支給割合と期間の上限を規程で明確にする必要がある |
会社の状況に応じた判断基準
従業員数が20名未満で人事担当者が専任でいない場合は、管理の手間が少ない「無給とする」パターンが運用しやすい選択肢です。一方、30名を超えてきた規模感や、エンジニア・専門職など採用コストが高い職種が多い場合は、差額補填や一部支給によって社員の安心感を維持する意義が高まります。いずれにしても、「方針を決めて規程に書く」こと自体が最も重要です。曖昧なまま個別対応を続けると、社員間の不公平感やトラブルの原因になります。
実際の運用では、有給消化のタイミングや申請書の記載で迷う場面が多く出てきます。判断に自信がない場合は、社会保険労務士などの専門家に個別相談しながら進めることが、トラブル回避につながります。
傷病手当金の支給期間が終わった後の取り扱い
傷病手当金は、健康保険法第99条に基づき、同一の傷病につき通算1年6か月が支給上限です。この期間を過ぎても休職が続く場合、社員は傷病手当金を受け取れなくなります。この局面での給与・休職期間の取り扱いを規程上整理していない会社は少なくありません。「傷病手当金の受給終了後も休職を継続できるか」「その場合の給与はどうなるか」を規程に明示しておかないと、休職満了時のトラブルにつながります。
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就業規則(休職規程)の整備ポイント
休職中の給与に関するトラブルのほとんどは、就業規則に具体的な定めがないことが原因です。「有給消化後は無給」という一文だけでは不十分で、傷病手当金との関係を含めた条項を整える必要があります。
休職規程に盛り込むべき項目
- 休職の開始要件(医師の診断書の提出など)
- 休職期間の上限(勤続年数に応じた設定が一般的)
- 休職中の給与の取り扱い(無給・差額補填・一部支給のいずれか)
- 傷病手当金の受給期間終了後の取り扱い
- 休職期間満了時の取り扱い(自動退職とするかどうか)
- 復職の手続き(産業医意見・試し出勤の扱いなど)
給与条項の文例
以下は、無給とするパターンの条項文例です。自社の方針に合わせて調整してください。
【文例A:無給とする場合】
「第○条 休職期間中は、原則として賃金を支給しない。ただし、会社が必要と認めた場合はこの限りでない。なお、健康保険の傷病手当金の申請については、会社は必要な証明を行うものとする。」
【文例B:差額補填とする場合】
「第○条 休職期間中の賃金は無給とする。ただし、傷病手当金の受給額が休職前の標準月額報酬の3分の2を下回る場合、その差額を会社が補填する場合がある(会社の判断による)。」
文例はあくまでも参考であり、実際の規程整備は社会保険労務士や専門家に確認しながら進めることを推奨します。
既存規程の見直しチェックポイント
すでに就業規則がある会社では、次の点を確認してください。休職中の賃金について具体的な記載があるか、傷病手当金との調整について言及があるか、休職期間の上限と満了後の扱いが明示されているか——これら3点が曖昧なままであれば、今が見直しのタイミングです。特に、コロナ禍以降にメンタルヘルス不調による休職が増えた企業では、規程が実態に追いついていないケースが目立ちます。
傷病手当金申請書の「事業主記載欄」の正しい書き方
会社が申請書の事業主記載欄に誤った情報を記載することが、二重払いトラブルの直接的な原因になります。記載の意味を正確に理解した上で対応することが、会社と社員の双方を守ります。
事業主記載欄で求められる情報
傷病手当金の申請書(協会けんぽの場合)には、事業主が証明する欄があります。主な記載内容は、休職(欠勤)期間の確認、その期間中に報酬(給与)を支払ったかどうか、支払った場合はその金額です。この欄の情報をもとに、協会けんぽが差額支給の計算を行います。
よくある誤記載と防ぎ方
多いのは「有給休暇を消化した期間は給与を支払っているが、申請書上では『報酬なし』と記載してしまう」パターンです。有給休暇中は給与(報酬)が発生しており、その期間は傷病手当金の待期期間(連続3日間)に含まれません。また、有給消化後に無給の休職に入った場合でも、タイミングをずらして正確に記載しなければなりません。記載に迷う場合は、協会けんぽの窓口や社会保険労務士に確認することが確実です。
産業医・就業規則がない会社での現実的な対応
産業医の選任義務は常時50人以上の事業場に生じます(労働安全衛生法第13条)。それ未満の会社では産業医がいないことがほとんどで、申請書類の対応も担当者が一人で抱えがちです。こうした状況では、申請の都度、社会保険労務士や外部の支援機関に確認する体制を作ることが現実的です。「自分だけで判断して記載する」ことのリスクを認識した上で、適切にサポートを活用してください。
復職前後の給与・手当の調整をスムーズにするために
復職のタイミングで給与と傷病手当金の切り替えが発生します。ここでの取り扱いを事前に整理しておかないと、社員の不安や認識のずれが生じやすくなります。
復職直後の給与と傷病手当金の関係
復職後に通常の給与が支払われれば、傷病手当金は支給されません(または差額のみ)。ただし、試し出勤(リハビリ出勤)の期間中に会社が「見舞金」や「手当」として一定額を支払う場合は、その金額が報酬とみなされるかどうかを事前に確認する必要があります。報酬とみなされれば傷病手当金の調整対象になります。
短時間復職・段階的復職時の注意点
精神疾患や長期休職後の復職では、週3日・1日4時間など段階的に勤務を増やすケースが増えています。この場合、支払われる給与(時間給や日割り額)と傷病手当金の差額支給が混在するため、月ごとの計算が複雑になります。段階的復職の仕組みを就業規則やリターンプランに盛り込み、給与計算の担当者が迷わないよう手順を整備しておくことが重要です。
まとめ
傷病手当金と給与の二重払いは、悪意がなくても起きます。健康保険法第108条による差額支給の仕組みを理解した上で、休職中の給与取り扱いを就業規則に明記し、申請書の事業主記載欄を正確に記載することが、会社と社員の双方を守る基本です。まず現状の就業規則に「休職中の賃金」に関する条項があるかを確認し、曖昧であれば早めに整備に着手してください。
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