「退職金は規程に書いていないけど、ずっと払ってきた。これって、やめられないの?」——中小企業の経営者や人事担当者から、こうした問い合わせは珍しくありません。創業期から「なんとなく」支給してきた退職金が、いつの間にか会社を縛るルールになっている可能性があるのです。慣行による退職金には法的な拘束力が生じることがあり、廃止・変更には適切な手順が必要です。この記事では、慣行退職金の法的な位置づけから、規程整備の具体的なステップまでを実務目線で解説します。
慣行退職金に法的拘束力は生じるのか
結論から言えば、規程がなくても慣行による退職金は「払い続けなければならない義務」になり得ます。裁判所は過去の支給実績や双方の認識をもとに、慣行が労働契約の一部を構成しているかどうかを総合的に判断します。
法的拘束力を生む3つの要素
慣行が労働契約の内容(すなわち会社が負う法的義務)になっているかどうかは、民法92条の「事実たる慣習」の考え方に準じ、主に次の3つの要素で判断されます。
| 要素 | 具体的な確認ポイント |
|---|---|
| 反復継続性 | 複数年にわたって退職者全員(または一定範囲)に繰り返し支給されてきたか |
| 規範的意識 | 経営者も社員も「退職時には支払われるもの」と認識していたか |
| 明確性 | 支給額の計算方法や対象範囲がある程度決まっていたか |
3要素が揃う場合、退職金は労働契約の内容とみなされ、会社が一方的に廃止・減額することは困難になります。大阪高裁昭和45年判決をはじめ、慣行が法的拘束力を持つと判示した裁判例は複数存在します。
「既得権」という考え方を理解する
退職金には「既発生部分」という概念があります。これは、社員が在籍した期間に応じてすでに積み上がった権利のことです。慣行退職金であっても、在職中の社員が過去に働いた分に対応する退職金の権利は、慣行が法的拘束力を持つと判断されれば同様に保護される可能性があります。
廃止・減額を検討するとき、最もトラブルになりやすいのが「今いる社員の既発生部分への影響」です。たとえば、勤続10年の社員が廃止の決定を受けた時点で、10年分の退職金相当額が既に権利として積み上がっていると見なされるケースがあります。この点を軽視したまま「明日から退職金はなし」と宣言すれば、訴訟リスクが生じます。
規程がない状態でも労働契約の内容になり得る根拠
労働契約法第6条・第7条は、労働契約の成立や就業規則による規律について定めています。口頭での約束、採用時の説明資料、あるいは就業規則に記載のない社内慣行であっても、労使双方が合意した内容として労働契約に組み込まれることがあります。「書いていないから無効」という単純な話にはならない点を、まず経営者として把握しておく必要があります。
廃止・変更を行う際の法的な枠組み
慣行退職金を廃止・変更するには、就業規則の不利益変更に関するルール(労働契約法第9条・第10条)に準じた対応が必要です。単に「規程がないから自由に変えられる」という判断は危険です。
就業規則に明記されている場合の手続き
退職金の内容がすでに就業規則や退職金規程に記載されている場合、廃止・減額は「労働条件の不利益変更」に該当します。労働契約法第10条は、不利益変更が有効になるための条件として以下を求めています。
- 変更に合理的な理由があること(経営状況の悪化、制度の公平化など)
- 変更内容が労働者に周知されていること
- 不利益の程度・経営上の必要性・代替措置の有無・労使間の交渉経緯などを総合的に考慮して「合理性」が認められること
不利益の程度が大きいほど、合理性の立証は厳しくなります。退職金の全廃は「不利益の程度が極めて大きい」変更として、高い合理性が求められます。
慣行しかない場合(規程を新設するケース)
就業規則も退職金規程もなく、慣行だけが存在する場合、規程を新しく作成することになります。ここで注意が必要なのは、「新設だから自由に決められる」とはならない点です。既存社員にとって不利益な内容(慣行より低い水準での明文化、または廃止の明記)を含む場合には、就業規則の不利益変更と同等の手続きが求められると解釈されるリスクがあります。
手続きとしては、まず労働基準法第90条に基づく労働者代表への意見聴取が必要です。次に、同法第89条に基づき所轄の労働基準監督署へ就業規則(退職金規程)を届け出ます。意見聴取は「同意」ではなく「意見を聞くこと」ですが、反対意見が多い場合には変更の合理性を補強する根拠が別途必要になります。
規程整備の手順そのものに不安がある、または法的なリスク判断に確信が持てない場合は、事前に専門家に相談することで安心が得られます。
個別同意の取得がリスクを下げる
不利益変更のリスクを実務的に低減するために有効なのが、労働者個人からの同意取得です。最高裁平成28年2月19日判決(山梨県民信用組合事件)は、同意の有効性について「形式的な署名・押印があれば足りるものではなく、労働者が自由な意思に基づいて同意したかどうか」を実質的に判断すると示しました。同意書を取得する際は、変更内容をわかりやすく説明した上で、署名を強制するような状況を避けることが重要です。
慣行退職金の実態を把握するための棚卸し
規程整備を進める前に欠かせないのが、現在の慣行の実態を文書として整理することです。「なんとなく払ってきた」状態のままでは、何を変えるのかの出発点が定まりません。
支給実績の洗い出しと確認項目
過去の退職者について、以下の情報を整理することから始めます。支給の有無・支給額・在籍年数・退職理由(自己都合・会社都合)・支払時期などをリスト化してください。給与明細や銀行振込の記録、あるいは退職時の合意書(あれば)を根拠資料として集めます。
このとき確認したいのは、支給額に一定のパターンがあるかどうかです。「勤続年数×月給×係数」のような暗黙の計算式が実態として使われていた場合、明確性の要件を満たす可能性が高く、法的拘束力が認められやすくなります。逆に支給額がまったくバラバラであれば、明確性が低いとして拘束力が認められにくい場合もあります。
現在の就業規則の状態を確認する
就業規則が10人以上の事業場に存在するかどうかによって、対応が異なります。
- 常時10人以上の労働者を使用する事業場:就業規則の作成・届出が法律上の義務(労働基準法第89条)。退職金に関する定めがある場合は就業規則への記載も義務。
- 常時10人未満の事業場:就業規則の作成義務はないが、作成することで慣行を明確化・整理できる。
就業規則はあるものの退職金の記載がない場合、「退職金はない」と明記されているケースと、単に記載が漏れているケースとでは状況が異なります。記載がなくても慣行があれば支払義務が生じる可能性があるため、就業規則の文言だけで安心しないことが大切です。
規程整備を進める実務ステップ
慣行退職金を廃止・変更・明文化するための規程整備は、棚卸しから届出まで段階的に進めます。一つひとつの手順を丁寧に踏むことが、将来の労使トラブル防止につながります。
制度の方向性を決める
棚卸し結果をもとに、会社として退職金制度をどう扱うかを決定します。選択肢は大きく3つです。現在の慣行を規程として明文化して継続する、内容を変更(減額・算定方式の見直し)した上で規程を整備する、または退職金制度を廃止して規程にその旨を明記する。
廃止を選択する場合でも、在職中の社員の既発生部分への対応(移行期間の設定、部分的な補償措置など)を検討することが、合理性の確保と社員への誠意の両面で重要です。企業型確定拠出年金(DC)や中小企業退職金共済(中退共)への移行を代替措置として組み合わせるケースもあります。
労働者代表への意見聴取と周知
就業規則または退職金規程を作成・変更する際には、労働者の過半数を代表する者(または過半数組合)の意見を聴取し、その意見書を添付して労働基準監督署に届け出ます。意見聴取は同意取得ではないため、代表者が反対していても届出自体は行えますが、反対意見がある場合には変更の合理性をより丁寧に説明できる準備をしておきましょう。
届出後は、社員への周知が義務です。全員が内容を理解できるよう、書面での説明資料を配布し、質疑応答の機会を設けることを推奨します。特に不利益変更を伴う場合は、個別に説明する機会を持つことが後のトラブル防止に有効です。
個別同意書の取得と記録の保存
説明会等を通じて内容への理解を確認した上で、不利益変更を伴う場合は個別の同意書を取得します。同意書には変更内容の概要・変更日・本人が自由意思で同意した旨を記載し、会社と本人がそれぞれ保管します。署名を求めるタイミングや場の設定(上司から個別に署名を迫るような状況は避ける)にも注意を払ってください。
規程整備に関わる書類(棚卸し資料・意見聴取記録・届出受理書・同意書・周知に用いた資料)はすべてセットで保存しておきます。これらは後日トラブルになったときの重要な証拠になります。
社員への説明と合意形成で押さえるべきポイント
規程の内容を整備しても、社員の理解と納得が得られなければ職場の信頼関係を損ないます。特に廃止・減額の場面では、説明の進め方そのものが労使関係のカギを握ります。
説明のタイミングと伝える内容
変更内容を社員に伝えるタイミングは、できる限り早い段階が望ましいです。実施日の直前に突然告知すると、「一方的に決められた」という不信感が高まります。実施の数ヶ月前から説明を開始し、社員が疑問を解消できる期間を設けることが理想的です。
説明すべき内容は、変更の理由(なぜ今変える必要があるのか)、変更後の制度の内容、移行期間や経過措置があればその詳細、代替措置(DC・中退共への移行など)の案内です。「財務上の理由」を伝える際は、可能な範囲で具体的な状況を共有することが、社員の理解を得やすくします。
反発・不安への向き合い方
「自分の退職金が減る」と感じた社員から反発が出るのは自然なことです。この反発を封じ込めようとするのではなく、まず「不安を持つのは当然のこと」と受け止めた上で丁寧に対話を続ける姿勢が重要です。
個別面談の機会を設け、社員一人ひとりの状況(勤続年数、退職までの見込み期間など)に応じた影響額の試算を示すことは、不安の解消に有効です。また、Q&Aを文書化して全員に配布することで、情報格差による不公平感を防ぐことができます。
まとめ
慣行による退職金は、規程がなくても法的な拘束力を持つことがあります。廃止・変更を進めるには、現在の慣行の実態を棚卸しすることを出発点に、就業規則・退職金規程の整備、労働者代表への意見聴取、労働基準監督署への届出、社員への周知と個別同意取得というステップを順番に踏む必要があります。特に在職中の社員の既発生部分への対応と、社員への丁寧な説明・合意形成が、労使トラブルを防ぐ上で欠かせません。
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