「メンタル不調が出ているから、一度出社して話したい」——フルリモートで採用した社員にそう伝えたとき、その一言が後に労働トラブルの引き金になるとは、多くの経営者が想定していません。採用時に「フルリモート勤務」を約束した場合、出社を求める行為は労働条件の不利益変更にあたる可能性があり、対応を誤ると退職・労災申請・損害賠償請求という三重のリスクが重なることがあります。この記事では、フルリモート採用でメンタル不調が生じた場合の法的な整理から具体的な対応手順まで、専任人事のいない企業でも実践できる形でお伝えします。
フルリモートで採用した場合、勤務場所は労働条件になっている
採用時にフルリモートを約束した場合、それが口頭であっても、雇用契約の内容として成立している可能性が高い。会社の判断だけで出社を求めることは、法的リスクを伴います。
フルリモートは「福利厚生」ではなく「労働条件」である理由
「フルリモートは会社のサービスだから、必要があれば変更できる」と考えている経営者は少なくありません。しかし、採用時に「フルリモート勤務」と明示して採用した場合、それは労働条件通知書や雇用契約書の勤務場所に関する定めとして扱われます。福利厚生(社員食堂、慶弔見舞金など)とは法的性格が異なり、会社側の都合で一方的に変えることはできません。
実際に多いのが、雇用契約書には「勤務場所:会社指定の場所または自宅」とだけ書いてあり、採用時の口約束では「ずっとリモートでOK」と伝えているケースです。書面と口約束の間に乖離があると、後から「言った・言わない」の水掛け論になります。
労働契約法が禁じる「一方的な労働条件変更」
労働契約法第8条・第9条は、労働条件を労使合意なく一方的に変更することを原則として禁じています。「出社してほしい」という会社の判断だけで勤務場所を変更しようとすると、この条文に抵触する可能性があります。
就業規則に「業務上の必要に応じて勤務場所を変更できる」旨の定めがある場合は、変更の根拠になりえます。ただし、その規定が合理的であること・社員に周知されていることが必要です(労働契約法第10条)。「就業規則はあるが棚の中に置いてあるだけ」という状態では、周知要件を満たしていないとみなされるリスクがあります。
自社の雇用契約書を今すぐ確認すべきポイント
以下の観点で、現在の雇用契約書・就業規則を確認してください。
- 勤務場所の欄に「フルリモート」「在宅勤務」と明記されているか
- 「業務上の必要・健康上の理由により出社を求める場合がある」旨の記載があるか
- 就業規則が社員に周知(閲覧可能な状態に)されているか
この3点すべてが整っていない企業は、現時点でリスクを抱えていると考えてください。
メンタル不調時に出社を求めることの法的リスク
メンタル不調の社員に出社を求める際は、安全配慮義務と不利益変更の両方の観点から慎重に判断する必要があります。対応しないことも、不適切に対応することも、どちらも会社のリスクになります。
安全配慮義務は「何もしない」ことを許さない
労働契約法第5条は、使用者が「労働者の生命・身体等の安全を確保しつつ労働させる義務」を負うと定めています。メンタル不調を把握した時点で会社が何も対応しなければ、安全配慮義務違反を問われる可能性があります。
一方で、医学的根拠のない出社強要は「不適切な対応」として義務違反になりえます。産業医の選任義務がない50人未満の企業では、主治医の意見書や地域の産業保健センター(無料で相談可能)を活用することが現実的な選択肢です。
フルリモート採用の社員に出社を求めることがハラスメントと受け取られるケース
問題になりやすいのは、「出社すれば回復する」「在宅だから余計に気が滅入る」といった会社側の主観的な判断だけで出社を求めるケースです。社員側からすれば、採用時の約束を一方的に反故にされた上に、不調の原因を自己管理の問題にされたと感じ、パワーハラスメントや労働条件の強制変更として捉えることがあります。
特にリモート勤務中の孤立やコミュニケーション不足が不調のきっかけになっている場合、業務との因果関係(業務起因性)が認められやすい状況にあります。社員側が「業務のせいで病気になった」と認識している場合、退職後に労災申請へとつながるケースがあります。
対応の記録が会社を守る根拠になる
メンタル不調への対応は、すべて日時・内容・対応者を記録として残すことが重要です。「いつ不調を把握したか」「どのような対応を取ったか」「社員から何を聞いたか」を記録しておくことで、後に労災申請や訴訟になったときの重要な証拠になります。メールやチャットログを保存しておくことも有効です。
フルリモート採用の社員が退職した場合のリスクと対処
出社を求めた結果として社員が退職した場合、「会社都合退職」に該当するかどうかが最初の論点になります。その判断次第で、雇用保険・損害賠償・労働審判など複数のリスクが変わってきます。
「会社都合」と「自己都合」の境界線
退職の経緯が「会社からの労働条件変更(出社要請)に同意できず退職した」という場合、ハローワークや労働局は会社都合退職と判断することがあります。会社都合退職になると、雇用保険の給付条件が変わるだけでなく、助成金の受給に影響が出る場合もあります。
「本人が自分で辞表を出した=自己都合退職」とは限りません。退職の動機が会社側の対応にある場合は、実質的な会社都合と判断されることがあります。
退職後に発生しうる具体的なリスク
| リスクの種類 | 内容 | 対応のポイント |
|---|---|---|
| 労災申請 | 退職後でも申請可能(療養補償の時効は5年)。リモート中の孤立・長時間労働が業務起因と認定されるケースがある | 業務時間・業務量・コミュニケーション記録の保存 |
| 未払い賃金・有給残 | 有給休暇の未消化分は賃金として請求される。時効は3年(2020年民法改正後) | 退職時に有給残日数を確認し退職合意書に明記 |
| 損害賠償請求 | 安全配慮義務違反・不当な労働条件変更を根拠とした民事訴訟 | 対応記録・医療機関との連携記録の保存 |
| 口コミ・SNS拡散 | 転職口コミサイトへの書き込みや、SNSでの情報発信 | 退職時の対話・合意形成を丁寧に行う |
退職時に整えておくべき書類
退職が決まった段階で、まず有給休暇の残日数を確認し、退職日の設定に組み込みましょう。次に、退職合意書を作成することを検討してください。退職合意書には「双方合意で労働契約を終了した」「退職日・退職条件に相互に合意した」「その他の請求権を清算した」旨を盛り込むことで、事後的なトラブルリスクを下げることができます。退職届(社員が一方的に出す書類)と退職合意書(双方が署名する書類)は性格が異なりますので、混同しないよう注意が必要です。
残った社員への影響を見逃さない
「出社を求めたら辞めた」という事実は、フルリモート勤務中の他の社員にも伝わります。この出来事が組織全体の信頼低下につながるリスクを、多くの経営者は過小評価しています。
フルリモート採用の約束が守られない会社という印象の広がり
フルリモートを条件に入社した社員が複数いる場合、一人への対応が「前例」として認識されます。「うちの会社はリモート勤務を約束しても、会社の都合で変えてくる」という認識が広がると、エンゲージメントの低下・転職活動の開始・連鎖離職へとつながりやすくなります。特に採用市場でリモートを売りにしてきた企業ほど、このダメージは大きくなります。
心理的安全性の低下がメンタル不調を連鎖させる
残った社員が「不調を申し出たら出社を求められるかもしれない」と感じると、体調不良や悩みを抱えていても申告しなくなります。これが早期対応の機会を奪い、より深刻な不調につながるリスクを高めます。一つのトラブル対応が、組織全体の心理的安全性に影響を与えることを意識してください。
社員への説明と方針の明確化
退職者が出た後は、残った社員に対して「会社としてリモート勤務をどう位置づけているか」「不調が出たときにどのような対応をするか」を改めて説明することが重要です。「言わなくてもわかる」ではなく、方針を言語化して共有することが、組織の信頼回復につながります。
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再発防止のために今すぐ整備すべき対策
同じ問題を繰り返さないために必要なのは、雇用契約書・就業規則・社内運用の三層で対策を整備することです。文書が整っていれば、問題が起きたときの対応スピードと法的根拠が大きく変わります。
雇用契約書・労働条件通知書に明記すべき内容
フルリモートで採用する場合、雇用契約書または労働条件通知書の「就業場所」欄に以下の内容を明記しておくことを推奨します。
- 「原則として自宅(フルリモート勤務)とする」と明記する
- 「業務上の必要性がある場合、または健康管理上の判断が必要な場合には、会社と本人の協議の上で出社を求めることがある」旨を追記する
- 出社を求める際の手続き(協議→合意→期間設定など)をできる限り具体的に書く
「協議の上で」という文言が入ることで、一方的な命令ではなく合意に基づく変更であることが明確になります。
就業規則への追記ポイント
就業規則に以下の規定が整備されているかを確認してください。就業規則が10名未満の企業に義務付けられていない場合でも、書面で定めておくことはトラブル予防に有効です。
- 在宅勤務・テレワークに関する規定(勤務場所・連絡方法・労働時間管理)
- 健康管理上の理由による勤務場所の変更に関する規定
- メンタルヘルス不調時の対応フロー(申告→確認→対応の流れ)
就業規則を変更した場合は、全社員への周知(閲覧可能な場所への掲示、または電子交付)が法律上の要件です。棚にしまっておくだけでは周知とは認められません。
採用時のオンボーディングで伝えること
書類の整備と合わせて、採用時のオンボーディング(入社時説明)でリモート勤務の運用ルールと「例外的に出社を求めることがある状況」を口頭でも説明しておくことが重要です。書面と口頭の両方で説明した記録(説明日時・担当者・受領署名など)を残しておくことで、後から「聞いていなかった」と言われるリスクを下げることができます。
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まとめ
フルリモートで採用した社員へのメンタル不調対応・出社要請は、労働契約法・安全配慮義務・労災リスクが複合的に絡み合う問題です。「出社してほしい」という一言の前に、まず雇用契約書と就業規則の内容を確認し、社員との協議記録を残すことが最低限の対応として求められます。対応しないことも、根拠なく強制することも、どちらも会社のリスクになります。
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よくある質問
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