「残業申請は出ていないから、うちには長時間労働者はいない」——そう思っていた会社が、従業員の過労による体調不良をきっかけに損害賠償請求を受けた事例は、決して大企業だけの話ではありません。専任人事がいない中小企業ほど、安全配慮義務への対応が後回しになりがちですが、法律上の義務は従業員数に関係なく適用されます。この記事では、経営者が実務として「何を・どのくらいやれば」義務を果たしたと言えるのか、具体的な手順と記録の残し方を整理します。
安全配慮義務とは何か、経営者が問われる責任の範囲
安全配慮義務とは、使用者が労働者の生命・健康を守るために必要な措置を講じる義務のことです。義務違反が認定されると、民事上の損害賠償責任(民法415条・709条)だけでなく、労働安全衛生法違反として刑事責任を問われる可能性もあります。
法的根拠を正確に押さえる
安全配慮義務の根拠となる主な条文は、労働契約法第5条です。「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」と定められています。この「必要な配慮」の中身が具体的に何を指すかを知ることが、経営者にとって最初の一歩です。
義務違反で問われる責任の二つの側面
安全配慮義務違反があった場合、責任は民事と刑事の両面から問われます。民事では、従業員本人やその遺族から損害賠償請求を受けるリスクがあります。刑事では、労働安全衛生法違反として送検・罰則の対象になることがあります。「悪意があったわけではない」「知らなかった」という事情は、法律上の免責にはなりません。
中小企業だから免除されるわけではない
安全配慮義務は、従業員規模にかかわらず全使用者に適用されます。産業医の選任義務(50名以上)やストレスチェックの実施義務(50名以上)とは異なり、長時間労働に関する安全配慮の義務には規模要件がありません。「うちは小さいから」という認識は、経営リスクを見誤る原因になります。
労働時間の把握義務、どこまでやれば「把握している」と言えるか
労働時間の把握は、安全配慮義務を履行するための大前提です。労働安全衛生法第66条の8の3(2019年施行)により、使用者はすべての労働者の労働時間の状況を客観的な方法で把握しなければならないと定められています。
「客観的な方法」とは何か
厚生労働省の「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」(2017年)では、把握方法として、タイムカード・ICカード・PCのログイン・ログオフ記録などの客観的データを原則としています。自己申告制のみによる把握は「客観的な方法」とは認められない場合があります。
特に注意が必要なのは、残業申請の時間と入退室記録・PCログの時間に大きな乖離がある場合です。その差分も実態として労働時間とみなされるリスクがあり、「申請がないから知らなかった」という言い訳は通りません。客観データと申請データを定期的に突き合わせる運用が必要です。
管理監督者・裁量労働制の従業員も対象になる
労働時間把握の義務は、管理監督者や裁量労働制が適用されている従業員にも及びます。「あの人は管理職だから関係ない」という判断は誤りです。健康管理の観点から、全員の労働時間の状況を把握することが求められています。
勤怠システムを導入しているだけでは不十分なケース
勤怠システムを導入していても、従業員が自分で入力する仕組みであれば、実態と乖離する可能性があります。システムの打刻時間と実際の業務終了時間が一致しているかを確認する仕組み——たとえばPCのシャットダウンログとの照合や上長による確認承認フロー——を合わせて整備することが、実務上の「把握」として認められやすくなります。
月80時間超の従業員への面談、誰が・何を・どう記録するか
時間外・休日労働が月80時間を超えた従業員には、医師による面接指導の機会を設ける義務があります(労働安全衛生法第66条の8)。この義務は、50名未満の事業場にも適用されます。
産業医がいない場合の面談の進め方
50名未満の企業には産業医の選任義務はありませんが、月80時間超の従業員が出た場合の医師面接指導義務は適用されます。自社に産業医がいない場合は、以下の方法を検討してください。
- 地域の産業保健総合支援センター(都道府県ごとに設置)を通じた産業医の紹介・派遣
- 外部の産業医サービス・顧問産業医の契約
- かかりつけ医・内科医への個別相談(ただし産業医面談の代替として記録に残す必要あり)
また、医師面接指導は「申出があったときに実施する」だけでは不十分です。会社側から対象者を特定し、面談の機会を設けたことを通知・記録することが必要です。産業医不在の場合でも、外部リソースを活用して義務を果たすことは十分可能な企業規模です。
経営者・上長が行う面談との違いを理解する
医師による面接指導とは別に、経営者や上長が行う「状況確認の面談」も安全配慮義務の履行として重要です。ただし、これは医師面接指導の代替にはなりません。二つを組み合わせて運用することで、より厚い安全配慮の実績を作ることができます。経営者が面談する場合は、体調・業務量・睡眠状況・精神的な負荷などを確認し、その内容と対応策を必ず書面に残してください。
面談記録に残すべき項目
面談を実施しても、記録がなければ「やっていない」と同じ扱いになるリスクがあります。面談記録には少なくとも以下の項目を含めることを推奨します。
| 記録項目 | 記載内容の例 |
|---|---|
| 実施日時・場所 | 〇年〇月〇日 15:00〜15:30 応接室 |
| 対象者・面談者 | 氏名・役職(双方) |
| 該当月の時間外労働時間 | 〇時間(客観データの記録番号を添付) |
| 体調・睡眠・精神状態の確認結果 | 本人の申告内容を要約して記載 |
| 業務量・原因の確認 | 繁忙期・特定業務の集中など |
| 講じた措置・今後の方針 | 業務の分担変更・残業上限の設定など具体的な内容 |
| 次回確認予定 | 〇週後に再度状況確認 |
改善指示を「記録として残す」運用フローの作り方
口頭での改善指示は、法的にはほぼ意味をなしません。安全配慮義務を「履行した証拠」として機能させるには、指示内容・日付・担当者を書面で残すことが不可欠です。
改善指示を口頭で終わらせてしまうリスク
「残業を減らすよう言った」「負担が大きそうだったので声をかけた」という事実があっても、それが記録されていなければ、いざ労災申請や損害賠償請求が起きたときに会社側の主張を裏付ける証拠がありません。安全配慮義務の履行においては、「実際に行ったかどうか」だけでなく「行ったことを証明できるかどうか」が問われます。
残業管理の改善指示をフロー化する
専任人事がいない企業では、属人的な対応になりがちです。以下のように、判断基準と対応手順をあらかじめ決めておくことで、誰でも同じ水準の対応ができるようになります。まずは月次の労働時間を集計し、一定の閾値(たとえば月45時間・80時間)を超えた従業員を自動的に抽出する仕組みを作ります。次に、抽出された対象者の上長が状況を確認し、改善指示と具体的な措置(業務分担の変更・残業の事前承認制の適用など)を書面または社内ツールに記録します。最後に、一定期間後にフォローアップを行い、改善の有無を再確認して記録に残します。
記録を「証拠」として機能させるための保管ルール
面談記録・改善指示書・労働時間のデータは、少なくとも3年間(労働基準法上の保存義務期間)保管することが原則です。ただし、訴訟が長期化する可能性を考えると、5年以上の保管を推奨する実務家も多くいます。電子データで保管する場合は、改ざんができない形式(PDFへの変換・クラウドストレージへの保存等)で管理することが望ましいでしょう。
体調不良・休職申請が出た後、経営者がすぐにやるべきこと
長時間労働が原因で従業員が体調を崩した場合、事後対応が遅れると労災認定や損害賠償リスクが高まります。発症後は、まず状況の確認と記録を最優先にしてください。
発症直後に確認すべき事項
従業員が体調不良を訴えた、または休職を申請してきた場合、最初にやるべきことは「事実の記録」です。いつ・どのような症状が出たか、本人から申告があったか、その時点での業務量・労働時間の状況はどうだったかを速やかに記録します。感情的な判断や「大丈夫だろう」という憶測で対応を遅らせることが、後々の責任拡大につながります。
労災の可能性を正確に判断する
長時間労働による体調不良や精神疾患は、業務起因性が認められれば労災(業務上の疾病)として認定される可能性があります。「本人が元々メンタルが弱かった」「プライベートの問題もある」といった事情があっても、業務上の過重負荷が主因と判断されれば労災認定されるケースがあります。主治医や社会保険労務士に相談しながら、会社として適切に対応する姿勢を示すことが重要です。
復職支援まで見据えた対応を整える
休職に入った場合、復職に向けた支援体制を早期に整えることも安全配慮義務の一部です。復職の可否・時期・業務内容の調整については、主治医の意見書を取得した上で判断することが基本です。復職後の就業制限(残業禁止・業務軽減など)も書面で設定し、定期的なフォローアップを記録しておくことで、再発リスクの低減と会社側の義務履行の両方を示すことができます。
まとめ
長時間労働に関する安全配慮義務は、規模を問わずすべての使用者に課されています。経営者がやるべき対応を整理すると、まず労働時間を客観的な方法で把握すること、次に月80時間超の従業員には医師面接指導の機会を設けること、そして改善指示と面談の内容を必ず書面で記録・保管することの三点が核心です。「やっている」だけでなく「やったことを証明できる」状態を作ることが、経営者を守ることにもなります。
ウェルセンス株式会社では、専任人事のいない中小企業の経営者・兼務人事担当者の方を対象に、メンタルヘルス対応・休職復職支援・安全配慮義務への実務的なサポートを提供しています。記録の整備方法やフローの設計について、一度専門家と現状を整理しておくだけでも、後々のリスク軽減につながります。「どこから手をつければいいかわからない」「今の対応に抜け漏れがないか確認したい」という段階でも、お気軽にご相談ください。
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